ルカによる福音書1章26―38 「神にできないことは何もない」

石井和典牧師

 アドヴェントに入りました。主の到来を待ち望む時期です。主イエスは皆様の救いのために来られました。皆様を救い、ご自身は命を捨てるためです。一体何千年のときが費やされたことでしょうか。聖書を初めから最後まで読みますと、キリストの贖いが既に聖書のはじめの創世記に記されていることが分かってきます。預言の言葉ははじめから最後まで貫かれています。創世記3:15。

 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。

 人を惑わし、罪に陥れた蛇。サタン。罪に陥った結果、神との関係が断絶された。しかし、このサタンの頭が徹底的に打ち砕かれた。人が神のもとに帰ってくることができるようになった。主イエスの贖罪が達成されたからです。

 イエス様はマリアから産まれました。確かに人間の子孫としてこの世に誕生なさいました。肉において、救い主はマリアとつながりがあります。そのことがすでに、創世記の中に「女の子孫」という言葉で記されています。これは預言の言葉でありました。

 サタンに勝利し、人を完全に神と結びつけることができたのは主イエスのみです。自らが贖罪の死をとげられて、罪なきものが罪の犠牲となり、その結果、汚れなき血によって清められる。そのために、神が人となるということが、どうしても必要でありました。主イエスは、真の人として十字架にかけられ、罪なき神の独り子として、その血を永遠の贖いのためにささげられました。この驚くべき出来事が成就するためには、救い主が、人間の女から生まれ、同時に、神の霊、聖霊によって宿り、神の独り子であるということが実現しなければなりませんでした。

 メシアが単なる人間として生まれることをもっては、永遠の贖いは達成されません。永遠の贖いのためには、高価で尊く、清い血がささげられなければなりませんでした。永遠の贖いが達成されない限り、人は神と永遠に住まうことはできません。だから、汚れた人間が犠牲になり、罪ある人の血の犠牲によっては永遠の贖いは達成されなかったのです。天に我々が行くためには、神であり人である主イエスの血による犠牲が必要でした。

 永遠の贖いに関するご計画が、創世記のはじめ、人が罪を犯したその時。アダムとエバが道に迷ったその時から、神の救いの計画はすでに始められていました。創世記3:21には。

 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

 と記されていますが、楽園を追放されて、神の守りなしに生きなければならなくなった者が、やがて動物の犠牲によって、神との間に赦しを得ることができるというモーセの律法に繋がる道が準備されているということが暗示されています。神の目に、救いの計画への道備えがすでに始まっていたのだということが見えてきます。

 人間には、何も見えていなくても、救いの計画というのは、始まっている。このことを、聖書から読み取って、自分の人生の中に、友の人生の中に、愛する日本のために、愛する世界のために、すでに救いの計画が準備されていると信じることが肝要であります。

 救いの計画は人類が拒否しないかぎり、全ての人に準備し、開かれているものです。すべての人としっかり書かれていることを私たちは記憶しなければなりません。マタイによる福音書28:19。

 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

 「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」

 この言葉は何があっても消し去られない。神の御心、愛のあらわれ。神の心そのものです。現在早天礼拝でヨナ書を読んでおりますが。ヨナは、アッシリアの非道を行う人々に対して「あいつは救われるべきじゃない」「あんな非人道的な連中が神の心に適うはずがない」「絶対に赦さない」と考えていました。その人達が、実は神の救いの対象であったということを知るのです。

 救いの計画を見ようとするものに、主はそれをやがてお見せくださる。しかし、それを見ようとしないで別の方角に向かって、歩んでいくものに対しては、主は、それに気付かせるために懲らしめをご準備くださいます。ヨナは海に放り出されて、魚にのみ込まれました。その時になってはじめて気づきました。死にそうになってはじめて気づきました。死にそうになるまえに、気付いて、誰かの救いのために出ていく人が一人でも多く起こされるようにと、主の御名により願います。

 さて、救いの業は、マリアにだけ起こったものではありません。洗礼者ヨハネの母であるエリサベトにも不思議な業が起こされました。不妊の女性であったのに、懐妊します。神さまの業というのは、つながっていて、連鎖反応的に、心ある人を起こしていくのです。神さまは特に悲しみを抱えている方をお用いになられる方です。子どもが与えられないということは、当時は神の祝福から外れてしまっているのではないかとの疑念を抱かざるを得ないことでした。神の祝福は親類が増えて広がっていくというところに現されるからです。しかし、神は、悲しみを背負っている人に目をとめるのです。

 エリサベト、ご主人ザカリア、子どもが与えられなかった年老いた夫婦に喜びをお与えになられます。

 ザカリアは祭司でありました。祭司たちは24の組に別けられ、組ごとに当番が回ってきて神殿に入ることができました。ザカリアの組が当番になっているときに、ザカリアはくじであたって、自分が香をたくために神殿の聖所に入っていくことになりました。皆が外で主に祈りをささげている中。神殿の中でザカリアは天使と出会いました。

 祭司にとって神殿の聖所に入るということは、一生に一度あるかないかのときです。ザカリアとエリサベトの祈りは、「主によって子宝が与えられたい」という祈りは、ずっと神の前に届き続けていました。その祈りに主が応えてくださったのですが。さらに幸いなことに、天使が受胎告知を行ってくれたのです。というのも、あまりにも大きな使命がその子どもの肩に背負わされていたからです。洗礼者ヨハネとして、キリストの道備えをするもの。主の道をまっすぐにするために改革運動をおこすもの、それがエリサベトとザカリアの子、洗礼者ヨハネだったからです。ルカ1:13で天使は言います。

 恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。

 天使が突然現れたのですから、恐れないはずはありません。神の業の偉大さの前にひれ伏したことでありましょう。しかし、恐れる必要はないのです。それはなぜかといえば、全て主の贖いの計画、主が為さりたいことのために用いられるから。何千も前から計画されていた、主の御業だから。必ず主の業が成就することになる告知であるから。誰に何と言われようとも、祝福になる。そういう人生を歩むことになるから恐れることはないのです。

 我々が本当に恐れ、警戒する必要があるのは、主を排除してしまう自分の心です。主がこのように生きなさいと示してくださっていても、それを聞こうとしない自分の心です。神の言葉によって様々に、心に示しをいただくわけです。クリスチャンになる前から、ああするべきだ、こうするべきだ、神がおられるならこのように生きる必要がある。そういったことは薄々というか、神からの語りかけがあって気づき始めているのです。しかし、それが自分への語りかけとして響いてこない。だから、自分は一切動かない。このような状態をこそ本当は恐れるべきです。心を開かない、頑なさ、頑固さ、傲慢さ、を本当は恐れてしめだす必要があります。

 傲慢さとか、頑なとか言う言葉は詩編の中に沢山でてきます。ダビデが敵に対して使っている言葉です。息子であるソロモンの箴言の中にも「傲慢」が問題であることが何度もできます。王の王であるダビデの特徴は、神の前における謙遜さでした。そして、悔改めよと言われたらそれを真に自分への語りとして聞いて生きるのです。

 神が祈りを聞いて全能の御手を動かしてくださる、さらに、その子どもは聖霊に満たされて素晴らしい神の業を行う子になるだろうと言われているのに、ザカリアは信じなかったようです。

 なぜ信じなかったのか、常識的に、この年齢で子どもが与えられて出産まで至るということはありえないと判断したからです。現実的な、リアリスティックな判断です。しかし、その判断は、神は全能であられるのに、その全能さを認めない判断でもあります。そして、語りかけられても心を変えず、自らの判断力に頼り、神の言葉を信じることを怠る。これこそが傲慢です。

 言うなれば、自分で神の業を判断しているのです。判断されるべきは人間の側であって、神ではありません。私たちが神を判断し、こんなこと起こらないよと言うのはおかしいのです。しかし、大抵、人間はザカリアと同じことをしているものです。

 自分の視座の中で、現実的に可能なことしか考えない、受け入れない、聞いても信じない。これがザカリアの罪でもあり、私たちの罪です。ザカリアは話をすることができなくなります。神さまからの懲らしめです。

 神さまからの懲らしめがある時は、幸いです。神さまの業がそこにあると間違いなく言うことができるからです。懲らしめによって気付くことができるからです。

 神が願っていないことをして、その結果うまくいかず、壁にぶち当たるということは、非常に偉大なる恵みです。神が滅びに向かう歩みから解放してくださるという前兆です。

 物事がうまく運んで、順調にいって、尊大になって、その結果、自分で自分のために計画したことばかりを人生で行って。最後に神さまに、「お前と私との間に何の関係があろうか」などと言われてしまった日には、もう。。。

 だから、ストップさせられて、ダメになるということは、非常に偉大なる恵み。神の介入です。

 ザカリアの罪にもかかわらず、神の業は継続され広められていきます。神が実行されると願われたことは、たとえ人の罪が入り込んでも必ず実現されます。人は神の業を邪魔することはできません。

 天使ガブリエルは、ザカリアのところだけではなく、マリアのところにも現れます。マリアとザカリアとは非常にわかりやすい対比をなしております。マリアも考えることができないほど、恐るべきことを知らされるのです。何より、ザカリアよりももっと大変なのは、いいなずけのヨセフがいるのにもかかわらず、そして、婚約後1年間の純潔の期間、誰とも性的な関係を持つことを許されない期間。もしも、それを破るものならば、その人は死刑に処せられる。その婚約後1年間の間に、子どもが与えられてしまうという主の御告げでありました。

 常識的に考えて、「おめでとう」ではない。「たいへんだ」いや、「ぜったいにそんな状況いやだ」「できれば逃げたい」そんな状況でしょう。しかし神の視座からすれば、救いにあずかっている私たちからすれば、マリアの存在、ご懐妊は「おめでとう」でしかない。

 しかし、マリアの肉の目では「おめでとう」の状況は見えるはずもない。肉の目をもってしてはなんにも見えてないのです。

 肉の目をもって見えるものしか信じない。信じられない。それがザカリアです。天使にいくら言われても信じられないのです。しかし、神を信じるということは、肉の目に見えるものだけを信じるという道では全くありません。そうではなくて、見えない神のビジョンを信じる道です。神のビジョンはまだ現実になってはいないものです。ありえないとさえ思えるものです。ルカ福音書1:31。

 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配はおわることがない。

 田舎であり、農村であるガリラヤのナザレに住み、静かに信仰によって慎ましい生活をしていたものが、ダビデ王と関連するような、人生に自分が王のように高くあげられるなどとどうして考えられましょうか。確かに、マリアはダビデの血筋、ダビデの息子ナタンの血統を継ぐものでありましたが、王という言葉からはあまりにもかけ離れた田舎暮らしをしていたのです。永遠の王座など誰が信じえましょうか。ルカ福音書1:34。

 「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

 マリアは天使の言葉を拒絶しているようにさえ思えます。しかし、神は、人の心にあることをすべてお見通しで、マリアが信じ、理性では、常識的には信じることが難しかったとしても、それでも神の言葉に従おうとするその姿勢をすべて見ていてくださいました。従おうとするマリアに、主はご自身がどのようなお方であるかを、天使の言葉をもってして証ししてくださったのです。

 主の言葉を聞き、そのまま信じることができる民というのは何と幸いなのでしょうか。

 神にできないことは何一つない。

 祈り従っていくマリアにとって、主の御心であるならば、できないことは何一つない。男性を知らない娘が子を宿すことがありうる。全能の主の力以外にこのことは実現不可能です。しかし、主の力によって成るのです。彼女にはもうほか必要なものは何もありません。必要な日用の糧を求めて心をなくす必要もありません。必要なものはただ一つ、主です。

 マリアは自分は主の奴隷ですと宣言します。ルカ福音書1:38。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

 はしためというのは、当時の社会に当たり前のように存在した奴隷のことです。マリアは誰に言われたのでもなく、自らのぞんで自分の自由を差し出して、主の奴隷として生きていくことを喜んで宣言したのでした。

 神がなさりたいことがすべてのこの身になるように。

 例えそれが十字架の道のりであったとしても。自分が処刑されるという道であっても。そう思われたのは主イエスです。この全能の父なる神への信頼が、マリアの中に生まれ出てきています。

 主がなして下さることだったらどんなことでも。どんな道でも。自分を捨ててそのように歩むものが沢山出てくる。それが現代、終わりの時。主イエスはマタイによる福音書16:24で、このように言われました。

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 神の業が、「ヨセフとの間に思い描いていた幸せな人生プラン」を捨てたマリアに起こりました。

 主の御言葉はそのまま実現します。自分を捨てて主に従うものを主の御名によって祝福します。アーメン。