マタイによる福音書1:18―25 「インマヌエル」

石井和典牧師

 どこからともなく風のようにやってきて、事を行われる聖霊。主のご計画を実現するために、私たちが意識できない時から、その働きが始められています。気づくのはあとになってからかもしれません。

 しかし、神の霊のお働きは、確実に行われている。私たちの周りで知らない内に起こっている。神の計画を成就させるために。

 聖霊によって宿るとは。聖霊によってキリストがご臨在くださるということです。

 マリアにとってはそれが実際の受胎という形で起こりました。現代のクリスチャンには、すでにキリストの内に住むということが起こっています。マリアのように妊娠はしませんが、マリアと同じことが起こっています。恐ろしいほど大きな恵みです。

 聖霊の炎がわが内に確かに宿っています。

 旧約の民がずっと求めてやまなかった主のご臨在。これを味わうことが現代のクリスチャンにはできるのです。コリント3:16。

 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

 それから、コリント12:3も引用させていただきます。

 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 主イエスを主として告白することが出来ている人は、実はもう聖霊が内に住んでおられて、その人は、すでに神殿とされているということです。しかし、その主の恵みに対して、祈りをもって、謙遜と従順とをもって応えているかどうかということが、聖霊が満ち満ちているか、それとも聖霊がくすぶっているというか、ということと関係しています。聖霊は私たちの意思に反したことはなさいません。ですから、その支配権を委ねる行動を私たちが起こさないと、聖霊は働かれないのです。だから、使徒パウロはエフェソ5:18でこのように言うのです。

 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。

 この世の楽しみで心を満たすのではなく、それらで心を満たすのをやめなさい。聖霊に満たされなさいとパウロは勧めます。聖霊に満たされるということは、神を感知する霊と、心が非常に大きな影響を受け、また体にも関係してくることです。ちょうど、酒に酔うのと似ています。酒も口から入り、それがやがて心にも影響を与え体全体に影響を与えます。しかし、酒は神の霊ではないので、これを間違って用いると、身を崩す元となります。

 だから、酒に酔うのではなく、神の霊を味わって、この霊の中で、神のご臨在の中で喜び楽しむ。それが私たちキリスト者です。

 かつて酒を浴びるように飲んでいたのでわかります。私は霊的な渇きや、ストレスや、人生のうまく行かない憂いを、何とか酒で誤魔化そうとしておりました。酒に酔ってばかりいると、神以外の何かで誤魔化そうという発想になってしまう。酒だけではありません。あらゆることが神の霊から離れさせる誘惑になります。自分の思いに酔いしれるということ。自分の人生の幸いに酔いしれるということも。食べ物も、趣味も、遊びも、家族も、お金も。あらゆるものが、聖霊から私たちを離れさせるものになり得ます。

 これが本当に怖いことです。神を求める飢え渇きをそのまま神にぶつけていく祈りに行かないと、いつの間にか、神ではなくて世の楽しみを求めるようになってしまうのです。だから、使徒も気をつけるようにと教えます。

 しかし、聖霊の臨在には、酒やこの世の喜びに期待される効果を圧倒して凌駕する力がある。心配しないでください。聖霊の臨在はすべてのものが小さく小さく見えてくるほどの喜びがあります。心に炎が灯ってきます。力が湧いてきます。

 当たり前です、全く比較になりません。神の愛で溶かされて、神のご臨在の中で癒されることにくらべれば、他のことは塵、ゴミです。フィリピ3:8でパウロは言っています。

 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。

 キリストを知る事以外、特に自分が誇りとか心の頼りに思っていたものは全部損失であったことに気付いたのです。

 聖霊のご臨在によって物事すべて変わってしまいます。マリアとヨセフは人生を全く考えもしなかった方向に変えられてしまいました。思い描いていたのは、慎ましい家族の団欒といいますか、ささやかな幸せでした。静かにガリラヤという田舎町で、子供と小さなことに喜びを見出して暮らしたかったに違いありません。その人生が聖霊によって全く変えられてしまいました。マリアのお腹に聖霊によって子が宿りました。

 ヨセフは正しい人でしたので、マリアが石打になることを望まずなんとか離縁しようとしました。ヨセフは正しい人と表現されています。神がお考えになられる正しさというのは、人間の思いとは違うことに気付きます。

 多くの人は、法的に許されないことをしたものは、直ちに処罰されて然るべき罰を受けるべきだと考えます。しかし、そのように即座には考えなかったヨセフを聖書は正しい人だと言っています。

 神の愛というのは、間違っている人間をバッサリと切り捨てる愛では全くありません。間違っていることがあるのならば、その人がそこから立ち返って、守られ、育てあげられて成長していくことをのぞむ愛です。だから、この世の終わりが遅延しつづけている。神は最後の裁きの時をのばされて、どうにか人が立ち返ってくることをお待ちなのです。守られ、育て上げられて、成長していくことを望まれます。

 ダビデの姿をみれば、神の思いがわかります。ダビデは律法上は死罪、死刑にあたる罪を何度も犯しています。が!考えられないことに、神さまは彼の悔い改めを受け入れて、彼の運命を変えてしまいます。殺人、姦淫でさえ赦されたのです。

 人間が旧約聖書の律法から聞いて、それを杓子定規に判断して、有罪か、無罪か判断していくより前に、まずマリアが無事に生活していくことができるようにとヨセフは考えたのです。それが神さまのお気持ちと合致していました。神さまもヨセフに「そのきもち分かるよ」と言ってくださっているように思えてきます。

 自分が身を引けば、それでもしかしたらおさまることなのかもしれないと。マリアはこれで生きることができると。自分の正しさよりも、他者の幸いを最優先に考えるヨセフに、主の天使があらわれます。

 主の御業はここぞという時に、ジャストインタイムで現れます。神の業は遅くも早くもありません。だから、私たちは神の時間に自分をあわせていく必要があることをこの箇所から教えられます。神の思いに寄り添うように、神の憐れみに生き、神の愛に生き、自分がなすべきことをしているならば、その人に、ここぞ!という時を選んで神の言葉が望み、神の言葉によってその人は全く違った人生へと船出していくことになります。マタイ1:20。

 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は自分の民を罪から救うからである。」

 妻との人生をあきらめなければいけない。その悲しみの中でヨセフは神の言葉を聞きました。夢の中で。心配でちゃんと眠れなかったんじゃないでしょうか。眠れているのか眠れていないのかわからない。これからどうなっていくのかわからない不安の中で、神の業による救いを彼は宣言されるわけです。

 人間の業による救いではありません。現実的にありえそうなことによる、時系列的に予定調和的な、納得がいって、私たちが平安のうちに受諾できる神の救いではありません。現実的に考えたら、あり得なさそうなことが起こされて、ただ神の業としかいえない奇跡、普通の論理的な頭によっては受け入れることができないことによる救いを彼は得るわけです。

 詩編64編10節以下にはこのようなダビデの歌があります。

 人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚めるでしょう。主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い/心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

 人は神との関係の中におると誇るようになる。何を誇るのかというと、自分自身を誇るのでは全くなく、神の業に目覚めることによって、避けどころを発見し、喜び祝い、主の業を誇るようになるのです。それは神との正しい関係に入っている人のみです。そうでなければ決して癒やされません。

 神との正しい関係にある人というのは、自分の人生、「実は主の業が満ちていたんだ」ということに対して目が開かれているということです。言い換えると、人生の主語が「主」になっている人です。

 聖書を読んでいて、人々の罪が次々と出て来て苦しくなるところがありますが、(サムエル記下13章を読んでみてください。苦しくなります。)そういう所は、主が言葉の主語に出てきません。主のご存在を忘れている時に、人は罪を犯すのです。

 ヨセフの人生には、主のイニシアティブが満ちています。彼が、どれだけ主に対して意識を開いていたのかということがわかります。人は何ができるかではありません。主に対してどう生きるかです。主に対して謙遜であるか。従順であるかです。自分の人生の中にどれだけ主に入ってきていただくかです。それが生活の指標です。

 さらにもう一つ、ヨセフの人生から学べるのは、主に先導していただく人生は、想像もしないような人生である可能性が高いということです。思っても見なかった、自分が思い描いてもいなかったことに驚くべきことに導かれてしまう。それは神さまからすればジャストインタイムなのですが、その神のジャストインタイムは人間には全く見えていない。そのギャップの中で、主に従うこと、主に従順をおささげすることが求められるわけです。

 神のご計画は救いの計画です。だから、誰かの救いのためにあなたが用いられ、人生が、全く変わってしまいます。ヨセフが従ったおかげで、現代の私たちのクリスチャンライフがあるとも言えます。イエスさまの救いのご生涯は、ヨセフの従順がささげられることによって達成されました。それはヨセフのためでもあるのですが、何より、全人類のためです。

 しかも、その救いは恐ろしいほどに大きなもの。沢山のおびただしい人々の人生を世界を変えてしまうものでした。私もこの救いによって人生が変えられてしまいました。インマヌエル。神が我々とともにという神の思いを聞けて、それを受け入れることができたら、命が心にながれはじめる。この心の内に、聖霊の炎が通いはじめる。そして、この言葉に突き動かされうるようにして、キリストのために出ていくことになるのです。

 救いを受けて、神とのパイプラインが、ライフラインが出来て、毎日主の臨在の中祈ることが赦されて、人生の主語が自分ではなくなり、主となって、主の業が次々と見え始めた人は、かつての生き方にはもう戻りたくありません。祈らなかった人生があまりにも無味乾燥で戻りたくありません。もうこの主と共なる生活からは落ちることはできない。どうあっても、祈り続けたい。聖霊が通い、命が通いはじめるともうその人を止めることはできないでしょう。そういう人が溢れてくると、世界が変わっていくはずです。

 人生の危機、どんぞこのどんぞこで、主がすくい上げてくださった。それを体験したヨセフは、なおさら普段いついかなるときも、主の目のとどかないところは無い、主が覚えていてくださらないこの私の人生はない。そのように確信したに違いない。

 どん底まで、絶望まで落ちるということは「悪くない」ということを覚えることができます。最愛の妻と離縁しなきゃならないなんて、新婚生活を思い描いていた夫婦にとっては最低最悪の結末ですが、それでも、その最低最悪の予測を裏切って、救いを与えられるのが神であるということを知ったら、もう、何も恐れる必要はないことに気付くのです。

 ダビデはサウルの手を逃れて、ペリシテ人の町に下りました。人々に命を狙われることを恐れて、頭がおかしくなった人間を装って辛くも逃げました。しかし恥ずかしい人には言いたくない人生の場面でこそ、ダビデは歌います。詩編34:3。

 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。

 もう、おれの人生終わり。あぁ、恥ずかしい。もうダメだ。でも、神はそのダメだと思って追い詰められたその人を救われる。それを知ってしまったら、神の業は本当にいつでも期待できてしまうではないですか。貧しい人よ、本当に落ち込んでもうどうすることもできない、八方塞がりな人よ、主を讃美せよ。

 主を讃美し、神を思い描き、神に目が開き、神の業をみることができるようになり、祈りに生涯をかけることができるようになった人は、間違いなく、その人に神の業が次々と。そして、その人は復活するのです。死んでいた人生から復活するのです。

 ヨセフは絶望した人ではなく、インマヌエルという救いの言葉と並んで常に出てくるようになりました。私と救い。このように人々に刻まれることこそ幸いです。どうしようもない私と、救い。これでもいい。

 ヨセフのように、正しい人と救い。でもいい。これ以上の幸いはこの世にありません。神の業と一緒に伝えられる自分。幸いです。アーメン。