イザヤ書40章1〜8 「帰還の約束」

 復活の視点が与えられているということは恐ろしく大きな恵みです。ダメになったものも回復する。神の力によって。灰の水曜日から受難節がはじめられています。灰の水曜日に聖公会という教会では、額に灰を塗りながらこのように司祭が宣言します。

 「あなたはもともと土から生まれたので、まもなく土に返る。だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」

 「まもなく」土に帰るものであること。すなわち、死すべき存在であるということ。死に向かっているのだということを覚えました。この世での私たちの人生の結論はどんな人にも変わらず、死です。どんなに裕福な人であろうが、優秀な人であろうが変わりません。最後には全て剥ぎ取られて何もなくなります。しかし、キリストによって与えられた福音とは、その時こそ、命のはじまりであるということです。復活の命が体験される時となります。

 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12:24)

 生きるために死に向かうこと。生きるためにいかに死ぬのかを求めている。それがクリスチャンとも言えます。もう一箇所、イエス様のお言葉です。

 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(ルカによる福音書9:23−24)

 十字架、すなわち処刑、死。自らの死を背負って私に従いなさい。これがイエス様の天に向かうためのアドバイスであります。己に死ななければ天に入ることはできないのです。自分のこの世の命に執着していては天に入ることはできないのです。それら今まで頼ってきたこものをキリストの愛と、赦しのもとに捨てて。空っぽになって天に入っていく。これこそが、成長です。自分が何も持たなければ持たないほどに、キリストの思いが、天の調べが心に満ちてくる。

 言い換えると、自分の思いで心を満たすのではなく、御言葉によって心を満たすのです。

 それまでに、失敗と挫折、試練を通らなければなりません。本当に大事なものだけを握りしめるためには、そうではない他のものが何かを峻別する悟りが必要です。心の目を開くために、人は神の試練、神の裁きを経なければなりません。トレーニングというのは当初は喜ばしいものではありません。使徒パウロもこのように言っています。

 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(ヘブライ人への手紙12:11)

 「義という平和に満ちた実を結ばせる。」これが神が人に試練を与えられる目的、理由、計画であるということが分かってきます。「義という平和」というのはどういう意味かといいますと、神の前で義しいものと認められ、神のところに帰って行くということです。平和というのはヘブライ語でシャロームという言葉ですが、「元に帰る」とか「元に戻る」という意味もあります。だから、神の前で信仰を告白して、神のところに帰るということが「義という平和に満ちた実」ということの実際の内容です。

 神を心の底から信じて、神に委ねて神に立ち返っていくためには、苦しみの出来事が必要なのです。試練を経て、真っ暗なトンネルを経ないと人は神を見出すことができないようです。しかし、安心してください。必ず試練の中で神を見出すことができ、救いを体験し、生き返るという経験をすることができます。だから、暗闇の中こそが、実は新しい命を得るチャンスであるということなのです。

 本日共に見ていますイザヤ書40章は、前回も説明しましたが、内容的に新約的、「裁きからの救いと回復」が記されている箇所です。国はすでに滅亡しているのです。バビロンに捕囚として連れていかれてしまいました。バビロンの民からは「お前の神に力があるのか。無いからこんな状態になっているのだ。」と罵られ、心も体もボロボロの状態だった。家も財産も家族も失った。希望が全くついえてしまった。そういう時です。しかし、そこでこそ、イザヤは神の言葉を聞きます。そこが神の時、神のタイミングであったのです。

 以前、ヘブライ語でミッドバール(荒れ野)はダーバール(言葉)を元に出来ているということを説明しました。神の言葉を人々が聞く時というのは、人生の荒れ野と言うべき時です。そういうときでないと人々は耳を開いていないのでしょう。人生の荒れ野で神の御声を聞きます。

 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。(イザヤ書40:1−2)

 慰めよ、慰めよと言葉が重ねられています。ここに神の御心があります。神は民を慰めたいのです。なぜ民が慰められなければならないのかというと、「苦役の時が満ちた」からです。神の心とご計画の中で、ユダが試練を受けて、すべてを奪われてしまって、それでもそのタイムリミットは実は定められていたから。今こそ慰めの時。時は常に神が定めたリミットに向かって進んでおり、やがて試練の時は終わる。それが「苦役の時が満ちた」という言葉が私たちに教えてくれる内容です。裁きの時が終わると慰めが訪れる。神は人を滅ぼし尽くすために試練に会わせるのではなく、試練から立ち直って、生きることを喜ばれる父、親です。苦役というのは「戦い」とも訳せる言葉が使われています。ですから、現代の私たちにはこのように言い換えてよろしいでしょう。

 信仰の戦いを戦う、神の時が満ちるまで。すると神によって慰めのときが訪れる。

 信仰の戦いというのは具体的にいうとどういう戦いでしょうか。肉をもって戦うというものではありません。「お前に神などついているものか」「神に力はない」というような、信じていても無駄だと言う嘲りです。信じるのではなく、信じない方向に人を導いていくものと、信じるものの信仰の戦いです。

 神などいない、死してお前の人生ダメになって終わりだ。この世で成功しないと落伍者だ。様々な言葉や考えが人の内に外に飛び交います。その中で、どの言葉を選び取り、心にしまうのかという戦いがあります。神を選び取るという戦いですね。

 しかし、試練の時は終わります。「咎は償われた」と記されています。咎という言葉は、罪の結果与えられる状態のことですが。これは「ゆがみ」とも訳せます。神の前に歪んだ状態になって悟りを失い、神の導きがわからなくなって、心がゆがみ神の御手が見えなくなってしまっている。そういう歪みからの解放の時。心がまっすぐにさせられる時がきます。そして、罪に倍する報い、祝福を受ける時が来ます。

 筋肉痛から回復すると人間の体は超回復して、力が増えていきますが、それと同じように罪と歪みから立ち直り回復すると、倍する報いを受けます。倍する祝福を受けます。

 戦いの時が終わり、心がまっすぐにさせられ、倍する祝福を受ける。だから、御言葉によって慰めよ。

 40章の最後の31節に飛びますが、この40章全体が視野に入れているのは、一言で言えばメシアの再臨と復活というところまでです。なぜそう言えるのかといえば、40章の最後の31節をみていただければ分かります。

 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40:31)

 6節では「肉なる者は皆、無に等しい。」と言いながら、その肉をもった人が弱ることなく、疲れることない状態にさせられる。それは単に文学的、技巧的、ファンタジーとしてそう言っているのではありません。実際に起こることとして預言としてこのように記されています。なぜ人が疲れない状態が実現するのかというと。

 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。(イザヤ書40:10。)

 メシアが終わりの時に再び来られて、統治される。その時、人々は復活させられる。終わりの時が視野に入れられています。主が勝ち取られた聖なるものたちは、皆復活の命に預かり、今とは別の状態に変えられる。新しい体、新しい霊を得て、決して疲れることを知らない。主はその御腕で民を統治され、羊飼いとして羊の群れを養われる。40:11。

 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

 再臨の主に出会うための準備は、先程触れました、試練によって捨てるべきものを捨てるということですが。更に言えば、自分は神の前で滅ぶしかない存在であるということを認めるということでもあります。それらが今日の5―8節に記されていることです。そして、その全てを捨てていく過程で、選ぶべきものだけが残されていきます。

 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 主の風、聖霊が吹き付けると、私たちの肉に価値が無いことが分かってしまう。私たちが自分の人生を積み上げるために大切にしてきたものが、それらはやがて取り去られるものであることが分かってしまう。一瞬の命であったということが分かってしまう。しかし、唯一自分に残されているものは何かと言えば、主が約束してくださった復活の希望、主が約束してくださった回復の希望。神との関係。神が父であり、神が人生の中心であったのであり、神が救い主、神が羊飼い、神が私にすべてを与えてくださっていたのであり、神が天体を動かし、神が食べ物を与え、神が約束を与えてくださって、神が計画を賜り、神がその計画の中で復活の命を賜るために、私たちは肉においてはボロボロになって、最後はダメになる。しかし、その死は実は命であった。ということに気付かされるのです。肉を脱ぎ捨てて、必要なものだけ、神の約束の言葉だけになるための成長の道のりが今です。

 私は、キリストに出会って、人生の意味が全て変わってしまいました。生きること、健康であること、病気にならないこと、肉的に幸せであること、人が羨む人生を歩むこと。そういったことが一番ではなく、むしろ、そういったものは日々捨てていかなければならないことを悟りました。神の言葉を取って行くこと。世においては自らを死に引き渡していく生活すること。そして、キリストの命を味わうこと。これが大事なのだと思わされ。マインドも人生も全て変わってしまっています。やっと帰るべきところに帰ってきたという感覚を味わっています。

 イザヤの預言はやがて帰るべきところに帰ることができる。平和が与えられる。主が置いてくださったところに戻ることができる。シャローム。この預言を人々に与える書です。主のもとに帰りましょう。アーメン。