ルカによる福音書 15:11-32 「放蕩息子の帰還」

 神は、人間を求めておられます。探し回っておられます。

 一人の人が帰ってくることができるようにと全力を尽くされる父の姿が聖書には何度も描かれています。羊が一匹でも失われたら他の九十九匹をおいてでも、一匹を探し回る熱意。「失われたものに主は集中されている」ということをイエス様の例えから知ることができます。無くした銀貨のたとえでは、「無くしたもの」すなわち「人間」が宝そのものであることを証しされます。もし見つけたのならば近所を巻き込んで宴会を開くのだと。

 さらに本日朗読されましたルカによる福音書15:11以下では兄と弟と父親の例えでなくしていた弟が帰ってくるという話をなされます。一体主イエスは何回同じような話を繰り返すのでしょうか。

 失ったもの、人を再び得る喜びが、三度にわたって語られます。

 三回もです、もちろん話の内容はかなり違うのですが、失ったものを回復する喜びという話を同じ時に、同じ場所で語られるということはとても大きな意味を持っています。

 ピンと来られた方おられるかもしれませんが、3回というのは完全数です。神の数字です。神さまは、どこまでも完全に、常に、人を求めて探し回っておられるのだ、そして、もし一人の人が見つかったのならば、そこに偉大なる天の喜びがあるのだということを物語るのです。

 一人の人が帰ってくることに並々ならぬ熱意を注がれる。それが私たちの信じております全能の父なる神であることがわかります。御子キリストは失われたものを探し救い出すために来られたからです。(ルカ19:10)

 探して、探して、探しぬく。この神のご意思の中に教会は入れられています。

 放蕩息子の帰還のたとえを見ていきましょう。登場人物を三者、頭に入れてください。父、兄、弟です。イエス様のたとえ話は基本的にいつも神の国とは一体どういうものかを証しされるものです。神がおられるところ天とは一体どんなところか、神がクリスチャンの心を支配し、この世でクリスチャンの心の中に神の国が広がっていっている。それはどういうものか。主イエスが語られる神の国のたとえというのは様々な意味合いを持ちますが、基本的に「神がおられるところはどんなものか」ということを証しする内容です。

 そして、いつも不思議なことにこのたとえを読む時に、人間は何か不思議な違和感というものを覚えるのです。こんな前提あるのかなというような前提がもとになっていることがあるからです。その違和感のあるところに神の心が反映されています。

 まず、本日の例え。財産を弟に与えてしまう父親。ここに違和感を感じます。この前提自体がありえないのです。当時のユダヤの社会は家族の絆は非常に強く、それは経済的な結びつきとしてもありました。父の力によって家族が皆食べていけるということがあった。それを父が生きている今この段階で分けてしまうということは、その家族の生活全体を変えることになってしまいます。

 というよりも、父が生きている段階で財産を分与してしまうなんていこうとはありえないことでありました。常識ハズレもいいところです。

 この息子の願いは、父親に対して非礼極まりない思いです。生きている内に父の財産を与えて欲しいということは、言葉を変えれば父親が死ぬことを望んでいるというようなメッセージにも受け取られ兼ねません。

 しかし、父は何も言わずにこの弟の言うことをそのままに財産を分けてやります。父はこの息子に対してどれだけ悲しみを覚えたことでありましょうか。

 これまで手塩にかけて育ててきた息子が全く別の方向を向いて歩み始めてしまいます。しかも、その前途に希望というか良い兆しは見えません。そこには我が為というような息子の愚かな姿しか残念ながらこの箇所を読むだけでは見えてきません。

 現実にはありえない父の寛容さです。しかし、天の父の寛容さというのものはこれほどまでに深いものであるのだよと、キリストは例えを通して教えようとされているように感じます。実際の人間の生活においては、神から自由意志を存分に与えられているのが現実です。誰も、心の中まで強要されることはありません。

 信仰が天の父である神さまから強要されるということはありえません。神に対してどんな態度を取るかということも自由です。神の心を踏みにじるような心や思いをもっていてもそれは自由です。しかし、その自由をどのように使うかによって起こってくる結果の責任は負わねばなりません。

 父のもとで沢山の財産とともに、父の守りのもと、父の指導や教えのもとに、財産を生かし増やし、ひいては家族のため、また隣人のために使うことができる道が準備されていました。しかし、彼はそれを自分のためだけに使おうと思って独占してしまいます。ルカ15:13。

 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

 父から譲り受ける財産というのは、土地なども入ります。しかし、父が生きている間土地を換金することはできませんので、おそらく土地は諦めてその他の財産だけ得て、それを換金したのだと思われます。ということは焦って、深く考えずということであったでしょう。深く考えずに行動したことですので、そのお金はまた、深く考えずに使い果たすことになってしまいました。

 遠い国に旅立ちとも記されています。遠い国とは異邦人の地という意味です。信仰によって物事を考えるところではない。むしろ、神への思いから程遠いそういう場所にあえて行って、自分のやりたいようにして、父の目から逃れて、すべて浪費してしまったということです。父親の財産はそんなに少ないものではなかったはずです。しかし、感謝も考えもなく放蕩の限りを尽くしてしまえば、一瞬で吹き飛びます。

 さらに悪い事に、そこに飢饉が起こる。どん底の底まで落とされます。食べるものを求めて、豚の世話をするものにまで身を落とします。ユダヤ人にとって豚は不浄の動物とされていました。だから食べないのです。その汚れた動物の世話をするというのはユダヤの文化の中では屈辱でした。この仕事に就くということ自体が彼らにとっては考えられないことでした。しかし、もうそういうメンツもプライドも関係なく、食べていくためにはそこで働くしかない。豚が食べているいなご豆を眺めながら、あのいなご豆を食べたいとまで思うようになってしまった。落ちるところまで落ちた弟の姿です。

 この異邦人の土地に財産の分前をもって来たときには、金持ちのお坊ちゃまのような風体であったに違いありません。金を持っているうちは周りの人々はちやほやしてくれたでしょう。しかし、いまは惨めにも、豚のエサをあさるものへと落ちてしまいました。

 

 しかし、この豚の餌をあさるような生活でこそ、彼には回心が与えられたのでした。ルカ11:17。

 そこで、彼は我に返って言った。

 と記されています。落とされて、いや自ら落ちて、我に変えるのです。我に帰った弟は何と言ったのか。その言葉に信仰の真髄が記されています。ルカ11:17―19。

 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

 我に返ったということはどういうことかというと、全く方向を換えたということです。元有るべき場所のほうに自分を向けたのです。有るべき場所と別の方向を向いて歩き出したのが、彼が父親の財産を金に換えたというところだった。すなわち、父親が備えてくれていた圧倒的な恵、父親が示してくれていた愛。そういったものに全く背を向けて自分で自分なりの人生だけを好きなように歩むために、方向を換えて家を出て来たのです。

 しかし、いま、我に帰ると、全く愛から程遠い生活の中で、地に顔をつけるような生活をし、豚の食べ物まであさらなければならない生活をしてみると、かつての父の深い愛情に気付かされたのです。その愛を恋い焦がれ、渇きに渇いている自分を発見したのです。その愛に再び預かりたいという思いがふつふつと心に湧いてくることを感じるのです。そして、方向を変えて、もと来た道を帰っていこうとします。その時には、心からの悔い改めの言葉を携えています。悔い改めた人の言葉というのは潔いです。言い訳など一切しません。

 「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」

 雇い人の一人にしてくださいと言っていますが、日雇い労働者の一人としてください、もう息子であることはできません。と、かつての「財産をよこせ」というような傲慢な態度からは程遠い姿となって彼は父親のもとへと帰っていったのでした。

 繰り返しますが、一切の弁解も、自己弁護もありません。必死に父の愛を乞い、必死に渇きを父の憐れみと愛によって満たそうとするものの姿。これが悔い改めたものの姿です。

 

 20節以降。父の姿が描かれています。この姿を心に刻んでください。主の癒やしはここにあります。

 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 息子が父親を忘れて勝手に放蕩の限りを尽くしているときも、豚のエサを漁ろうとしていたときも、父親は片時も忘れることなく、今日帰ってくるかもしれないと父親は待ち続けていたのです。毎日外にでれば遠くを眺めて息子が帰ってくるかもしれないと思い続けたに違いありません。なぜなら、父親は、息子を見るやいなや「走った」からです。

 私はこの父が「走った」というところに全ての思いが注ぎ込まれているのを感じます。大人になると普段走らなくなります。走るということは特別なことです。しかも、当時の服装は裾の長い服を着るというのが、一家の主としては当然でした。走るということは裾をまくり上げなければできない行動です。それは恥ととらえられ。昔の中東の一家の主は決して走らなかったようです。しかし、もうなりふり構わず、待ちに待ち焦がれていた息子が帰ってくるということで、父は裾をまくりあげて走ったのです。

 憐れに思いとも書かれています。他の聖書の翻訳を見ると「かわいそうに思い」とも書いてあります。調べてみますと、本当は憐れみの最上級を意味する言葉が使われているのです。

 待ちに待ち焦がれて、心底かわいそうに思って、思わず走り寄った。そして、抱きしめて、接吻をしたのです。

 これが神さまの姿です。父の姿として描かれた神。

 私たちが皆実際に経験する天の父なる神との出会いです。

 主は一人のひとが帰ってくるのを待ち焦がれておられ、帰ってくるのを見るやいなや走りより、抱き締め、悔い改める一人の人の涙を拭われます

 

 息子は度々、父への懺悔の言葉を口にします。21節にも記されています。

 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

 すると父親は答えます。ルカ15:22―24。

 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 良い服を着せるというのは、家において立場を回復させるという意味があります。もう家の中で立つ瀬などなかったはずなのに、それがなかったかのように帰ってきた瞬間から回復されてしまいます。指輪をはめるということは、父の権威がその子どもにもあるということを意味する特別な行為でした。そして、履物を履かせるということは、かつては奴隷は履物をはかなかったようです。奴隷状態にあるものに、履物を履かせるということは自由を与えるということを意味しました。

 父によって家の中での立場を回復され、父の権威を与えられ、自由にさせられる。

 キリストを信じ、キリストのもとに立ち返るものには、帰る場所が与えられます。

 この世にもし居場所がなかったとしても天におるべき場所があります。

 キリストのもとに立ち返るものには父から父の権威があたえられます。

 キリストの名によって祈るという権威です。この権威の力は、祈りにおいて発揮されます。マルコ16:15以下。

 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 悔い改め、信じ、立ち返ったものには、キリストによって指輪がはめられる。それは権威そのもの。それは主イエスの御名による祈りによって発揮される。

 キリストのもとに立ち返ってくる人には、帰って来るたびに、自由が与えられる。裸足であったものに、履物が履かせられる。

 聖書を読み祈るたびに、じつはこの天の父の懐に帰って来いと招かれているのです。

 イエス様が教えてくださった父の思いの中に浴し、ご一緒に祈る時に癒やしが与えられます。どうぞ、祈るために私のもとに起こしください。ご一緒に父に跪いて祈りましょう。父は走りより、抱き締め、接吻し、服を与え、新しい立場を与え、指輪をはめ、あなたに主の御名による権威を授け、自由にして送り出してくださる。

 必要なのは、方向を変えるだけ、我に帰ることだけです。そこで父が待っていてくださいます。アーメン!