ルカによる福音書 8:19-21 「神の家族」

ルカによる福音書 8:19〜21 「神の国の家族」

 イエス・キリストを群衆が取り囲んでいました。なぜ群衆はイエス様を取り囲んでいたのでしょうか。イエス様の聖書の語りに皆が驚いていたからです。権威あるものとしてお語りになられて、そこには今まで思い込んでいたものを打ち壊し、より深い理解を与える知恵が溢れていたからです。さらに、イエス様はあらゆる壁を乗り越えて、人々に神の国の福音を宣べ伝えました。神の国が主イエスとともにやってきているとうことの具体的な証明のために、人々を癒やされました。次々と、ことごとく癒やされました。その様子がマタイ9:35―36に描かれています。

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

 聖書を教え、訓練し、新しい人に向かって伝道し、分け隔てなく病を癒す。この姿に皆が心打たれたわけです。だから人だかりが出来ていきました。さらに、いま読みましたところに「深く憐れまれた」と記されていますが。これはもとの言葉では「内臓が揺さぶられる」という意味です。人々が神を忘れて、神の助けを受けることができなくなって、神の力を体験できずに、それゆえに誰に導かれているのかもわからなくなっている。そういう状況をみて、これ以上にない共感をもって、悲しみ、苦しみ、憐れまれたということなのです。

 神を知らないということがいかに人間にとって大きな損失であるか、この事実の前に驚愕され、憐れまれ、苦しまれたのがイエス様だったのです。人間の根源的な問題に常に寄り添って共感を示してくださるのですから、心ある人にとってはこの方にこそ希望があるのではないかと思えたわけです。

 群衆という言葉が聖書には度々出てきますが、イエス様を取り囲んでいた群衆というのは一体どういう人達だったのでしょうか。聖書は簡単に3つの類型に分けています。キリストに向き合う人の態度としてわかりやすく3つに分けられるます。

 第一は律法学者、ファリサイ派、サドカイ派、ざっくり言えばこれまでの宗教組織の中で権威ある立場についていて、自分たちこそが正しいと思っている人たちです。この人達が十字架にイエス様をつけて行きます。真っ向から対立し、反発し、イエス様のお話を曲解し、自分たちが批判されたという一つのことでイエス様を排斥し、殺します。

 第二は、その他の群衆です。彼らは、特に反発しません。むしろ、イエス様の言葉をうなずきながら聞いているような人です。しかし、イエス様の近くにおるということで苦しみがやってくるとすぐに逃げてしまう人です。天のことよりも、この世のことが好きで、それらを捨てよと迫られると、この世のことを選び取ってしまう人です。

 第三は、使徒や弟子と呼ばれる人たちです。自分の弱さや罪は露呈してしまいますが、何がなんでもしがみついてイエス様についてきて、自分にとって都合の悪いことが起こったら、逃げてしまうこともありますが、結局主イエスのもとに帰って来る人です。何倍もの実を結び、世界に主の福音を伝えていく人です。

 イエス様は人々を、イエス様に対する反対者ではなく、傍観者ではなく、イエス様に従ってくるものに人々を導こうとされていました。だから、自分自身の心の状態について気づくように、時間をかけて教えておられたのです。人は気付かなければ立ち返ることができませんし、改めることができません。その心を神は無理強いされません。

 例えを用いて現実を説明なさいます。自分がいま、どんな立ち位置なのか、スタンスなのか気づくようにと語りかけておられたわけです。それが、本日の朗読の箇所の少し前の、ルカ8:4〜15で語られている内容です。

 悪魔が来て、その心から御言葉を奪いされてしまう人、試練に合うと身を引いてしまう人、人生の思い煩いや富や快楽が神よりも先になってしまう人。このような人々はいつ律法学者やファリサイ派のようにイエス様を十字架にかける行動にでるか分からない人たちです。また、イエス様に能動的に危害を加えなくても、ただイエス様の言葉を聞いて、それが右から左に流れてしまって、心にとどまらないのだったら聞いた意味が無い。実りが出てこない。

 そういう状態にならないように、聞いて忍耐して、守り、行動し、従う人。そして神が願っている実をならすようになる人。そのためには、自らがどういう現状にあるか知ることが必要でした。皆が自分の立ち位置について気づくように、例えを用いて教えてくださっていました。

 イエス様は本日の御言葉の中でもおっしゃられています。ルカ8:21。

 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 「聞いて」「行う」人。これが家族。聞いて行う人というのはどういう人かというと、イエス様の心を理解している人のことです。イエス様の心がわかっていたら、行動は確実についてくるからです。

 例えば、群衆に向かって、「内臓がゆさぶられる」ほどの共感をもって、かわいそうだと思って、神の国について教えておられるイエス様。ファリサイ派、律法学者、反対者も、傍観者もみな天に導かれるようにと願いながら、言葉を選びつつ群衆に向き合っているイエス様。そのお気持ちを知っているならば、その行動を邪魔するようなことは決してしないはずなのです。しかし、イエス様の肉のご家族は、そこに割って入ってきます。邪魔してしまうのです。

 ルカ福音書には、「なぜ」イエス様がお話されているところに、ご家族が入ってきたのかは明確には書かれてしません。マタイ福音書の並行記事を読みますと、「お話がしたかった」ようです。群衆と熱心に語り合いの中に入っているイエス様が、群衆の方を向いているのではなくて、私の方を向いていてほしい。私も話したいことがある。家族なんだからなんとかならないか。お母さん、お兄さんの方も向いて話して。そう思ったのでしょう。嫉妬心を抱いていたのです。心を無にして神を見るのではなくて、自分の中にある感情によって行動していたということです。何を見ているか、どんな方向性か、神に向かっているか、自分に向かっているか、よくわかります。

 しかし、イエス様の中心的な関心事は、今目の前にいる心を変えようとしている群衆に向かっているわけです。神の心は一人の人が帰ってくることに向かっているわけです。まだ変わってはいないけれども、しかし、神の言葉が少しずつ浸透していって、回心に向かいつつあるその人に真剣に、全力で向かい合っておられます。

 これこそが主の心でした。

 それに水をさすように、家族が「こっちをむいて」と言ってきたことに、非常に冷たい言葉で応えられます。まるで、あなたは家族ではないとでも言わんばかりの冷たい言葉です。

 「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」

 神の思い、神の愛、一人の人を救い出すために向き合っているこの思いより大事なものはどこにもない。それを理解しないあなた方は家族ではないと言う意味の言葉でしょう。少し怒っているイエス様のお姿が見えてきます。

 一人の人が考えを変えて、今まさに神に向き直ろうとしている。回心に対する、悔い改めに対する主イエスの熱意。

 自分がどんなスタンスに立ってしまっているのか、自分で理解しなければ、立ち返ることはできません。神は決して人に無理強いされる方ではありません。自分で心の向きを変えるように願っておられます。

 さらに、もう一つの例えもお出しになられて、ともし火の例えですが。神の前には、何も隠されていないことをお伝えくださっています。ルカ8:17。

 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。

 神の前に生きていない、すべてが見られていると思ってはいない。この例えもスタンスの問題ですね。神に見られていないと思っているから、すなわち神を前にしていないから隠しておくことがでてくるし、そのように人に見せられないところを神の前でも隠して生きているのならば、その人は神の前で生きているわけではないので、神の光が注がれてこないのです。光を抱いて、灯火を抱いて、それを隠し立てしなくてもいいように。もう何も隠さずに生きていくことができ、すなわち神の前で生きるという方向に向き直ることがいかに重要か。そこに全てがあるのだということをお伝えするために、必死に群衆に語りかけておられるのです。

 人々は聖霊が注がれるという決定的なことが起こるまで、今イエス様がおっしゃられた行動を実行することができません。「聞いて行う」、「隠したところは神の前で何もなく」、という状況に至ることはありません。しかし、主は、何が主に喜ばれ、何が喜ばれないことであるのか、峻別することができるように、語りかけつづけられるわけです。神の国に生きるものとしてのあり方を切々と説き続け心を変えるものが現れるのを願っておられるのです。

 こんな厳しいことを家族に対して言って。。。イエス様は家族を軽視なさるのか。そういう疑問を持つ方もおられるかもしれませんが。そうではありません。イエス様は誰よりも律法の言葉に忠実であられました。十戒には「あなたの父母を敬え」と記されております。そして、イエス様の教えを受け取った使徒たちも、家族を大事にすることがいかに重要であるか記しています。エフェソ6:1、4。

 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。

 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。

 神さまと人間の存在が、父と子にたとえられるのは、親子関係というのものが神さまと人類との関係をうつし出しているからにほかなりません。家族の関係が重要でなく、軽視しているのであれば、父なる神という表現も無いと思います。父が父であることがとても大事なのです。子が子であることが大事なのです。

 親は子に本当に大事な唯一のことを教えなければなりません。

 神の方に向いて、神の言葉を聞いて、従いなさいと。

 これだけを伝えるために、主イエスは生命をかけておられるのです。その主イエスを邪魔するようなことをしたら、それは怒られます。親子関係でも一番大事なことは神を敬うことなのです。十戒の父母を敬えと言う言葉は、唯一大切な信仰をあなたに伝えたのはあなたの父母です。という前提があります。あの十戒は、ユダヤの社会の文脈の中で聞かれるべき言葉です。

 家族関係においても、いつでも、どこでも大切なまず神の方を向いて、神の言葉を聞いて従いなさいという、大切なことを人々に伝えて、まさに父と子の関係、親子の関係、神と人類との関係。この基本の基本を教えておられるときに、そこに割って入って来て、自分の感情によってイエス様をこっちに向かせようとしている。そういうお母さんと、兄弟たちは怒られてしまったのです。

 ちょうど昨日、早天礼拝でイザヤ書61:1を読んでいました。

 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。

 主の霊が注がれることで、癒やしが起こり解放が起こり、国が変わり、国が回復されて、新しい世界が造り出されてしまう。それがイザヤのメッセージです。

 人が神の方に向き直って、神の心である聖霊を受け取って、それを受け取った人が世界を変えてしまうということは大きな驚きです。

 しかし、それが主のビジョンなのです!

 私たちにご自身の心を注ぎ、ご自分の血を十字架の上で注ぎ、祈りの中で聖霊を注がれ、世界を変えてしまわれるのです。だから、一日も早くスタンスを変えて、主に向き直って生きること。このことで国も世界も変わるのです。だから、主は、私たちが一体今どんな向きで主に相対(あいたい)しているか、熱心に教えておられるのです。

 ここから国が変わる、世界を救う、それが現実になるのであれば、それを邪魔して別の話をしようとするものを怒られるのも分かります。

 皆さんが神の国の家族です。聞いて行うものです。主の霊に打たれているものが世界を変えます。皆さんが主の力によって世界を変えます。アーメン。