使徒言行録2:1−13 「聖霊降臨」

 闇のような世に、一筋の光があります。イエス・キリストです。

 イエス様は約束の言葉を賜ってくださいました。神の約束は必ず実現します。

 十字架にかけられ、復活すると約束してくださいました。確かに実現しました。

 復活の後、弟子たちと食事の席についてお話をしてくださいました。イエス様だとはじめは気づかなかったものも多かったのですが、気づき始めた弟子たちは、この世にはない大きな喜びに満たされていました。

 十字架の死は敗北ではなくて、勝利であったことを確信し、イエス様がおっしゃられてきたことが違わず実現することを確信しはじめていました。主はまた一人ひとりに復活が事実であることをわかるように示してくださいました。

 イエス様がそばにおられて、目の前で話しをしていても、それでも分からない人々には、一緒にその道を歩いていって、宿に一緒に泊まって食事をしました。そうしたら「はっ」とある時からわかるようになりました。イエス様だと。しかし、わかるようになったらもうすでにイエス様はどこかに消えてしまっていました。

 肉体の目に見えなくなったということは、とても大きな意味があります。それは、もはや肉の目で見るのではなく、心の目で、霊で主イエスを味わうことができるようになるということを指し示しています。

 それから、復活のイエス様と焼き魚を一緒に食べることになってイエス様の食べているさまを見て、復活は本当だったのだと知ったものもさえいました。

 分からないんです。はじめは、しかし、目が開かれていきます。目が開かれた人には、もう説明さえする必要が無いほどに主は、明確に復活の主がそばにおられることがわかるようになります。かつての預言者たちの言葉にこのような言葉があります。エレミヤ書31:34。

 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 使徒言行録1:3以下に復活の後イエス様がなんとおっしゃられたのか、それを一言で言い表す言葉が記されています。何を結局イエス様はなさりたいのかがよく分かる箇所がありますので、見ておきましょう。1章3節から5節です。

 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 十字架の後、復活されたことが事実であることを、主の弟子の筆頭である使徒たちを回ってお見せくださったのです。復活が真実であるということは、40日に渡って弟子たちに見せ続けなければ、彼らは受け止めることができなかったからです。40日というのは、聖書では特別な数字です。時が満ちるという意味があります。

 時が満ちるまで現れ、神の国について語り続けてくださいました。

 常に近しく語りかけて、また聞いて下さる方であることが分かります。

 祈りの世界をもっておられる方は、一度は疑問に思うことがあるのではないでしょうか。「果たしてこんな小さなわたしの言葉など聞かれているのだろうか」と。しかし、主イエスのお姿を見れば、神さまがどのようなお方かわかるというのが聖書の教えです。実際に主はこの小さな人間一人に声の隅々にまで心をさいてくださっていることが、祈りを重ねれば重ねるほどにわかるようになります。これは祈りを重ねないと分からない世界です。一般的には「祈りなんて、時間のムダ」そのように思われ、またクリスチャンの中にも、実際に祈る時間をとらないなんていうひともいる。

 しかし、主イエスが、小さく、無力な(無力であったということが大事です)使徒一人ひとりに語りかけ、一緒に食事をしてくださり、神の国について丁寧にお教えになったという姿を聖書の中に見れば、もしかしたら私の言葉も聞かれているのでは、と思えてきます。そして、実際に祈りをささげ、その力を体験してしまったらもう決して止められない。それが主との交わりの世界。祈りの世界です。主との対話こそ命です。

 主が対話の中で、天にあげられる直前、もっとも大事なこととしてお教えくださったのは次の内容です。

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 エルサレムを離れずというのは、使徒たちを離れずという意味です。使徒たちというのは、一度は裏切ったけれどもキリストのもとに帰ってきた者です。神によって心が打ち砕かれて柔らかくされて、自らの正しさを主張するのではなく、自らを主のまえに投げ出していく人です。そういう人たちこそ真の信仰者として主は成長させてくださいます。それが使徒です。使徒はエルサレムに戻ってきました。キリストの十字架のもとに自分を捨てて帰ってきました。自分を捨てたからこそ帰ってくることができました。もしかしたら殺されるかもしれないということも、前提として、それでも信仰を選び取って帰ってきました。その真の信仰者の周りに、おりなさいと主はご命令くださいました。それが「エルサレムにとどまっていなさい」という言葉の意味です。真の信仰共同体から離れるなということです。

 真の信仰共同体からは決して離れてはなりません。

 私にはじめて手を置いてお祈りくださったのは、鈴木崇巨牧師でした。先生がお祈りしてくださって聖霊が満たされることを体験しましたが、私はしかし、その後17年間もの間さまよって、聖霊の満たしについてほとんど思いを寄せない状態になってしまいました。しかし、主はそういったものをも導き返して、祈りの中に再投入してくださるお方です。以前にもお話しましたが、まさかイスラエル旅行で、必死に拝み倒し、祈り倒しているフィリピン人のおばちゃんによって自分が回心するなど思いませんでした。

 真の信仰者から影響を受けて、それによって回心する。だから、信仰共同体から、エルサレムから、使徒たちから離れてはならなかったのです。聖霊はこの共同体の中で体感されます。聖霊について教えてくれ、また導いてくれる人がいなければ、人は聖霊を受け入れることができません。

 イエス様は天に昇っていかれるその時に、もっとも大事なこととして、聖霊による洗礼が授けられることを教えてくださいました。

 聖霊による洗礼とはなんでしょうか。洗礼というのは、浸されるという意味です。水による洗礼は水に浸されるという意味です。川で昔は行いました。頭から、しかも後頭部から後ろに倒れて、昔の自分に死ぬというイメージのもと行われました。私たちの教会においてはそれを象徴的に水を上から垂らすという方法をもって行っています。しかし、その意味は水に浸されて死に、生命の水に浸されて、キリストの生命に浸されて生きるということを意味します。しかし、さらに進んで信徒は、神の霊に常に浸されて生きる必要があります。そうしなければ、決して力のあるキリスト者、あの使徒のようなキリスト者としての歩みはできません。

 イエス様は十字架におかかりになられて、神と人との隔ての壁を取り除いてくださいました。人は神を求めれば、いつでもその心の内に神を体験できる。キリストの血潮に頼り、罪が赦されて、清められて、すべてが精算されて神との関係が回復しているのですから。赦しを受け入れるものには、必ず主が聖霊を注いでくださるのです。しかし、未だ満たされていない状態というのが、弟子の偽らざる姿でした。弟子たちにはまだ力がありませんでした。

 力という言葉は、1章8節で出てきます。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 力という言葉が出てきます。これはギリシャ語でデュナミスという言葉です。ダイナマイトという言葉の語源です。爆発的な力です。この爆発的な力というのはどこからやってくるのかというと、聖霊を受けることから、霊からです。

 霊という言葉の説明をしておかなければなりません。聖書は人間存在を、3つの言葉で現します。「霊」「魂」「肉」です。厳密にいうと、その他の言葉への置き換えというものがありますが。わかりやすくするため。大きく分けて、霊と魂と体として説明します。これらは不可分です。霊は魂に、霊は肉に、魂は霊に、肉に。互いに影響しあってそれぞれが互いに重なり合って分けることができません。体も魂も分けることはできません。

 人間だけが霊と肉の両方の世界に足を踏み入れている存在とも言えます。

 霊も肉も「飢え乾き」を覚えます。これをもって、霊と肉が存在していることを説明することができます。神への飢え乾き、見えない存在への飢え乾き、霊の渇き。愛、正義、正しいことへの渇望。こういった見えないものを求めるところがどんな人にもあります。忘れていたとしてもありつづけます。

 また、肉の飢え乾きといったら、食欲とか、性欲とか、そういったたぐいのことで、たしかに肉が存在することが飢え乾きということをもって実感できます。

 霊が目覚めた人には、霊的な飢え乾きというのが常にあるようになります。神さまのご愛を体験したい。神さまの愛の中に生きたい。人との愛の中に生きたい。霊的な飢え乾きというのは、愛への渇望とも言いかえることもできるかもしれません。肉の飢え乾きというのは物質的な充足への渇望とも言いかえることができます。

 神を求めるところ、神に向かうところ、それが霊です。その部分を腐敗させて、神にではなくて別のもの、呪いとか、怒りとか、なにか別の目に見えないものに常に向かわせ、力を阻害するのが悪霊と呼ばれるものです。神の方向に向かって関心をもつでのはなく、常に関心を肉に向けさせ、堕落させるのが悪魔です。

 霊が神の霊を受ける受信機。レセプターです。だから、聖霊の力、デュナミスはどこからやってくるのかというと、霊から、心から、魂から、精神からです。

 一同は聖霊が注がれ、浸されるのを待って祈っていました。1章14節。

 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 すると聖霊が注がれます。それが本日朗読された箇所です。2:1−3。

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 五旬祭というのは初穂の祭りとも言われる日です。その年のはじめの実りを祝って、パンを二つ用意して行う祭りです。神から与えられた実りを感謝する日。その日に教会の実りが与えられました。しかもパンが二つ準備されるということは、新約のクリスチャンにとってはユダヤ人と異邦人とが神の前に実りとして与えられるという意味があると受け入れなければならないことがわかってくる。そういう祭りです。この時に、まさに、エルサレムに住むユダヤ人もディアスポラのユダヤ人も、そしてこれから世界に向かって異邦人伝道が始められていくその拠点が3000人もの受洗者と共に、聖霊降臨の出来事を通して起こりました。

 一同が一つになって祈っていると、音が聞こえてきました。

 聖霊は五感を通して体感されることが分かります。音とか、風とか、また炎のような舌と記されていますので、熱を感じる人もいます。見えないのですが、五感によって体感されるものでもあります。そして、炎のような舌がひとりひとりの上にとどまりました。

 人の上に炎がとどまっている様。これは、ろうそくがイメージされます。灯火です。燭台です。世界に対する灯火となります。

 ヨハネ黙示録に、終わりの時の教会のことを7つの燭台と表現している箇所があります(ヨハネ黙示録1:20)。終わりの時がはじまっていることを、人々の頭のうえに火が灯り、ろうそくに炎が灯されていることが現します。

 驚くべき奇跡が起こりました。人々が突然外国語で話し始めました。各地に散らされていた離散のユダヤ人たちに対して、その離散していった現地の言葉で神さまは人を使って語りだされたのでした。

 離散していたユダヤ人は各地で寂しい思いをしてきた人たちです。中心のユダヤ人、ユダヤやエルサレムに住む人々からは、邪道と言われていました。かたや異国の地ではその信仰をばかにされたり、迫害を受けたり。散々な目にあってきて、なおかつ、理解者がユダヤの中心地にもいなくなってしまった状況です。

 一体自分の居場所はどこにあるのか、わからなくなってしまっていた。それが離散したユダヤ人。

 しかし、悲しみを覚えているその人に、「あなたを決して忘れてはいない」という、神の奇跡が起こされました。懐かしい故郷の言葉で主は語りだされたのでした。

 憐れみ深い、慰めに満ちた、決して小さな忘れられた民を放置なされない。その全能の父なる神がここにおられると味わいました。

 聖霊の炎は愛の炎です。それを受けた民には愛の熱が広がります。「神はわたしを忘れておられない」ということがひしひしと伝わってきます。ダイナマイトのような力が溢れだします。

 十字架の血潮によって清められた民は、清められたところに聖霊を受けなければなりません。そうでなければ、別のものが入って来て、力を奪い取られます。求め、受けるだけで良いのです。祈りの中で、「命の水をください」「聖霊で満たしてください」とキリストを信じて叫び求めてください。主は皆様を忘れてはおられません。ご一緒に祈りましょう。アーメン。