ヨハネによる福音書5:43〜54 「癒やしとしるし」

 言葉一つで信頼し、信用する関係性。決して悪いことをわたしのために思うことはない。良いものを与えることしか考えていない。そういう人の言葉というのは信頼に足るものがあります。聖書の言葉の全てはそういう次元の言葉。ここに書かれていることは手放しで信じて、信じて従ってみると実際に良い経験をしていく。そういう信頼にたる言葉が記されているものです。

 本日読んでいます、ヨハネ福音書においては特に「言葉だけで信じる」という主題が強調されて記されていきます。しるしを見たから、癒やしを経験したから、その対価のように信頼を差し出すのではなくて。

 先に言葉を聞いて、その言葉どおりに信頼して、信頼を差し出す。すると実際に神のお働きが起こるということを経験していく。それが信仰生活ですよと私達に教えてくれる。それが、ヨハネ福音書です。

 神さまは、「ご自身が神であられること」このことだけで信用するように、信頼するように信じるようにと願っておられます。

 イエス・キリスト。イエスであるから信頼するように。

 何かくれたから、何かしてくれたから、何か自分にとって良いことがあるから。なになにしてくれたから信頼する。というのではなく、神は、神であるがゆえに、イエスはイエスであるがゆえに、信頼に足る。

 交換による信頼ではなく、神が神であるがゆえにささげる信頼。その信頼の中を生きていくように、求めておられます。

 皆さんのお父さんが、アイスクリームをくれるから信頼するのではなく、父は父であるからどこまでも信頼に足るというような信じ方です。

 全能者である神、この神が父。この方に信頼することが信仰です。この信仰に立つことが癒やしそのものであります。

 信じるということに大切なことのすべて、必要なことがすべて包み込まれています。イエス様がこのように言われました。マタイ11:28。

 疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 キリストのもとに来て、この御方が神であり、この御方の父が全能者なのだということ。この全能なる神が、全能の力をもって、休ませようとしてくださる。これをただ信じるだけで、人は癒やされます。

 人間には力がありません。環境を変えることも、人を変えることも、自分を変えることもなかなかできない。国も、政治も、国際情勢も、自分が抱えている毎日の生活も思い通りにはいきません。しかし、主なる神は、全能者であられる。この世を造られた方である。その御方が心配し、父としていてくださり。私達の肉の父以上の好意をもって、私達に望んでくださる。ただ信頼をささげるのならば。

 そういう世界におると信じるだけで人は救われます。どうにもならない現実も実は主の思いのまま。最善をなしてくださるために、今の現状がある。自分の目に、それは良い状況にみえなくても神さまの目からすれば、そこにご計画がある。そのように、信頼をささげると、癒やされていくのです。肩の荷が降ろされます。

 信頼するこの御方がどういうお方か。この御方を言葉だけで信じるということはどういうことか。実はこの問題と向き合っているだけで人は癒やされるのです。

 イエス様のところに王の役人がやってきます。王の役人ですから、大きな力を持っていました。人を動かすことができました。財力もあったに違いありません。しかし、思い通りにならないものがありました。

 それは病であり、人の命です。息子が死にかかっていました。王も死にかかった息子には何もすることはできません。だから、本当に力ある方のところに王の役人はきたのです。王よりも力あるお方とはイエス・キリストです。

 当たり前の信仰のように思いますが。実際にそのことを心から信じて、キリストに力ありと生きるということが大事なのです。私達の能力や出自や、地縁血縁、財力や人脈。そこに力があるわけではなく、キリストに力ありと信じてキリストと対話を重ねる生を生きるかどうかです。

 クリスチャンでも、神に力があると信じていると言っていながら祈らない人がいます。祈らないのは、神さまを第一としていないからです。

 自分が病気になったら祈るよりも先に、具体的な対応が先だと考える。具体的な対応が悪いと言いたいのではありません。本当に命を支配する権威が神にあると信じているかということを問うていただきたいからこういうことを言っておるのです。

 命は、医者にも実際にはどうにもなりません。医学の進歩によってなんでもできるというわけではありません。医者がどんなに有能になったとしても、人が死ぬことを永遠に止めることはできません。

 神さまの時計があって、神さまが命の支配者であり、神さまが命を取られます。それが神を神として信じるということです。

 しかし、本当は信じていないのが人間なのです。それが罪です。神さまを神さまとして信じていないのです。そう口では言っていても信じていない。それが多くの人が抱いている神に対する態度。罪です。

 しかし、本日出てきますこの父親は、息子の死を前にして、藁をも掴む思いをもって、真実の真実に向き合おうとしています。人間には命はどうすることもできないのだということと真正面から向き合っています。

 神の力、神の思い、これに頼るほかなくて、イエスのもとに来ました。

 危機は実は良いものでもあります。なぜなら、人が本当に必要なものに向き合うことになるからです。首にナイフを突きつけられている状況で、はじめて本気で何を選ぶのか、何を捨てて、どこに行くのか。そういう究極の選択をすることができます。

 そうでなければ、いつまでたっても自分の先入観や思いに縛られていつもと同じことを考え、具体的にどう自分の力で解決できるかに走ってしまうのです。命の与え手、状況すべての支配者。それが神であるというところに至れない。罪に縛られて、どうにもならないのが人間です。

 ですから、危機は神の導かれる最善の道です。 

 役人は、息子を救うために、息子の命の危機の只中で、神を求めるようになりました。本当に力有る方、権威ある方、命の支え手、イエス様のところに来たわけです。しかし、イエス様はとても厳しいことをおっしゃられます。ヨハネ4:48。

 あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない。

 信仰、信頼と言っているが、本音は物事が自分にとって都合の良い方向に動かなければ信じようとしないということです。これはイエス様からの問いかけの言葉です。この役人を咎めるだけの言葉ではありません。信じるということはどういうことかを教えるための言葉です。奇跡が起こるために、奇跡を起こすために、神さまと取引して、してもらいたいことをしてもらうために、信じるのではない。そうではなくて、ただ信ぜよ。神を信ぜよ。言葉だけによって、何が起こったかじゃない、神が神であり、神の言葉であるがゆえに信ぜよ。そのように問う言葉として私には響いてきます。

 役人は言います。ヨハネ4:49。

 役人は「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください」と言った。

 来て触れてくださらなければ癒やされない。そのように役人は思っていたのです。神の前にいつも人は思い込みをさらけ出されてしまいます。これも役人の勝手な先入観です。だから、死なないうちにおいでくださいと願ったのです。

 しかし、神の権威というのは、触れてどうこうというものではない、触れなくたって癒すことができる。この世界を創り出されたお方です。どんなことでも、望まれればそれをすることができる。これは度肝を抜かれる、恐ろしい言葉ですね。神がこの役人の祈りを聞いてくださり、その役人が想像していること、こうなってほしい、こういう癒やしが起こってほしい。そういう想像もすべて飛び越えて、役人の悲しみを主が癒そうとしておられて、その方法に関しては人間の計り知るところでは全くないのだということが示されているわけです。

 思った通りにはならないけれども、心の底にある願いに応えてくださるのです。

 神を前にして、どんなことが起こるのか、それを人間は予測できません。しかし、神は人間の心によりそい、この役人の悲しみによりそって、ただ言葉一つで、息子を癒すことがおできになることをお見せくださったわけです。思い通りに神を動かすことはできないけれども、神は私達の心に寄り添ってくださるわけです。

 この御方がおられれば、おられるだけでなんの怖いものもない。神を信頼するということはそういう次元の話であるということが見えてきます。

 何が起こるかわからないけれども、最善を主はなしてくださる。その御方が父であるというところに立つ。それが信仰であることがわかります。だから、神を何よりも先にして、起きるにしろ、倒れ伏すにしろ、つねに神を見上げて、神に対して祈りをささげ、神によりそう歩みをする。これこそが、私達の歩むべき道です。

 何が起こるかではないのです。何が起こるかは、人間に全く予測がつきません。いつも人に触れてイエス様は癒やされるのだ。そう聞いていて、また確信していても、それが崩されることもあります。触れなくても癒やされるのです。

 しかし、神は必ず善をなしてくださる。ご自分の力と権威とを用いられて。しかもそれを言葉一つで行うことができる。イエス様は役人のこころに寄り添い、このようにおっしゃってくださいました。役人が何よりも願い求め、命を賭けて神に求めた内容です。その内容をしっかりと受け止めてくださっている。それが神さまです。ヨハネ4:50。

 「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」

 この一言だけで、息子は生きます。それが神の力です。人間の力ではありません。イエス様ご自身がこうおっしゃられています。ヨハネ5:21。 

 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。

 我々が全体重をかけて向き合うべきはこの御方です。主イエスは、十字架において我々に向かってご自身の命をささげられました。すなわち、我々のために全体重をかけて、向き合ってくださるということをお見せくださいました。

 しかし、私達の側が、その主イエスの言葉に、全体重をもってしてお応えているかといえば、そうではない。この役人も家族と、イエス様がなしてくださったことをすべてを確認し、味わって分かち合っていくその中で、自分のスタンスを見直したはずです。

 本日の聖書の箇所の最後は、後からあの時間、あの時、時間も空間も超えて神がお働きくださったと、後から役人たちが確認し、神の業を味わったということが記されて終わります。遠くにいてもイエス様がおっしゃられた時刻に私にとって必要なことのすべてが、私の思い図らぬところで起こってしまっていたいのだなと今更ながらに確認したのです。それも皆と分かち合いながら確認したのです。家族もこぞってその出来事に驚き、信仰に入ったと記されています。

 これまでの歩みを見直して、味わい直して、そこで気づきがあり、神の力が実はこの私達にのぞんでいたのだと今更ながらに気づく。

 主イエスの十字架のその重さ、体重というか、思いは実は私に向かっていたのだと気づき、あとから考え直して、神の力を味わっていく。それをまた隣人と分かち合う中で、信仰が与えられていく。

 癒やしとしるし。これまでの人生にあった主の業を思い起こしてください。後から思い巡らすことで、神への感謝と喜びは倍加して、加速度を増して増大していきます。皆様に力を与えます。神の霊に満たされてください。アーメン。