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マルコによる福音書連続講解説教

2021.5.2.復活節第6主日礼拝説教

マルコによる福音書1章1節 『福音のはじめ』

菅原 力牧師

 今日からご一緒にマルコによる福音書に聞き続けてまいります。

 新約聖書の中には、四つの福音書が収められています。その中で最初に書かれた福音書はマルコによる福音書です。マルコ福音書が書かれる以前、福音書という文学ジャンル・表現形式のジャンル(小説だとか、戯曲だとかさまざまなジャンル)はなかったのです。それまでは例えばローマの信徒への手紙の1章の2節から4節までのような福音とは何か、ということを短くまとめた要約した断片はありました。実際パウロはそれらの断片を自分の手紙の中で引用している書いているのですが、そういうものはあった。あるいは、イエスはこういう言葉を語られた、というような主イエスの語られたこと、なさったことを断片的に書き記した語録のようなものはあった。しかしそれらを収集して、編集し、人々が読める形に整え、主イエスの語ったこと、なさったこと、主イエスにおいて起こったこと、それを物語(それは作り話という意味ではなく、一つのストーリーのある話として語られるもの)として編んだのはマルコという人が初めてだったのです。

 マルコが福音書という新しい表現形式を生み出したのには、明確な理由が少なくとも二つありました。一つは、どうしても伝えたいものがあったからです。二つは、しかもそれは、今までの形や形式では伝えられない、とマルコが思ったからです。新しいスタイルが必要だと思ったのです。新しいスタイルと言っても、さまざまなことが考えられるわけですが、例えば、今でいう伝記のように書き進めるということも可能だったでしょう。生まれてから死ぬまでを編年体で記述していくような。しかしマルコは、主イエスの伝記を書きたかったわけではない。マルコは、主イエスの誕生物語も書き記してはいないのです。もちろんマルコは架空の話を書きたかったわけでもない。マルコが書きたかったもの、どうしても伝えたいと思ったもの、それがこの冒頭の1章1節の表題にあらわされているものです。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」。

 神の子、イエス・キリストの福音、それがマルコがどうしても伝えたいと願ったものでした。

 この福音という言葉を、イエス・キリストに対して使ったのはマルコが初めてなのです。キリストがもたらしもの、キリストが与えてくださったもの、それをどう言葉で表現するか。マルコはそれを「福音」と表現した。

 しかしそれは当時の人たちにはあまりなじみのない表現で、事実後で書かれたマタイもルカも、福音という言葉を使っていないのです。しかしマルコはキリストが与えてくださったものを福音と表現し、歴史上最初のイエス・キリストの歩みを書いた。そして後に書かれたマタイ、ルカ、そしてヨハネも含めて人々から福音書と呼ばれるようになった。今日、福音、福音書という言葉は、世界中で使われています。そして日本語の国語の辞書にも福音はキリストによって救われるキリスト教の教えだと説明されています。

 福音という言葉は、もともと、良い知らせを告げた人へのご褒美を指す言葉でした。しかしマルコは、パウロたちに倣って、この言葉をよい知らせそのものとして、使っています。良い知らせ、良いおとずれ、それはわたしたちの人生にさまざまにあるでしょう。しかし、マルコは福音を神の子、イエス・キリストの福音と限定して使うのです。つまり、今ここでわたしが語ろうとするのは、あれこれの福音の話ではない。神の子、イエス・キリストの福音なのだ、というのが、この冒頭の言葉であり、それがこの書物の内容を指し示すものになっているのです。

 イエス・キリストの福音、といった場合、文章からは大きく二つの意味が読み取れます。一つはイエス・キリストがこの世界にもたらした福音、という意味です。イエス・キリストが宣べ伝え、イエス・キリストが指し示した福音という意味です。もう一つは、このイエス・キリストその方が福音だという意味です。この方の存在そのものが福音。だから、この方を物語ることそれ自体が福音なんだ、ということです。前者は、これまでも先に言った断片で、少しではあっても伝わっていたかもしれない。しかし後者については、まったく物語られてはいなかった。マルコは、その両方が大事だと受けとめていた。両方を織り交ぜて物語ることが必要だと感じていた。そこに福音書が生まれる必然性があったのです。

 しかもこの福音は、イエス・キリストの福音、すなわち、イエスという地上の生を生きた一人の人間が、キリスト(救い主という意味の言葉ですが)であるという信仰告白を内に含んだものなのです。救い主によって与えられる福音。それはわたしたちの救いにかかわる福音なのです。このマルコ福音書を読む最初の人たちは、どの程度自分が救われる必要のある人間だと理解していたのか、それはわかりません。自分は救われなくても、何とかやっている人間だと思っている人もいたでしょう。救いなんて特に必要ない、と思っている人もいたでしょう。どんな人が読むかわからない。しかしマルコは、その一人一人に、イエス・キリストの福音、救いの福音に聞いてほしいと願っているのです。なぜなら、これこそが福音だからです。このおとずれを聞かずして、人は救われない、そういう切実なものがここにはあるのです。

 この福音はイエス・キリストの福音、神の子の福音だ、とマルコは語るのです。「神の子」という呼称も、最初の読者たちは何か共通の理解を持っていたというわけではないのです。神の子、というけれど、本当に神の実の子どもなのか。それとも神が遣わした者ということなのか。神の子が地上に降りてきて、悩んだり、苦しんだり、そんなことするのか。神の子が人となる、というようなこと、誰が一体信じられるんだ。神の子であって、一人の人間、それは、人間の理解をすでに超えている、そうした疑問が次から次へと出てくるでしょう。

 けれども、マルコは、まさに、神の子、イエス・キリストの福音をこの書物で書き表し、伝えたかった。これを伝えることこそ、自分の使命であり、自分のキリスト者としての証の業だと思ったのです。

 今朝、わたしたちはこの冒頭の一句から、二つのことを受け取りたい。

 一つは、わたしは、マルコが伝えようとした「神の子、イエス・キリストの福音」を、人生における最も大事な、かけがえのない福音として、そこに立ち、そこから生きる福音として、受けとめて生きているか、ということ。

 自分にとって都合のいい、自分に優しく語りかけてくれると勝手に解釈している言葉だけを福音として、矮小化して受けとめていないか。神の子であるイエスが、この世界においでくださり、わたしたち人間の罪を負って、歩まれ。十字架にかかってくださり、復活された、そのイエス・キリストの福音の全体をくりかえしうけとめているか、ということ。

 もう一つは、この福音に聞いているということは、ただ聞いているということでは済まない、従うものとされる福音であるということです。マルコは、おそらく自分一人のことを言えば、すでにイエス・キリストの福音に聞いていた。断片とはいえ、さまざまな主イエスの伝承をマルコは受けとめていたし、そこから福音を聞いていたでしょう。しかしそれを、福音書として編集し、物語として執筆し、一冊の書物とした。公にして、宣べ伝えた。それは、キリストに出会ったものが福音を宣べ伝えていく、証の現れ、復活の証人としてのキリストに従う一つの姿なのです。

 このマルコに刺激され、マタイや、ルカ、ヨハネがさらにそれぞれの仕方で福音書を現したのですが、その最初の一歩の意味は大きく深い。

 もちろんわたしたちはマルコではないし、今福音書を書くことが求められているわけでもない。しかし、形は違え、一人一人がイエス・キリストの福音に出会うところ、一人一人に応答が求められていることはまちがいがない。

 「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」。わたしたちを真実生かし支え、導く福音に、倦まず弛まず、じっくり、そして懸命に聞いていきましょう。福音の信実に出会い続け、一人一人が福音に応えて、この人生を歩んでいきましょう。