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マルコによる福音書連続講解説教

2021.5.9.復活節第6主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書1章1-8節 『荒野で叫ぶ声』

菅原 力牧師

 主イエスが伝道の活動を始めようとするとき、すでに洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が活動を始めていました。

 ヨハネはどこかの宗教的なグループから遣わされた人ではなく、自分自身の事柄として、神の前で自分の罪を自覚し、荒野で禁欲的な生活をしながら、悔い改めの生活をし、その中で人々に悔い改めて生きることを迫っていたのです。ヨハネのそうした生き方、信仰、カリスマ性は、多くの人に影響を与えました。彼の下には多くの人たちが集まってきたのです。その勢いはまさに飛ぶ鳥落とす勢いと言っていいものでした。

 新約聖書の四つの福音書は、すべてそれぞれの仕方で、このヨハネという人物のことをしっかりと書き記しています。弟子以外で、これほどしっかり書き記されているのは、このヨハネだけです。それはなぜなのか、あらためて考えてみる必要があります。ヨハネはどんな働きをした人なのか。わたしたちは彼から何を受け取るべきなのか。

 今日の聖書箇所なのですが、2節から8節は細かく言えば四つの部分から成り立っています。それはまず、2節から3節の旧約聖書の引用の部分。そして4節のヨハネの活動を記した箇所。そして5節の人々の反応。そして6節から8節までのヨハネの姿と言葉の部分です。

 最初2節から3節の部分、ここは、旧約のイザヤ書だけでなく、マラキ書からの引用もあり、それを組み合わせて一つの語りになっているのです。「わたし」と「あなた」と「使者」が出てくる。「わたし」は神さまです。「あなた」はキリストです。「使者」はヨハネです。するとここは神さまがキリストに向って語りかけておられる場面、と言えます。あなたより先に、使者を遣わす。その使者はあなたの道を準備する、あなたの道を整える、というのです。それはあたかも天上の会話をわたしたちに示すようにです。ヨハネの役割は、イエス・キリストの歩む道を人々に露払いのように示し、その生涯を通して、キリストの歩みを指さすような、そんな役割を担っていくんだ、という天上での神さまの声をここで響かせているのです。

 ではそのヨハネは何をどうしていたのか。4節。「荒野にあらわれて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」それが彼の宣教活動でした。神の前で一人一人自分の罪を自覚せよ、そして悔い改めなさい。そしてそのしるしとしての洗礼を受けなさい、そう語っていたのです。マタイによる福音書を見ると、ヨハネは人々に対して、蝮の子らよ、と呼びかけ、差し迫った神の怒りをだれが免れると教えたのか、とまで言っています。人間の悪、人間の罪、それに対する神の怒りから、誰も免れない、と言っているのです。彼は一人一人悔い改めることを迫った。

 すると、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」。誇張された表現もあるのでしょうが、ヨハネの活動は多くの人の集め、人々は彼の言葉に従った。まさに飛ぶ鳥落とす勢い。人々は、彼のカリスマ性に大いに魅かれ、彼こそが神からの人、彼こそが救い主なのではないか、という期待までうまれたのです。けれどもヨハネは、自分のもとに集まってくる人の中で、教祖になるわけでもなく、自分の教えに心酔して、自己完結していくわけでもありませんでした。つまり彼は自分が「神」になるのではなく、一人の人間であることにとどまり続けたのです。それは実に稀有なこと、まれなことです。

 彼は人々に向かってこう語った。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしはかがんでその方の履物の紐を解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。自分は、自分の後から来られる方とは比べものにもならない者に過ぎないが、その方を指さす者としての役割を担っているのだ。その方こそ、来るべき、まことの救い主なのだ、ヨハネはそのことを受けとめていました。

 ヨハネという人はイエス・キリストの公の活動、伝道活動もほとんど知ることはなく、十字架も復活も知ることなく死んでいった人です。しかし彼は、すでに自分の役割を知らされている。

 自分のこの世での使命はこのイエス・キリストを指さすことだ、自分の生涯はそこに向けて歩まれるものだ、ということを知っていたのです。

 つまり、ヨハネは奇しくも、キリスト以前の悔い改めを人々に語り、キリスト以前の洗礼を人々に施し、その最後の幕引きをしたものとなっていくのです。そういう形でもキリストを指さしていくことになったのです。

 ヨハネが語った悔い改めは、自分の内面の反省であったり、懺悔、後悔でした。わたしたちが今も普通に使う悔い改めです。しかしキリストが語られる悔い改めは、もうそのようなものではありませんでした。

 主イエスが悔い改め、ということで語られたのは、「神はあなたを愛してくださっている。」ということだった。極みまであなたを愛してくださっている、ということでした。そこにヨハネと主イエスが捉えていた悔い改めの違いがあるのです。

 百匹の羊のうちの一匹が迷子になり見失われた話、あれは迷子になった羊を羊飼いが見つかるまで探すという譬え話でした。ところがあの譬え話の最後で、「このように、悔い改める一人の罪人については」と主は言っておられて驚くのです。この譬えは悔い改めの話だったのか、と思うからです。羊が迷子になり、悔い改めて反省して戻ってきたわけでもない。続く見失ったコインの話はもっとそうです。主は、悔い改めを人間の反省、懺悔、後悔というようなこととして見ておられない。迷子になった羊が羊飼いに探し出されて、自分はこんなにも羊飼いに愛されていたんだ、そのことに気づくことそれが悔い改めなんだ、と語っておられるのです。

 ヨハネの洗礼は人間が悔い改めたということのしるしとしての洗礼でした。しかし主イエスによって与えられる洗礼は、悔い改めのしるしではなく、イエス・キリストの十字架と復活によってあなたも赦され新しく生きるものとされるのだ、ということです。悔い改めも、洗礼も神の恵みの業によるものであって、自分の精神力によるものではないのです。

 ヨハネの語った悔い改めも、洗礼もイエス・キリストの語るそれは違いました。ヨハネの語る悔い改めも洗礼も、それはキリストの恵みを知らない、十字架も復活も知らないものであったからです。しかし、ヨハネは自分の語る悔い改めも洗礼も、それが十分なものではないことを知っていました。自分の限界を知っていた、というだけではなく、キリストが来られることで、すべてが一新するということを彼は受けとめていたのです。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」聖霊で授けられるとは、神の力によって、神の恵みによってということです。

 ヨハネは自分が制限の中にある者であることを知っていた。だがその中で、自分の役割は何か、を神に問い、受けとめ、その役割を生きようとした稀有な人だったのです。

 今日の聖書箇所の2節から8節は4つの部分から成っていると言いました。

 2節3節で、天上での神がキリストに語られた言葉、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わしあなたの道を準備させよう」。そして4節5節でヨハネのことが語られ、人々の反応が記されていく。そして6節以下では今度は天上で語られた言葉が、ヨハネの口を通して、この地上で語られる、そういう構造になっているのです。とても美しい構造です。神が天上で語られたこと、それを旧約の預言者たちが聞き取り、語り、それを今度はヨハネが聞き取り、神が語られたことをヨハネが地上で語る。ヨハネはキリストを指さし、キリストの道を備えるものとしての自分の役割を旧約聖書から聞き取ってきたのです。天上の声が地上でも響く。ヨハネは声となった。ヨハネはその役割に生きたのです。

 洗礼者ヨハネの最期がマルコ福音書は詳しく描かれています。王によって首をはねられるというその死にざまは壮絶です。しかしその死もまたキリストを指さしている。ヨハネは自分の生と死、生涯の歩みすべてを通して、キリストを指さしたのです。わたしたちもみ言葉に聞き、自分の神から与えられる役割、使命を知らされ、それを担って歩んでいきたい、と思うのです。