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マルコによる福音書連続講解説教

2021.5.9.復活節第6主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書1章9-15節 『福音を信じなさい』

菅原 力牧師

 今朝の聖書箇所は「主イエス・キリストの伝道のはじめ」です。ここには、三つのことが出てきます。そしてこの三つのことは深く繋がっています。

 一つは、主イエスが洗礼を受けたこと。二つは主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けられたこと。そして三つは神の福音を主イエスが語り始められた、ということです。

 主イエスが洗礼を受けたことについては、今ここでは一つのことだけを確認しておきたいと思います。洗礼は、自己本位に生きてきた自分が死んで、神との関係に生きるものとして復活する、それは、神によって救われたものとして生きる、ということです。神によって救われなければどうにもならない、自分では自分を救えないものとして、神に救っていただく以外ないものとして、神の恵みの中に立つということです。

 主イエスは伝道の歩みを始めるその時、主はそこに立たれた、ということです。いやそもそもこの地上に来られた時から、そこに立つために来られた。キリストはそこに立ってただ神に頼って生きるほかない者としての歩みを始めてくださった。それが洗礼を受けるということの意味でした。

 その主イエスに対して、天からの声が聞こえてきた、それは「それでいい」、という神の肯定の声、ということです。

 

 洗礼を受けたキリストは霊によって荒れ野に送り出された。放り出された、と訳していい言葉です。霊の強い力によって荒れ野へと押し出されたのです。主イエスはそこに四十日間とどまり、サタンの誘惑を受けられた。マタイやルカとは違い、マルコはその誘惑の中身については、何も記していません。ただまことに短く、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と書かれています。誘惑の場には霊によって導かれた。そこにはサタンと野獣と、天使がいた、というのです。

 霊によって荒れ野に送り出されたということは、それが神の意志だったということでしょう。洗礼を受けて、ちょっとはまともな人間になって、この世の中で、信仰者としてそれらしく生きる、というようなことを何となく漠然と考えている人がいます。だが、そうは問屋が卸さない。洗礼受けた途端にサタンの誘惑の中に置かれる。むしろ洗礼を受けてからの方が、心中穏やかざることが多い。しかもそれが神の意志だというのです。なぜなのか。

 それは、洗礼ということが神との関係の中で生きるわたしに目覚めていくものだからです。洗礼を受けて後、わたしたちは、本当の意味で神との関係の中で生きるということに自覚的になり、それが生活の中で受け取られていく。そこではじめてサタンの誘惑、ということに気づいていくからです。神との関係が疎遠だった時、思い出した時だけの関係、自分の都合に合わせた神との関係、自分本位な関係のときにはサタンの誘惑など、まるで感じない。なぜならサタンからすれば、それはほかっておいて大丈夫な関係だからです。わたしたちは神の言葉と向き合って、神を仰ぎながら生き始めようとするとき、はじめてサタンの誘惑を感じ始めていく、と言ってもいい。なぜならサタンは、神とわたしを引き離すことをこそ、使命としているからです。神の言葉を自分の都合で聞いたり聞かなかったり、自分には神の言葉のように生きることは無理だからと思わせたり、いつかは聞こう、でも今は見送りだと思わせたり、自分の都合の良いように神の言葉を解釈して、神さまはこう思っていらっしゃる、と思い込んだりしている時、サタンは喜んでいる。もともとわたしたちの中に神をも押しのける自己本位、我がある。サタンはそれを見守り引き出していく。サタンの働きは多様です。多様だけれど、目指すところは一つ。神抜きでわたしが生きるようになることです。

 

 主イエスはその誘惑の中に身を置くことから伝道の歩みを始められたというのです。それはつまり、わたしたちの人生が辿るその歩みの只中に身を置いてくださったということです。どんなキリスト者も自覚無自覚にかかわらず直面していくサタンの誘惑の中にキリストが身を置いてくださっているということです。

 しかもそこには野獣がいたというのです。野獣はわたしたちを食い尽くすものです。わたしたちの荒れ野、誘惑の場にはサタンだけでない、食い尽くすものがいるのです。食い尽くすものとは何なのでしょうか。この世界には神の言葉が語りかけられている、その言葉に聞いて生きる時に、人は人となる、ということを根本から食い尽くしていく存在です。この世界には神の語りかけなど存在しない、そもそも神などいないのだ、あるのは人間の言葉だけだ、と思わせるほどに根こそぎ食い尽くそうとする存在、それが野獣なのです。

 野獣の狙いは、神の不在です。しかし、野獣と言えども神を食い尽くすことはできない。だから、サタンと野獣は究極神の不在を人間に信じさせる、神の不在を人間が当たり前のように受け取っていく、それが両者の使命なのです。

 キリストが伝道していこうとするこの世界は、サタンと野獣がいる場所だということ、そしてわたしたちは紛れもなくその世界の住人なのです。わたしは、このサタンと野獣に絶えず狙われ、襲い掛かられている存在。だが、わたしたちはそのことにもしばしば無自覚。イエス・キリストであればこそ、サタンも野獣も、あらわになっているのです。キリストはわたしたちの戦いの場に素手で、神以外に頼るもののない者として、身を置き、わたしたちの生きている場所を明らかにしてくださった。

 わたしたちの住む世界は、サタンも野獣もいないような真空地帯なのではない。サタンも野獣もいつも潜み、隠れている。教会も全く同じ。わたしの日常にも、サタンと野獣は働きかけている。神は不在だ、ということを信じさせようとして、虎視眈々と見つめている。

 キリストはこの場所で福音を宣べ伝えてくださる。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。これがキリストの伝道の第一声です。時は満ちたとは、時は充満した、今の時は、決定的な時を迎えている、という意味です。なぜなら、神の国が近づいたからです。神の国とは神の支配のことです。神の支配、それは神の恵みがこの世界を覆うということですが、イエス・キリストがこの世に来て、十字架と復活の福音があらわになる、そのような決定的な時を迎えている、というのです。

 サタンと野獣は、神抜きで人が生きること、神の不在を人が信じて生きることを使命として働いている、その場所で、主イエスが語られた言葉は、神の支配が今まさにあらわになる、イエス・キリストの十字架と復活の福音が神の臨在をあらわにする、ということでした。神が生きて働き、神の救いは、今まさにここにきているのだという宣言です。

 悔い改めて、というのは、反省するとか、後悔するという自分の心の持ちようというようなことではなく、この神からの恵みの出来事にわたしの存在を向きなおらせる、ということです。自分の心の持ちようなどで、わたしたちは救われない。罪の解決も与えられない。悔い改めるということは、わたしという存在をキリストという存在に向き直すこと、神の恵みに向き合うことです。具体的には、キリストの言葉と日々向き合うとこと、キリストの言葉に今ここで聞くということです。それこそがわたしたちにとって悔い改めなのです。

 福音を信じなさい、という言葉は「福音において信じなさい」と訳せる言葉です。不思議な言葉です。福音はイエス・キリストが宣べ伝える言葉に示されるもの、と同時に、イエス・キリストの存在そのものが福音、イエス・キリストがその歩みにおいて示されたことのすべてが福音です。とすれば、わたしたちは、サタンや野獣が共存しているこの世界の中で、イエス・キリストが共にいてくださるという、そのキリストの存在の中で、悔い改め、キリストの福音を信じていきなさい、そのような生へとわたしたちは招かれている、とキリストはおっしゃってくださるのです。

 福音を信じなさい、この呼びかけがすでに福音なのです。悔い改めて、真人間になって神を信じなさい、と言われているのではなく、時は満ち、神の国は近づき、神が与えてくださっている恵みとしての福音はあらわになった。だから、あなたは、体を、生活をキリストに向き直し、それを信じて生きること、それこそが求められていることなのだ。福音を信じて生きればよい、それ自体福音なのです。何度でも、聞き続けていくべき主のみ言葉です。