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2021.5.23.聖霊降臨祭主日礼拝説教

聖書:ヨハネによる福音書14章15-27節 『真理の霊を与える』

菅原 力牧師

 2021年の聖霊降臨祭、ペンテコステの朝を迎えました。今朝はヨハネによる福音書14章を通して、主の御声に聞いてまいりたいと思います。ヨハネによる福音書というのは、新約聖書の中でも、聖霊について豊かに語っている書物です。他の文書とは違った視点から聖霊について語られた主イエスの言葉を伝え記している書物です。

 15節「あなた方は、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる」。前後の文脈があるので、少しわかりにくいかもしれませんが、ここで言われていることは、イエス・キリストが父なる神にお願いして、自分が復活後、神のもとへ帰った後に、別の弁護者をあなた方のもとに遣わしてもらう、ということです。弁護者と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書は「助け主」と訳していました。もともとの意味は、「支援のために呼び寄せられた者」「援助者として招かれた者」で、ただたんに助け手、というのではなく、具体的にあなたの支援のために呼び寄せられた者、というとても具体的な内容の言葉です。この言葉を主イエスは聖霊の別名として用いておられるのです。

 主イエスはこの後十字架にかかっていかれる。そしてやがて神のもとに帰っていかれる。つまり地上からはいなくなる。だが、弁護者すなわち、あなたの支援のために呼び寄せられた者が遣わされる、それが聖霊だ、と言われるのです。さらに続けて主は、わたしは、あなた方をみなしごにはしない。一人ぼっちにはしない、そして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる、と言われるのです。

 

 主イエスがこう言われたとき、弟子たちはまだ主イエスが十字架にかかることも、十字架上で死んでいくことも、誰一人知らなかった。だから、弟子たちには主が言われた言葉は誰もよくわからなかったでしょう。しかし、主が神のみもとへ帰って行かれたのちに、この時の言葉を弟子たちは一つ一つ思い出した。その時初めて、あなた方をみなしごにしない、という主の言葉が、胸に刺さってきたのです。「あなた方のところへ戻ってくる」という言葉も、どういう意味で言われたか、わかってきたのです。

 永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる、誰と一緒にいてくださるようにしてくださるのか、イエス・キリストです。それだけではない。「わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられる」と言っておられるように、父なる神と主イエス・キリストとは、相互に内在している。互いにそのうちにおられるので、弁護者が遣わされることで、あなた方は、わたしと神と永遠に一緒だ、と言っているのです。聖霊はわたしと、イエス・キリストと神が永遠に一緒であることを明らかにしてくださるというのです。

 ヨハネによる福音書に繰り返し出てくる言葉があります。「とどまる」というキリストの言葉です。わたしの愛にとどまりなさい、とか、わたしの言葉にとどまりなさい、という具合に印象的に語られています。新共同訳聖書は葡萄の木のたとえのところで、わたしにつながっていなさい、わたしもあなた方につながっている、と訳していますが、あの箇所も元の言葉はとどまりなさい、という言葉です。とどまるはまさにヨハネ福音書のキーワード、鍵となる言葉です。

 わたしの愛にとどまるとか、わたしの言葉にとどまるとは一体どういうことなのでしょうか。

 自分のことを心から愛してくれた人のことを今思い起こしてみてください。別にたくさんの人でなくていい。一人の人でいい。親であるとか、配偶者とか、先生であるとか、友人であるとか。自分のことを心から愛してくれた人のその愛を、わたしたちは忘れないものです。どんな風にその人が愛してくれたか、それをうまく言葉にすることはできなくとも、その愛を語ることはできなくても、自分を愛し受け入れてくれた人とこの世で出会い、交わりを持ったことの喜びは深い。その愛は自分を今もどこかで活かしている、自分という人間を今も支えてくれているのです。それは、その人の愛のうちにとどまっている、ということです。愛された愛にとどまっているのです。とどまる、というと、静止する、というよう動きを止めるという時の留めるというイメージを日本語からは持ちやすいのですが、聖書の言葉では「とどまる」とは「離れない」という積極的、能動的な意味が込められており、さらには「住む」という意味に広がっていきます。わたしたちが自分を愛してくれた人の愛をとどまるとき、例えばその人はもうこの地上にいなくても、その愛から離れないで生きており、その愛の中に住むものとなるというのです。住んでいるところがその愛なのです。そして、その愛にとどまる中で、相手の語りかけた言葉を思い起こす。あのとき、母はこう言ってくれた、と。そしてその言葉をいわば全身で受ける。それが言葉にとどまる、ということの始まりです。

 キリストが、父に願って、別の弁護者を遣わし、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる、ということは「とどまる」ということと深く結びついています。わたしたちにとって大事なことは、神の愛にとどまること、キリストの愛にとどまることです。キリストの言葉にとどまること、神の言葉にとどまることです。

 しかしわたしたちは、神の愛を平気で忘れる。キリストの愛を平気でどこかに置いてきてしまう。どうしてそうなってしまうのか、よくわからないけれど気づくとそうなってしまう。サタンと野獣の仕業かもしれないけれど、自分の中の何かがそうさせているのかもしれない。

 キリストはそのようなわたしたちのために、父なる神に願った。自分が神のもとに帰った後に、弁護者を遣わしてくださるように。この助け手、聖霊は、まさにわたしたちが神の愛にとどまることの助け手なのです。キリストの愛にわたしがとどまるための支援者、援護者なのです。

 確かにキリストはもう地上にはいないし、わたしたちの肉眼で見ることは叶わない。しかし、聖霊は神の愛、キリストの愛がわたしたちがとどまるところ、住むところであることを明らかにし、示す力なのです。そしてキリストの言葉にとどまって生きることの信実をあらわにする力なのです。

 わたしたちはずっと、キリストの愛の中にいる、聖霊はそのことをわたしたちに示していくのです。

 だが、と人は言うかもしれません。聖霊は見えないし、実態もよく感じられないし、よくわからない。23節にはこうあります「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」神とキリストはわたしたちのところへ行き一緒に住むというのです。驚きです。この聖書箇所を記憶している人は少ないかもしれない。まして愛誦聖という人も少ない。読んでも通り過ぎているのです。あまりにも実感から遠いからです。神とキリストがわたしのところで住む、ありえない、と思っているのです。だが聖書はわたしたちからすればあり得ない、と思っていること、それを聖霊が明らかにするというのです。もともとわたしたちには、わからないことなのです。神の働きは。しかし聖霊は、それをわたしたちの信仰を呼び起こしつつわたしたちに指し示してくださるのです。

 聖霊の働きはわたしたちが自分の持っている知性で理解できるということからスタートするものではない。ましてや実感からスタートするものでもない。主イエスはこの福音書のはじめで「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのか知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである」と言われました。聖霊は思いのままに働かれる。わたしたちは、風がどこから来てどこへ行くのか知らない。しかし、聖霊の働きによって、神の愛にとどまるということを経験し、キリストの言葉にとどまるという恵みに与ってきたのです。大事なことは、どんな時もわたしたちは風の中にある、ということに目を開かれていくことです。聖霊の働きの中にわたしはある、ということを信仰によって受け止めていくことです。聖霊の働きの中で、わたしたちがキリストの愛を受けとめ、その言葉に聞いていくとき、わたしたちは、神とキリストがわたしのうちに住んでくださるということを経験していくのです。