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マルコによる福音書連続講解説教

2021.5.30.三位一体主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書1章16-20節 『わたしについてきなさい』

菅原 力牧師

 イエス・キリストの伝道活動が始まりました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉が宣べ伝えられたのです。

 宣べ伝えたということは、当たり前のことですが、相手があったということです。対象となる人々の前で語られたということです。主イエスは一人で福音の研究に没頭し、それを書き記して、後世の誰でもいいからこの書物を紐解けばいい、と考えるような人ではなかった。自分一人が神の言葉を受け取り、いわば悟りの境地にあればそれでよし、というでもない。特定の時、特定の場所で主イエスは具体的に人々に向って語りかけられたのです。それはキリスト教信仰の性格をはっきりと物語っています。すなわち、キリスト教信仰は、わたしたちの中の信心、信仰心から始まるのではなく、どこまでも、イエス・キリストという方が語りかけられる言葉をわたしが聞く、ということから始まっていくのだ、ということを端的にあらわしています。

 さて主イエスはガリラヤ湖の畔を歩いておられました。するとシモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になりました。彼らは漁師であり、まさに漁をしているところだったのですが、主は、二人に声をかけられた。呼びかけられたのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。すると二人はすぐに網を捨てて、従った、というのです。

 とても短い文章です。しかも、よく読むとわかるように、続く19節以下の文章も、実によく似ている。日本語訳では違う部分もありますが、原文ではよく似ている。どうしてこんなにも似た文章が二つ繋がっているのでしょうか。そこに、何かこの文章を読む鍵があるような気がします。

 

 主イエスは、漁師が網を打つという彼らの日常の仕事の場を見ておられる。そして、いきなり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われるのです。唐突な呼びかけです。いきなり、初対面であるにもかかわらず、呼びかけるのです。それだけでも驚きです。わたしたちはふつう、はじめての人に出会ったら、こんにちはとか、時候の挨拶とか、簡単な自己紹介とかから始める。しかし主イエスはいきなり呼びかける。しかもその内容は、わたしについて来なさい、従ってきなさい、という重い内容なのです。ところが、主イエスの呼びかけに聞いたシモンとアンデレはなんと網を捨てて従った、というのです。

 キリストの呼びかけも唐突なら、それに即断即決、網を捨ててついていく決断を何の躊躇もなくしたシモンとアンデレにも驚かされる。どうしてこんな決断ができたのか。しばらく考えさせてください、というのが普通なのではないか。ルカによる福音書の同じ個所を見ると、ずいぶん詳しく従うまでの様子が記されています。あまりに簡潔なマルコに対して、ルカが詳しく書いているのは、よくわかるような気もします。しかし、そもそもマルコは、情報がないから、このような報告をしているのかどうか。余分なことは書かないで、これで十分、と思って書いたのかもしれない。さきほど、今日の聖書箇所は、16節から18節までと、19節から20節の文章の構造がとても似ている、という話をしました。似ているのはたまたまではないかもしれません。マルコは弟子の召命ということを、このような単純な形で、しかし輪郭のはっきりした形で受けとめていたのではないか。

 呼びかけとは、どういうことなのでしょうか。例えば、母親が子どもにむかって小言を言って、「あなたのためを思って注意しているのよ」と言っている。だがそれが子どもにはうまく届かず、右の耳から左の耳へ流れていく。それは、母親の言葉が、この自分に向って語られた言葉として聞けていない、ということです。わたしたちは普段いろいろな人の言葉を聞いている。テレビや、ネットや、新聞にあふれている声や言葉。だがそれは誰を目指している言葉なのか。誰にでも向かう、つまり誰にも向かわない言葉かもしれない。不特定多数の人を目指している言葉とは、誰にも向かわない言葉かもしれない。

 人は、本当のところ、自分に向って語られたと聞いた言葉しか聞いていないのかもしれない。情報として、話としてたくさんのことを聞いているとしても、それらは通り抜けていく。本当に聞いて自分の中に入ってくるのは、自分に向って語られていると受けとめた言葉だけなのではないか。母親の言葉を、その子どもが母親になったときに、「ああ、あの時母が言ってくれた言葉は自分に向って語られた言葉だったんだなぁ」と受け取った時が、聞いた時なのでしょう。

 聖書の言葉も同じです。どれほど聖書をパラパラ読んでいるとしても、それらしい知識が増えたとしても、自分に呼びかけている、語りかけられている、と受けとめられて初めて人は聞くのです。どこで、どの言葉が、自分に向って語られている言葉と受けとめるかは、人それぞれ。しかも、なぜこの言葉が、自分への呼びかけなのか、人に説明できるわけでもない。さらに、その自分への呼びかけとして聞いた言葉にどう反応するかも人それぞれです。例えば「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という主イエスの言葉が、ある時自分への呼びかけとして聞こえてきた。聞こえてきたのだけれど素直に「はい」と言えるわけでもなく、自分の現実は隣人愛には程遠い現実で、悶々と悩む、ということもある。ぐずぐずしてなかなか応答できない、という場合もあるでしょう。呼びかけに聞いたから、即実行というわけではない、しかしその人の中でその言葉は無視できない言葉として届いているのです。

 

 ここで、シモンとアンデレはその呼びかけに応えて従ったのです。どうして従ったのか、わかりません。しかし二人はまちがいなく、イエス・キリストの言葉を、呼びかけを、自分を目指す言葉として聞いたのです。マルコはそれを描いて的確、簡潔。「わたしについて来なさい」という主イエスの言葉は、「わたしと一緒に歩いていこう」という呼びかけです。単に「お元気ですか」、「頑張ってください」というその場限りのこととは違う、わたしと共に歩んでいこうという呼びかけです。二人は、それぞれこの呼びかけを自分への呼びかけとして聞いたのです。そして共に歩んでいきたいと願ったのです。

 

 そこで何が起きるのか。従うという時何が起こるのか。網を捨てて、従う、と聖書は書いています。捨てるということが起こったのです。20節の「残して」というのも、同じ言葉です。

 網を捨てて、とあるので職業をなげうって、仕事も放棄してイエスに従った、と読めます。しかし、ここで語られている捨てるとは、そのように一元化して読むべき言葉ではない。シモンはペトロの本名ですが、ペトロはこの後漁師をやめたわけではない。自分の家にも帰り、姑が病気のときには看病もしている。これまでの日常生活を全部捨てて、修道院に入るようにして、キリストに従った、ということなのではない。もちろん、イエス・キリストに従うがゆえに、仕事もやめ、これまでの生活を断ち切って従った人もいます。しかしもしそれがすべてなら、わたしたちのほとんどは、それに適っていない、ということになる。そうではなく、捨てるとは、自分がこれまで握りしめてきたこと、大事だと思い込んで、握りしめてきたもの、それがキリストとの出会いの中で、わたしと共に歩んでいこうという呼びかけの中で、決意ではなく、気がつくと手離していた、というようなことが、核にあるような出来事です。例えば、自己実現というようなことが最も大事だ、と思いそれを握りしめていた人が、キリストと共に歩む道を行くの中で、握りしめていたものを緩やかに手離していく、それはたんなる放棄ではなく、キリストと共に歩む中で、今までとは違う、新たな自己実現というものを思うようになる、というような、ことです。

 

 キリストの呼びかけに応える、捨てて従う、ということでステレオタイプな(型に嵌った)イメージを勝手に作り上げる必要はない。大事なことは、それぞれが、呼びかけに聞くということ。信仰はそこからしか始まらない。自分に向って語りかけるキリストの言葉に聞く、ということ。聞くことで様々な反応が自分の中で起こってくることはこれも大事なこと。しかし、ある時、キリストの呼びかけに聞いて従うということが起こっていく。一緒に歩いていこう、と呼びかけるキリストについていきます、という声を出している自分に正直になる必要がある。そこで捨てるということが起こっていく。もちろん一度捨てたら、ずーっと捨てきれるわけでもない。また自分の中で、変化が起こっていくかもしれない。しかし、それでもいいから、キリストの呼びかけに聞いていくことこそが大事なのです。日々聖書に聞きなさいとか、み言葉に聞きなさいとは、その中で、キリストの呼びかけに出会うからなのです。キリストはわたしをご覧になってくださっている。キリストはわたしに呼びかけてくださる、そのことを受けとめながら、呼びかける声に聴けるものとしてください、と祈っていきたいと思います。