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マルコによる福音書連続講解説教

2021.6.6.聖霊降臨節第3主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書1章21-28節 『権威ある教え』

菅原 力牧師

 主イエスと共に歩み始めた弟子たちとの一行は、カファルナウムという町に着きました。そして安息日になったので、ユダヤ人の会堂に入り、主イエスはそこで教え始められました。教えると言っても、今のわたしたちが考えるような勉強を教えるということではなく、神の言葉を宣べ伝えるということです。主イエスの公の活動は14節でみたように神の福音を宣べ伝えることから始まった。そしてここカファルナウムでも、そうだったのです。人々はその神の福音の宣べ伝えに非常に驚きました。何をどう驚いたのか。教えの内容は記されていませんが、律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである、というのです。権威ある者とはどういうことなのかは後で考えるとして、ちょうどその時、会堂に穢れた霊に取りつかれた男がいて叫びだしました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」マルコによる福音書の中には、穢れた霊、サタン、悪霊などたくさんの言葉が出てきますが、細かい違いはともかく、これらはみな同じ霊を指しています。悪霊です。会堂の中に悪霊に取りつかれた男がいた。だから彼が叫んだのですが、叫んでいる主体は悪霊と言っていい。悪霊は、主イエスの正体をすぐに見抜くのです。正体だけでなく、どうして主が来られたのか、その目的も知っているのです。なぜ他ならぬ悪霊が主イエスの正体を、誰よりも早く、的外れでなく見抜くのか。それは、悪霊にとって自分の存在を脅かす最も手強い相手がイエス・キリストだからです。動物が自分の敵を本能的に知っているように、悪霊は知っているのです。弟子たちも、ユダヤの宗教者たちもまだ誰も正体も、目的も見抜かないうちから悪霊は主イエスの正体を見抜いたのです。

 しかしいくら悪霊が正体を見抜いたと言っても、自分たちの敵として見抜いているのですから、キリストを信じ、キリストを救い主と告白するのとは全く違う方向なのです。

 主イエスは悪霊に向って、「黙れ、この人から出ていけ」とお叱りになりました。すると悪霊は、その人に寄生していたわけですが、引き裂かれていくのです。そして大声をあげてその人から出ていくのです。見ていた人々は、また驚きます。そして、こう言うのです。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある、新しい教えだ。この人が穢れた霊に命じると、その言うことを聴く」。

 今日の聖書箇所はある一日の主イエス働きについて語っています。しかし、それはたまたまの一日の歩みではなく、その後の主イエスの歩みを凝縮している一日と言える歩みなのです。主イエスの歩みの中で繰り返されることが、ここで語られているのです。福音を宣べ伝える、そこで悪霊との激突が起こる。バトルが起こる。神の福音が宣べ伝えられるところ、そこでは悪霊との激突、戦いが避けられない、ということでしょう。さらにいえば、それはイエス・キリストのみならず、神の福音がまこと語られていくところ、弟子たちであろうが、パウロであろうが、その教会であろうが、この戦いは避けられないということでもあります。だからこそ、主イエスは弟子たちを伝道に派遣するときには、神の福音を宣べ伝えさせるとともに、悪霊を追い出す権能を弟子たちに与えているのです。つまりそれは、教会の伝道の歩みにもつながることと言えるでしょう。もし教会が神の福音をまともに宣べ伝えていくのなら、必ずそこで、悪霊とのぶつかりは避けられず、その戦いも避けることはできない、ということです。

 悪霊の働きの中心には、神と人間を切り離そうとする働きがある、ということを以前にも聞いてきました。それはまことに巧妙複雑で、気がつくとわたしの生活のどこにも神がいない、神抜きで、かつ平然と生活するものになっていく、それが悪霊の働きです。自分の作り上げた神のイメージ、自分本位でわがままな神理解、これらはみな神と人間の切り離しなのですから、悪霊はそこでも働いている。悪霊の働きと言って、何かわたしたちが凶悪な人間になるとか、悪事を働く者になる、というようなことではない。神さま、神さまと口先だけで言っても、実質神の言葉に正しく聞いていない人間は悪霊にとって、好感度が高い。

 

 キリストは会堂で神の福音を語られた。聞いていた人々はその権威ある教えに驚いた。さらに悪霊も叫び始めた。キリストはいったい何を語られたのでしょうか。何も書かれていません。しかし、ここまでの文脈からわかることがあります。それは、ガリラヤでの第一声、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という神の福音であることはまちがいありません。

 主イエスの言葉を、今もう少しわかりやすく言い直してみれば、「神さまがお定めになった決定的な時が来た。神さまの支配、神さまの愛の支配の時はやってきている。もうすでにあなたたちは神さまの愛の恵みの中にある。神さまの方に向き直って、福音を信じなさい。」

 つまりイエス・キリストがこの世にこられたことで決定的な時がやってきているのです。神の救いの歴史は新しい時を迎えている。どんな人も、神の愛の中にあって生き活かされていくことがキリストによって明らかにされていく。神さまの愛に向き直って、福音を信じなさい。そうキリストは語られた。神さまの愛の支配の時がやってきている。それは人がどんなに悪霊に取り憑かれ、悪霊の奴隷になっていたとしても、イエス・キリストによって買い戻されていくんだ、悪霊の力から解き放たれていく時が来ているんだ、と主は言われたのです。

 この言葉を聞いた時、人々はひじょうに驚いた。律法学者のようにではなく権威あるものとして語られたからだというのです。その権威というのはどういうことでしょうか。律法学者は律法そのものの権威に基づいて語る。当然でしょう。しかし主イエスは、律法の権威ではなく、キリストが事実神の愛によって活かされ、生き、神さまの支配の中で生きている。神の言葉によって歩んでいる、そのキリストの内から溢れ出る権威です。それは振り回す権威ではなく、滲み出る権威と言っていい。そしてキリストは、あなたも神の愛の支配の中に今生かされているんだ、といっている、あなたも神の愛の中にすでにあるんだ、と言ってくださる。確かに尚、悪霊の力は猛威を振るっている。だが、神の愛の支配の中で、あなたは悪霊の力から解き放たれていくんだ、と語られたのです。人々はもちろんまだわからないことの方が多かったでしょう。イエス・キリストの十字架も復活もまだこの時知らないのです。しかしこの言葉は神からくる言葉だという力を感じたのです。キリストからにじみ出る権威を、神から来る権威をわからないなりにも感じ取ったのです。悪霊は最も深刻な脅威を感じたのです。

 

 キリストの語る福音の言葉は、神からくる言葉、そこで人々は神と出会う。それは神についての知識ではない。キリストに語る福音によって人は神の愛に出会う。キリストご自身が神の愛そのものなのだから、キリストの語る言葉によって人は神の愛に出会わないはずがない。キリストの語る福音によって、人は神が生きて働き、わたしたちを愛の支配の中においてくださっていることを知る。

 

 それは悪霊にとって、自分を滅ぼすに等しい言葉なのです。だから悪霊は声を上げた。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている」。悪霊と人間のドラマは、自分は縁遠いと思っている人もいます。しかしそれは縁遠いのではなく、気づいていないだけなのです。事実聖書にわたしたちが真摯に聞き始めていくと、自分自身がさまざまな形で悪霊の働きというか攻撃に身を晒していたことに気づくようになる。悪霊を誘い込むような何かが自分の中にもあり、それと悪霊とが絡み合って、わたしの中で働き始めていく。気がつくと、神とわたしの関係は、静かに音もなく切断されている。

 イエス・キリストは、まさにそのようなわたしたちのために来てくださったのです。悪霊が我々を滅ぼしに来たのか、といったように、一人一人が主イエス・キリストの語る神の福音に聞くことにおいて悪霊を退けていく、キリストが最終的に悪霊に勝利していることを信じるものとなるためにおいでくださったのです。

 イエス・キリストの語る福音に、一つ一つのみ言葉に聞いていきましょう。そこでどんなことが起こっていくのか、我が身で経験していきましょう。