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マルコによる福音書連続講解説教

2021.6.13.聖霊降臨節第4主日礼拝式説教

聖書:マルコによる福音書1章29-39節 『癒す主イエス』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所には主イエスによる病の癒しと悪霊の追い出し、ということが語られています。最初にシモン・ペトロの姑の病をいやす、ということが記され、その後、主イエスのもとに大勢の病人や悪霊に取りつかれた者が連れてこられて、主イエスが癒す、ということが記されています。

 わたしたちはこうした福音書の記事をどんなふうに読んできたのでしょうか。「なるほどそうだったのか」という具合に、あまり難しく考えず素通りしていく、という読み方をする人もいるかもしれません。病気をいやす、ということに何とも言えぬうさん臭さを感じる人もいるかもしれません。特に現代人である我々はそうかもしれません。あるいは、主イエスはどうして病をいやすことができたのか、という疑問の前で立ち止まっている人もいるかもしれません。さらにはここには「奇跡」というわたしたちにとってハードルの高い障害物があって、近寄れない、と感じている人もいるかもしれません。

 そうした読み方、感じ方の共通点はなかなか出来事の中に入っていけない、ということです。外側はグルグル回っているのだけれど、出来事の中に入っていけない、ということです。

 こうした癒しの出来事をわたしたちはどう受け止めていけばいいのでしょうか。今日の聖書箇所の後半に大事なことが記されています。それは、主イエスのもとに病人や悪霊に取りつかれた人たちが次々にやってくる中で、主は一人、朝まだきに人里離れた場所で祈っておられた。するとシモンやほかの者たちが主イエスの後を追い、「みんなが捜しています」そういって暗に戻るよう促した、その時の主はこう言われた。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」。この主イエスの言葉こそ、今日の聖書の言葉を聞くうえで大事な言葉です。

 シモンたちが主イエスの後を追ってまで来たのは、病人や悪霊につかれた者たちの癒しのために主イエスに戻ってほしいと考えたからでしょう。彼らは、主イエスのなさった奇跡を見て、その奇跡の力で人々の期待に応えていくことこそが重要なことだと思ったのでしょう。

 ところが主イエスは、元の場所に戻るのではなく、他の町や村へ行こうと言われ、そこでもわたしは神の国の福音を宣べ伝える、そのためにこそわたしは来たのだから、と言われたのです。つまり主イエスにとっての使命とは、福音を宣べ伝えることだ、と言われているのです。しかし一方で主イエスは悪霊の追い出しも、病の癒しもその後も繰り返しなさった。つまりそれは、主イエスの本来の使命は福音宣教で、悪霊の追い出しや病の癒しは、二次的、副次的なもの、ということではなく、福音を宣べ伝えるところで、病人や悪霊に取りつかれた者がいる時には、癒しが必然的に起こってきた、ということなのです。それは福音が持っている本来的な力、広がり、と言っていいことなのです。

 イエス・キリストが宣べ伝える福音は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主の言葉です。わたしたちはこの言葉をマルコによる福音書を読んでいる間、ずっと聞き続けることになるのですが、神の愛と恵みの支配の時が来ている、と言われるのです。あなたもその愛の中に、恵みの中に置かれているんだ、だから、神さまに向きなおって、この恵みの支配を信じなさい、主イエスは、この福音をこそ宣べ伝えていかれたのです。

 神の愛はイエス・キリストの十字架という形で具現する愛でした。今十字架愛を一つの言葉で語るなら、それは「負う」ということです。わたしという人間を負う、背負う、全部背負う愛なのです。罪も死も、わたしという存在も全部背負う愛。

 もちろんこの福音を聞いた人々は、いまだ十字架も復活も知らない。しかしイエス・キリストの到来によって、あなたはこの愛に覆われ始めている、もうすでに負われているのだ、と福音は語るのです。

 病人というのは、当時の社会の中でそれが重い病気であれば、罪の結果だということから罪人という烙印を押された人たちでした。福音書の中には例えば12年間出血の止まらない女性が登場してきます。医者に見棄てられ、治療も行き詰まり、お金も散財し、どうにもならない上、社会から罪人という烙印を押しつけられる。つまり病人や悪霊に取り憑かれた人々というのは行き場を失っていた人々なのです。

 行き場を失っているということ、それがどんなに人としてつらいことか。行き場を失うということは、関係が切断されているということです。他者と切断されて、社会との関係も切断され、家族とも切断され、一人で生きることを強いられているのです。マルコ福音書の5章には悪霊に取り憑かれていた人が墓場で暮らしていたということが記されています。墓場というのは当時町の外にあって、人々の忌み嫌うところでした。悪霊に取りつかれている人は、行き場を失って、墓場で暮らすほかなかったのです。主イエスはこの行き場を失っている人々に対して、福音を宣べ伝えた。それは伝道の歩みの中で、たまたまそういう人たちが主イエスのもとに来たから、福音宣教の合間に人助けだと思ってしました、というような話ではない。あるいは、主イエスに人に対する優しさがこうした行為になって現れた、というのでもない。

 主イエスが語られる福音、この福音が人を一人にしないのです。神の国の福音、それは人を一人にしない。神はあなたと共に生きる、インマヌエルの神だという福音です。あなたはイエス・キリストによって負われている、という福音なのです。イエス・キリストによって背負われ、神の愛の中にすでに置かれているあなただ、という宣言がこの福音の中には込められているのです。

 主イエスのこの世での中心となる働きは福音の宣教です。言葉による教えです。福音の宣べ伝えです。しかしその言葉は語られて終わり、ということではなく、現実の中で生きて働き、わたしたちの中でも生きて働き、わたしの現実として生きるのです。なぜならこの福音の言葉は十字架愛に結実していく言葉だからです。わたしたち一人一人を負うということに具現していく言葉だからです。わたしという人間存在が、どんな時も、一人であるのではなく、神が共にいまし、キリストに背負われてある存在なのだという神にある現実を指し示す言葉だからなのです。

 

 とりついていた悪霊が出ていった、それは悪霊がこの福音の力を知っていた、ということです。悪霊にとってキリストが宣べ伝える福音の言葉ほど、自分たちの存在を脅かすものはないからです。一方、病人の癒しということは、たしかにそれは主イエスがなさった奇跡なのです。奇跡なのですが、それは福音が人間にとっての根本の癒しだということを指し示すしるしとしての奇跡なのです。

 あなたはキリストの愛の中にある、一人ではない。生も死も、どんな時も神と共にあり、あなたの罪もあなたの存在もすべてキリストによって負われている。この福音は、人間の根本の癒しなのです。

 人を本当に癒すのは福音の力です。ここで病気が癒された者も、やがてまた病気になり、そして最後は死んでいく。しかし、福音のよって癒され、根本の癒しを受けたことは、その人の中で生きていくのです。

 人々は、福音ではなく、奇跡にまず目を奪われます。そして場合によっては奇跡だけ求める。主はそのことをも熟知しておられた。だからこそ、主はわたしの使命は福音の宣教だと言われた。そして福音に聞くことを何よりも望まれたのです。すべてはそこから生まれていくことだからなのです。

 福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人をいやした主イエスが朝早くまだ暗いうちに起きられ、一人神に祈られたことが今日の聖書には記されています。このことをわたしたち一人ひとりっ胸の内で受けとめていきたいと思います。福音を宣べ伝えていくことは、主イエスにとって、神との関係、神との交わり、すなわち神の愛を受け続けることなしには、できないことなのです。まして、わたしたちにとって、福音に聞き、福音に応えて生きようとするのなら、一人神に祈る生活抜きには、それは叶わぬことと言えましょう。神に祈りつつ、福音の言葉をわたしたちは全身で受けていきたい。存在全体で受けていきたい。その福音の力の中で、福音に応えて生きていきたいと願うのです。