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マルコによる福音書連続講解説教

2021.6.20.聖霊降臨節第5主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書1章40-45節『憐れみの主イエス』

菅原 力牧師

 主イエスのもとに重い皮膚病を患っている人がやってきました。重い皮膚病というのは、らい病すなわちハンセン病のことだろう、とも言われてきました。おそらくハンセン病も含むとして、実際にはもっと広くいろいろな皮膚病を含んでいたようで、病名を特定することはできません。新しい翻訳として出された協会共同訳では「重い皮膚病」を「規定の病」と訳しています。つまり旧約聖書に規定された病ということなのですが、しばしば穢れた病として、社会との関係を断たれ、隔離された病だったのです。つまり病名もさることながら社会から忌避された病だった、ということを表しているのです。主イエスのもとにやってきたこの人も、何重もの苦しみを負わされていたでしょう。社会と切り離され、家族とも切り離され、そのうえ、宗教的に穢れたものとしての烙印を押されていた。町に入ることも容易ではなく、万一入る時でも、「わたしは穢れている、穢れている」と連呼し続けなければならない、そういう掟があったのです。なんという非人間的な掟でしょうか。一人の人間をある意味とことん追い詰めていく。さまざまなものから切り離されたところへ追いやっていく、そういう苦しみを受けていたのです。

 彼はイエスのもとに跪いて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言うのです。ずいぶん持って回った言い方です。ストレートな物言いができない程に、これまでの人生が捻じ曲げられてきたのです。

 主イエスはこの人を見て、深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れた、のです。深く憐れんで、という言葉は、実は他の有力な写本では「怒って」という言葉になっているものがあります。こういう場合、どちらがオリジナルに近いのかという議論は当然あります。しかし、二つの言葉が伝わっていることを考えると、二つ共に大事だともいえます。

 主イエスはこの人を見て深く憐れんだのです。それは背負いきれない重荷を担わされてきたこの人に対する深い憐れみなのです。この人が負っている苦しみに対する憐れみです。憐れみというのは内臓がねじれるようなという言葉で、主イエスは内臓がねじれるような思いで、彼を憐れんだのです。

 そしてそれは怒りでもあった。なぜならそこには、彼を様々なものから切り離され、追いつめている者への怒りがあったからです。そしてそれは悪霊に対する怒りだったのです。確かに、この重い皮膚病にかかっている人を追い詰めているのは、人間です。当時の社会であり、宗教的な体制、人々の差別する心、痛んでいる人への鈍感な心、その一つ一つに対する怒りもあったでしょう。しかし、人間をそのようなものへと動かしていく悪霊に対して、主イエスは激しい怒り・憤りを持たれたということです。主イエスは憐れみと憤りの思いの中で、手を差し伸べて彼に触れたのです。

 当時、人々はこの病にかかっている人を見たら、離れた。近づかないのです。伝染を恐れたからというだけでなく、深い罪によって穢れていると思われたのですから、穢れ者には触れない。触ればその人も穢れる。しかし主イエスは、その人に手を差し伸べて触れたのです。それは律法の掟に抵触する行為です。しかし主イエスは構わず触れたのです。それはわたしたちがたんに、相手に対して、肩をたたいて元気?というようなことではない。ここには明確な意思があるのです。思いがあるのです。それは、あなたとつながっている、という意思です。相手の苦しみに降りていく意思です。福音はその人を一人にしない、ということを、わたしたちは主イエスから先週聞きました。まさにそのことです。

 「よろしい。清くなれ」そう主が言われると、重い皮膚病は去り、その人は清くなった。彼はあなたが望まれるのであれば、あなたはわたしをお清めになることができます、といったのでした。

 それに対して、よろしい、つまりわたしは望む、と言っておられるのです。

 人々は彼を隔離し、斥け、遮断し、関係を絶つことで、自分たちの清さを守ろうとしました。患者に触らず、遠ざけることで、自分たちの清さを守ろうとしました。しかし主イエスは彼を遠ざけるのではなく、彼を受け入れ、彼を受けとめて、清くしてくださる。それは罪人である人間を退けるのではなく、罪人を背負い、担い、赦して新しいいのちへと活かす神の愛の現れそのものです。

 あなたは孤立しているのではない。一人ぼっちでもない。あなたは神の愛の中にある。キリストは彼を背負って、彼の罪の十字架において担い、その罪の担い、キリストは彼を清いものとしてくださる。

 

 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。」

 どうして厳しく注意されたのでしょうか。一つのことを言えば、キリストはご自分のことをたんに奇跡をする人として、受けとめられることを望まなかったからです。奇跡行為者として、一人一人と向き合っているのではなく、一人一人の苦しみを担うものとして、一人一人の存在を担うものとして向き合っているのです。それが厳しい注意となったのです。

 そして主イエスは彼に「行って祭司に身体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と言われたのです。

 これは今で言う治癒証明です。それは祭司が司るもので、祭司の治癒証明がでて、必要なささげものして、彼は晴れて社会復帰するのです。キリストは彼が社会に復帰することを望まれ、当時のユダヤ社会の律法に従い必要な手続きをするよう命じられたのです。

 主イエス・キリストによる癒しの奇跡は、例えば病気の人が元気になったとして、永遠に死なないようにする、というものではありませんでした。主イエスにとって、奇跡自体がゴールでないことは明白で、奇跡はその人たちを何かへと導くものであり、しるしである、ということにわたしたちもまたはっきりと気づかなくてはなりません。

 重い病が清められたこの人は、清められたことで、神と向かい合って生きる場へともう一度招き入れられた。この病によって遮断させられていた人と人との交わりの中にもう一度招き入れられた。つまりそれはその人を本来の関係の中に復帰させる業、関係の中にあるその人の復権なのです。

 隔離され、遮断され、絶縁させられていた一人の人。みんなから否定されていた人。こんなことがあっていいわけはない。人間を人間でなくするような仕組み。しかし事実そうさせられていた。キリストを目指して駆け寄ってきたこの人をキリストは受けとめ、この人にご自分の存在を向けて、神との関係の中に、イエス・キリストとの関係の中に、そして人々との関係の中に、この人を連れ戻し、回復させる。それがここでの主イエス・キリストの業なのです。

 わたしは、隔離されていない、遮断されていない、絶縁させられてはいない、そう思っている人も、ちょっとしたことで、自分から関係をシャットダウンしてしまう。自分の方から閉鎖させてしまう。

 病はしばしば人を孤立化させる。深い悩みも、人を隔離させる。人はさまざまなものによって、自分を閉鎖させてしまう。そして神との関係を見失い、自分の方から神との関係も遮断させていく。それはこのらい病に苦しんだ彼とはいろいろな意味で違うでしょう。けれど重なり合うものもあるのです。人を孤立化させていく力の中にある、ということです。

 重い皮膚病を患っているこの人は、自らの意志でキリストのもとに駆け寄り、キリストと出会った。そして自らの癒しを経験したのです。わたしたちがこの聖書箇所からどうしても受け取らなければならないことがあります。それは、彼にとってそうであったように、わたしたちも、どんな時も駆け寄って、出会うことのできる方がいるということ、いやそもそも駆け寄るまでもなく、わたしたちの傍らにこの方は立っていてくださり、わたしたちを背負い、担っていてくださるということ。そしてわたしたちを受け入れ、受けとめ、神の愛の中の中にわたしを、キリストの愛の中にいるわたしを気づかせてくださるということなのです。

 時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。あなたも神の愛の中にあるんだ。あなたの心も身体も神に向けて、この福音の中で今日一日生きていきなさい。キリストはそう呼びかけておられるのです。