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マルコによる福音書連続講解説教

2021.6.27.聖霊降臨節第6主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書2章1-12節 「あなたの罪は赦される」

菅原 力牧師

 主イエスの噂と評判は瞬く間に広がっていきました。たしかに活動を始めてからの時間は短いのですが、悪霊を追い出したり、多くの病人をいやしたり、といった奇跡行為は、あっという間に人の口に上り広がっていったのです。奇跡行為者としての主イエスの評判は悪いはずもなく、主イエスの元には人々が群がるようになっていきました。

 主イエスがカファルナウムの町に行った時のことです。イエスが来られたということを聞き知った人々が集まり、主イエスが滞在していた家は立錐の余地もないほどになりました。主イエスはその家でみ言葉を語っておられた。そこへ一人の男が運ばれてきた。中風にかかり、おそらくは板のようなものに横になってそれを四人の男たちが運んできたのです。しかし家の中から人が溢れるほどの状態でとても主イエスのもとに連れていけないと思った四人は、屋根に上り、屋根をはがして病人を家の中につり下ろしたのです。乱暴と言えば乱暴な話。ただ、人の家を勝手に壊してまでも病人を主イエスに会わせたい、という熱意でそうしたのでしょう。

 主イエスはその人たちを見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。その人たちの信仰というのは、主イエスのところへ行けば何とかしてくれるだろうという信頼、というようなことだったかもしれません。それは癒しの奇跡に対する信頼と言っていいものだったでしょう。四人の男たちもそのためにこそ苦労してここに連れてきたのです。しかし主イエスはここでこの病人に、罪の赦しの宣言を語った。人々はきょとんとしたのではないか。罪の赦しの宣言など病気の人にとって何の役に立つんだ、と思ったのではないか。

 なぜ主イエスは病の人に向って「罪の赦し」を宣言したのでしょうか。これまでは病の癒しの奇跡をなさってきた主が、どうして「罪の赦し」を語られたのでしょうか。それを考えるうえで大事なのが、9節の主の言葉なのです。9節の主の言葉は直接には律法学者たちに向けられています。それは彼らが主イエスの「罪の赦し」の宣言を聞いて、これは神への冒涜だ、と思ったことに対する主の言葉なのです。

 律法学者たちは怒りに近いものを感じていました。罪の赦しはただ神のみのなさる業、それをこの男は、という怒り。自分を神と同一視するような冒涜の罪を犯している、という怒りです。

 主イエスはそれに対して、「なぜ、そんな考えを抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと『起きて、床を担いで歩け』というのとどちらが易しいか」と言われたのです。

 

 ここを読んで、なぜ主イエスがこういうことを言い出されたのか、よくわからないと感じた人は少なくないでしょう。わかりにくい言葉。ここには主がこれまでなさってこられた「癒しの奇跡」ということと、主が中風の者に語り、これから十字架に向う歩みのすべてで示されていく「罪の赦し」ということとが問いの形で語られている。わたしたちはマルコ福音書を読み始めて、たくさんの癒しの奇跡に出会っていくし、これから後も主は癒しの業をなさる。なぜ、これほどに主は癒しの業をなさるのか。そして「罪の赦し」これはどう関係しているのか、主はここで初めて問いの形で語られている。その二つを並べて、どちらかが易しいか、と尋ねられて、二つのことをわたしたちに考えてみるよう促している。

 

 律法学者は答えを持っていたと思います。いうまでもなく、罪の赦しの方が難しい。なぜなら罪の赦しは神お一人ができること、と思っているからです。罪の赦しは人間にはできないことだ、と思っている。しかしもう一方で、罪の赦しは口で言っても、結果は見えない。しかし、病気の癒しは、結果が見えることなので、実際には癒しの奇跡の方が難しいとも思っていたのではないか。だから律法学者は何も答えていないのです。

 

 しかし主はなぜここでこんな二者択一のような質問をされたのか。それは、どちらがどう易しいと答えることではなく、この二つがどう関係しているのか、問いかけているのではないか。

 主は中風の者が運び込まれてきたとき、「あなたの罪に赦される」と言われた。それがこの人に最も必要なことだと思ってそういわれたのです。つまり、罪の赦しこそ、人間にとって最も必要な癒しだ、ということです。

 病気というのは、その人が犯した罪の結果だ、と考える人たちが聖書の時代にいました。もちろん病気は罪の結果だけというのではない、さまざまな原因があることはこの時代の人々も感じていたでしょう。しかし生まれつきの病や障がい、なかなか治らない病の現実の中で、どうしてこんなことになったんだという原因を求めていくのは、人の常なのかもしれません。治らない病気が多い現実の中で、病気をどう受け止めるかということは深刻な課題だったでしょう。そこで人々は病は罪の結果だという因果応報を持ち出してくるのです。

 イエス・キリストは病を罪の結果だとは思っていませんでした。しかし病と罪は深く関係していることは、ご承知でした。

 

キリストは癒しの業を行った。それはその人の健康を回復するためです。その場合、キリストが指し示された健康とは、全体性の回復にかかわることでした。健康とは、全体性にかかわることなのです。

 キリストの癒しは人間そのものの治癒であった。人間存在の全体を回復させることでした。例えば人間は病魔に襲われるだけでなく、悪霊にも、サタンにも襲われ、人間の何か大事な部分を奪われていく。人間が本来与えられている全体性、それがさまざまな形で奪われたり、欠損状態になっていくのです。キリストの癒しは、その奪われた中でも、欠損状態になった中でも、その人間の全体性の回復を目指すものでした。それがキリストにおける癒し、健康ということなのです。

 

 例えば、わたしたちは病気になった時、病気そのものによって孤独感を味わい、自分一人が苦しんでいるんだという孤立感を感じていく。それは病気自体の力であると同時に、悪霊の働きとも言える。病気で孤独を強いられる中で、神はわたしを見捨てている、という思いに取り憑かれたり、希望を失ったり絶望したりすること、それは神との関係が切断されて、神との関係の中にある自分を見失ってしまう。つまり神さまのとの関係の中にある自分という全体性の重大な部分が奪われていく、欠損状態になるのです。夫は妻を失って、夫である自分を失うのです。妻を失うことで自分の中の夫が喪失する。それは完膚無きまでに失われてしまって、自分の中の喪失がどれほどのものかわからない、といいます。その時その人の全体性の大きな何かが奪われているのです。病気で、悪霊の働きで、神の恵みの中で生かされている自分を喪失するのです。完膚無きまでに喪失するということも起こるのです。

 

 病だけではない、人はさまざまなものを喪失していく。しかし、喪失したら全体性は回復できない、というのではなく、喪失した中であっても神との関係が回復され、人との関係が新たに生まれ、今のその人においての全体性というものが回復していくのです。病気であってもその人の全体性が回復しているのなら、その人は健康な自分なのです。病気がなくても、全体性が損なわれているのなら、癒されていないのです。

 主イエス・キリストは、この世界にやってきてくださって、癒しの業をたくさんなさった。しかしその癒しというのは、「あなたの罪は赦される」あなたは神の愛の中にしっかり置かれている、神は罪人のあなたを許して新しいいのちの中であなた共に歩んでくださる、ということに究極する癒しなのです。

 主イエスはこの癒しを、わたしたちのこの世界に齎されたのです。罪の赦しと、癒しの奇跡、それは無関係なことではない。癒しの奇跡は、罪の赦しによる人間の癒しのしるしなのです。それを指さすものなのです。主イエスの癒しの業の根底には、罪の赦しの癒しがあるのです。

 「罪の赦し」とは人間の根本的な回復であり、その癒しというものがどれほど深く、かつ豊かなものか。

 主イエスは「どちらが易しいか」と尋ねた後、「人の子が地上で罪の赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われて、中風の者を癒されました。

 罪の赦し、という神のみのなさる業を、キリストは十字架にかかる神の子としてなさってくださり、人間の全体性の回復、根本の癒しの業をなさっていかれる。そしてそのしるしとしての癒しの奇跡をなさる、わたしたちはそのことをしっかりと受けとめていきたい。