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マルコによる福音書連続講解説教

2021.7.11.聖霊降臨節第8主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書2章18-22節 「花婿を迎える時」

菅原 力牧師

 ユダヤ人にとって断食という宗教的な伝統は相当古くからのものであったようです。旧約のレビ記にも年に一度の断食の規定があり、人々はそれを実行していました。時代とともに、断食の習慣はなくなっていくどころか、ますます重んじるようになり、年に四回になり、やがて今日の聖書に出てくるファリサイ派の人々のように、週二回する人々も出てきました。

 断食をなぜするのか、その背景にはいろいろなことがあるのですが、一つには神の前で自分の罪の悔い改めの徴として、断食をしたのです。罪を犯して、神の前でそれを懺悔し、ごめんなさいと言い、その罪を悔いる。そのしるしとしての断食なのです。さらに、断食という禁欲を自分に課して、欲を断つことで、神に向きなおるということの徴だった。また断食は、祈りの一つ形でもあったのです。何かを切に切に神に願い、求める、その際、自分は断食をする、そういうものでもありました。さらに洗礼者ヨハネの弟子たちは、そうした週何回、と言った断食ではなく、生活そのものが禁欲的、生活の中に断食が織り込まれているような、生活全体で神に悔い改めていくようなライフスタイルを実践していました。

 主イエスが伝道活動を始め、神の国の福音を宣べ伝えていかれた時、人々の中には、断食というユダヤの人々が大事にしてきた伝統に新たな一歩を加えてくれるのではないか、と期待する人々がいました。それは敢えて言えば、ファリサイ派の断食とも、洗礼者ヨハネのグループの断食とも違う、新たな断食のスタイルを求めるということでした。しかし主イエスはそういう人々の期待に対して、何も語ることはありませんでした。

 イエス・キリストはユダヤ人やファリサイ派が考えるような「宗教的な人間」ではなかったのです。罪人や徴税人とも自由に交わり、飲食を共にし、禁欲的な規律を課すこともなく、人々と共に生きたのです。それはファリサイ派の考える「宗教的な生活」とはかけ離れていた。人々は、その主イエスの姿に驚いたり、あきれたりしていたのではないか。

 しかしそうだからといって、主イエスは享楽的な生活、生き方を示されたのでもなかった。主イエスご自身は何よりも祈りを大切にされた方でした。そして断食も主イエスはなさり、祈りと断食の大切さを生きた方でもありました。けれど主は断食を強要することも、義務として弟子たちに断食を課することもありませんでした。

 「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」そう主イエスの許に来て尋ねる一群の人々がいました。そこには今言ったような断食を重んじる人々とユダヤ社会からの問いがあったのです。

 すると主イエスは、譬を語り始められました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。この譬の眼目は譬を聞いている者たちに、今あなたはは婚礼の席にいるのだ、というところへ一気に呼び寄せるということです。

 花婿と一緒にいる席、婚礼の席にいたら、断食なんてしないだろう。できない。今あなたはその婚礼の席にいるんだ、ということに気づかせる譬なのです。イエス・キリストがこの世界におられるということは、婚礼の席にあなたは招かれているということなのだ。しかしそれだけない、花婿が奪い去られる日が来る、という言葉も主はこの譬の中で語られるのです。それは十字架の時のことです。おそらく主は、その伝道のはじめの時から、十字架を見つめておられた。ご自分の福音宣教の歩みの行きつく場所としての十字架を見つめておられたのです。

 その日には断食することになる、それは主イエスの十字架の死に打ちのめされた弟子たちが、断食することになるというのです。

 けれども、この譬はここで終わりなのではない。婚礼のたとえに続いて、さらに新たなたとえが語られるのです。

 「だれも織りたての布から布切れをとって、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。まただれも、新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、葡萄酒は革袋を破り、葡萄酒も革袋もダメになる。新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れるものだ」。

 織りたての布、と訳されている言葉は、まだ晒していない布というのが元の言葉です。晒していない布は、濡れたり洗ったりすればかなり縮むものだったのです。それで、晒していない布を古い服の継ぎに使えば、古い服を引き裂く、というのです。おそらくは、当時誰が聞いてもよくわかる話だったのです。そして重ねるようにして、新しい葡萄酒と古い革袋のことが語られています。新しい葡萄酒とは、発酵し続けている酒のことです。その発酵し始めた酒を古い革袋に入れたら、革袋を破ってしまう。布の話も、葡萄酒の話も同じことを言っている。しかしこれが、花婿が一緒だ、という譬とどう結びついているのでしょうか。

 主がここで言われていることは明確です。主イエスのもたらした福音、主が語り始めた神の国の福音、あなたは神の愛の中に置かれているのだ、という福音は、これまでの信仰、これまでの宗教的な生活と折衷させて、継ぎを当てて受けとめることができるようなものではない、ということを言っているのです。

 ファリサイ派の信仰、律法を守って、神の前で自分の正しさを誇るような信仰、あるいは洗礼者ヨハネのような優れて禁欲的で、神の前で清貧に生き、身を律して生きていくような歩み、それらにプラスアルファするようなものではない、ということです。

 わたしたちの信仰生活も、ファリサイ派的なものと無縁ではありません。神の前でこれだけのことをしたから、神は自分を救ってくださるとか、これだけのことができていないから、自分は本当には救われないとか。自分の信仰はいい加減だとか、本物でない、と言ってまるでいい加減でない信仰があるかのようにイメージし、本物の信仰、という理想形があるかのようにイメージする。これもみんなファリサイ派的なものと言えるかもしれません。そして、それとイエス・キリストが宣べ伝えている福音とは相容れない、とここで言われているのです。相容れないというよりも、そういう信仰、つまり自分というものがいかに神の前で変容できるか、如何に信仰者然とできるか、というような観念を握りしめている間は、キリストが言われる、あなたが何者であれ、あなたがどうであれ、神の支配はやってきている、あなたは神の愛の中にすでにあるんだ、という福音は心底受け取れない、ということ言っているのです。

 花婿が一緒だ、ということが福音なのです。喜びなのです。神の支配がもう来ている。神の恵みにあなたはもう覆われ包まれ、置かれている。その神の恵みの中で、愛の中で、自由にあなたとして生きる、それが今のあなただという福音を聞き始めている時に、断食を始める、というようなことがあるだろうか、と主イエスは問いかけているのです。それはないだろう。それはしない、とキリストは言われているのです。懺悔も、罪を悔いることも、禁欲も、することもあるし、したいならすればいい。だが、今はその時ではない。

 花婿が奪い取られる時が来る、その日には彼らは断食することになる、とキリストは言われました。しかしキリストは奪い取られたままではなく、復活して弟子たちのもとに帰り、そして復活の主としてわたしたちと共にいてくださいます。つまり花婿はずっと一緒。わたしたちが死を迎える時も、この花婿はずっと一緒にいてくださるのです。そして死んだ後も一緒なのです。わたしたちの信仰は、その事実を受け入れること、受けとめることにかかっています。わたしたちの信仰はこの事実を受けることによって活かされていきます。

 「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れるものだ」、それはイエス・キリストの福音、神の国の福音という新しい葡萄酒は、あなたがこれまで思い込んできた救いのために必要だと握りしめてきた観念、神にふさわしい自分に変容できるかどうかとか、いかに信仰者然とできるか、という古い革袋に入れることはできない、ということ。キリストに古い革袋を破ってもらって、花婿が一緒にいる、という事実をそのままに受ける信仰、すなわち新しい革袋に入れるものなのです。