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マルコによる福音書連続講解説教

2021.7.25.聖霊降臨節第10主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書3章1-6節 『 真ん中に立ちなさい』

菅原 力牧師

 安息日が来て、主イエスは福音を語るために会堂に行かれました。その会堂に片手の萎えた人がいました。礼拝に来ていたのです。

 「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していた」安息日のルール違反をしないかどうか見張っていた、というのです。というよりも訴える口実を捜していた、ということなのかもしれません。

 主イエスは、そうした人々の視線をもちろん感じていたでしょう。しかし主イエスのまなざしは、手の萎えた人に向っています。主イエスは会堂にいた片手の萎えた人に向って、「真ん中に立ちなさい」と言われました。直訳すると、「立って、真ん中に」で、立ち上がって、真ん中に来なさい、と呼びかけられたのです。この人は会堂の真ん中ではない場所にいたのでしょう。障碍を持っていれば、それだけ、人前に出るのが気後れする、ということがあったかもしれません。人前に出ることの躊躇があったかもしれない。しかしこの人は安息日の礼拝に来ていた。

 福音書を読むと、主イエスのもとに病人や悪霊に取りつかれた者や、障碍のあるものが集まってきている。その人たちからすれば、癒しの奇跡を期待して集まってきたのかもしれない。しかし福音書が語るのは、それだけのことではない。その人たちを受け入れ、その人たちに福音を語り、その人を癒す主イエスがおられるということが語られているのです。

 つまり、病気に苦しむ者たちを退けない主イエスがおられるということです。もういい、わたしは福音を宣べ伝えるために来たのであり、病人とかかわるために来たのではない、とは主は言われなかったのです。

 それは主イエスが福音宣教と医療活動の二本立てで歩んでおられた、ということとは違います。そうではなくて、主イエスの宣べ伝える福音が、病める人、苦しむ者、障碍を持つ者、悲しむ者を目指す福音であり、その人たちを除外して、その人たちを外して語られる福音ではなかった、ということなのです。

 主は片手の萎えた人を見つめて、「立って、真ん中へ」と呼びかけられた。あなたが真ん中だ、とも聞こえてきます。

 わたしたちは普段の生活で、自分の醜い部分は隠そうとします。みっともない部分、人には見せたくも見られたくもない部分は、隠そうとします。当然と言えば当然のことです。そして自分にとって差し障りのないところ、より普通と思える部分、そこで人と出会い、交わろうとします。あるいは人によっては、自分で評価している部分、いいと思っているところで人と関りを持とうとする。醜い部分を人に見せて、それによって他者の視線や思惑で自分が傷ついたり、痛むことを恐れているのです。しかし、イエス・キリストはわたしたちの最も弱いところ、もっとも醜い部分に関わってくださる。いや単にそこにもかかわってくださるというのではなく、そこでわたしと出会ってくださるのです。親にも、友人にも、場合によっては連れ合いにも言えない、そもそも自分でもよくわからない、言葉にうまくできない、自分の醜さとか、弱さがあります。そこでキリストは出会ってくださるのです。

 いやそんなことはない。わたしは普段のわたしでキリストに出会った、という人がいるかもしれません。確かに普段の生活で聖書を読み、普段の生活でキリストの御声を聞いてきたのです。しかし、その普段の生活と、自分の醜さとか弱さとは切り離されているわけではない。どこかで深く繋がっている。自分の底の方で。しかしはっきり言えることは、そういうものを抱えながら、決してなくなってしまうことのない自分の醜さを自分の中に持ちながら、わたしは生きているということです。そしてキリストは、そこを除外するのではなく、そういうわたしは見ないというのではなく、そこで出会ってくださる、ということなのです。

 「立って、真ん中に」あなたはそのままで、神の前に。神もあなたの全部と出会い、あなたを負ってくださる。だからこの言葉は、片手の萎えた人にだけ言われている言葉ではないのです。そこにいるすべてのもの、神を礼拝している者皆に向って語られた言葉です。神は、ご自分と向き合うもの一人一人に対して、「立て、真ん中に」と呼びかけてくださる。あなたと向き合う。そのあなたとは、自分でも否定してしまいたいような弱さや醜さを抱えたあなた。そのあなたが真ん中に来て、そのあなたと私は出会う。誰にも言えない醜さや、誰にも見せたくない弱さ、自分でも蓋をしてみたくもない自分の危うさ、そこで出会ってくださる。それをわたしたち一人一人経験することができるし、すでに経験してきたのではないか。

 ペトロはキリストが十字架にかかる直前、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないというだろう」と予告されます。それはペトロにとって驚きだったと思います。自分はそんなふうにキリストを裏切ることなどしない、と彼は強く思っていたのですから。「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とはっきり断言するのです。しかしキリストはペトロの弱さを知っておられた。知っておられてそのペトロのために、「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈っている」と言われたのです。弱いペトロをたんにとがめるためではなく、そこで受けとめている私がいる、ということに気づいてほしいとキリストは願っておられるのです。

 今会堂にいる人たちの多くは、しかし、そんなことには一切関心がなく、ただイエスが安息日の規定を犯すのかどうかだけを関心を持って見つめていました。主イエスはその人々に向って、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問いかけられた。これはどういうことを主は言わんとされておられるのでしょうか。

 先週の聖書箇所も安息日をめぐる話でした。その時主イエスはなぜ安息日にしてはならないことをするのか、というファリサイ派の人々の問いかけに対して、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と応答されました。誤解を生みやすい言葉です。安息日は、人のために定められた、と言えば、結局大事なのは人間であって規則なのではない。安息日においても人があくまでも主人公なのだ、というような規則と人間というような話に誤解されていきやすい。けれど、主が語られた「人のため」というのは人間本位ということではなく、神と人とが安息日に新たに出会い、交わり、人が神によって造られた者としての自分を回復していく、そのように人が生きるため、ということです。つまり安息日が人のために定められた、とは人が神によって人となるための日だということです。人の自由になる日ということではない。

 とすれば、今日のところで主が言われる、安息日においてなす善とは、何か一般的な話ではなく、人が神と交わり、それによって命与えられ、いのち救われ、人であることを回復し、人として生きる、そのような善いことが行われることであり、その反対ではない、と言われているのではないか。反対とは、神と交わらず、いのちを受けず、いのちの救いを得ず、人であることを回復しないことだということです。

 問われた人々は黙っていた。黙っていた理由はいろいろあるのかもしれません。人々は応えたくなかったのかもしれません。

 「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲し」まれました。どうして人々の心はかたくなになるのでしょうか。安息日と言ってもただ規則に従い、習慣として礼拝をまもっているだけなら、わたしの変化は起きない。礼拝で良い話を聞き、家に帰るというだけなら。しかし主を礼拝することで、自分の主は神であって、わたしは神に創られた者であり、神との関係に生きる人間なのだ、ということを回復したら、わたしがわたしの主であり続けることはできない。わたしは主の僕だ、ということを気づかされていく。それが嫌なのです。自分が自分の生活の主でありたい。つまり変化は望まない。だから頑なになるのです。

 キリストは片手の萎えた人に向って、「手を伸ばしなさい」と言われました。手の萎えた人に向って、手を伸ばしなさい、とどうして主イエスは言われたのか。伸ばすことなんかできない、そう思っている人に、やってみてごらんと言われた。どれだけできるかはわからない、しかし、今のあなたにできる伸ばし方がある。やってみる余地がない、というわけではない。主が見ているから、主が支えてくださっている、主が負ってくださっているから、たとえうまくいかなくてもいいからやってみなさい、と呼びかけている。福音を聞き、神の支配にの中にある自分を知り、そこでその人はその人として応答する、応えていく。「伸ばすと、手は元どおりになった」。福音による癒しが起こったというのです。

 「立って、真ん中へ」と呼びかけてくださるキリストがおられる。わたしはわたしとして、キリストの真ん前に立とうとしているのだろうか。立って、進み出ていきたい。そして、キリストの福音に聞き、その恵みの中にある事実を受けとめ、わたしとして応答していきたい、わたしも手を伸ばしていきたい。