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マルコによる福音書連続講解説教

2021.8.1.聖霊降臨節第11主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書3章7-19節 『主イエスのみもとに』

菅原 力牧師

 今朝朗読された聖書箇所は、長いというほどの個所ではありませんが、それぞれ別々の事柄を扱った聖書箇所で、当然二回に分けて読むこともできる箇所です。

 しかしまた一緒に読むとすれば、この二つを並べて読むことになるわけで、この別々のことのつながり、関係性、ということも視野に入ってくるのです。 

 7節から12節には立ち去る、退く、という主の行動が描かれています。おびただしい数の群衆がイエスのもとに来て、従っていた。また集まってきた。その群衆から離れた。小舟を用意したということは、一旦退いて、離れた、ということに他なりません。

 一方13節以下では12人が任命される、弟子を呼び寄せる、ということが記されています。

 つまり主イエスのこの時の様子というのは、一方で大変な数の人たちが主イエスを取り巻いていた。どこに行くにも、多くの群衆や人々が同行したり、従ってきたりして、とても大きな人の渦を形成していた。

 集まってきた人たちというのは、さまざまな人たちがいたでしょうが、多くはそれぞれ自分本位な、ご利益的な信仰で集まってきていたのかもしれない。病気を治してほしい、障碍を取り除いてほしい、悪霊を追い出してほしい、宗教的な真理を求めるというよりも、自分の利益を求める理由から集まってきていた人たちだったかもしれない。だが、いずれにせよ、多くの人がイエスのところに集まってきているのです。

 イエス・キリストの周辺に多くの人たちが集まる。そこで主イエスは何をなさったか、ということ以上に、何をしておられないか、ということをしっかりと見極めておくことが重要です。例えば、主イエスは群衆に取り囲まれて、群衆のヒーローとなり、その神輿の上に乗っかっていくようなことは一切しておられない。この群衆を率いてなにか行動を起こそうとというようなことも一切しておられない。むしろ7節以下にあるように、多くの群衆と共に時間を過ごして後に、ご自分の方から立ち去る、いったん退いていかれる、ということをなさっているのです。

 一方、13節以下では主イエスは12弟子を呼び寄せられる。

 キリストはここで12弟子を任命した、定めることについて三つのことを語っておられます。まず第一に、弟子を定めるのは、「自分のそばに置く」ためだったというのです。元の言葉では自分と共にいるという言葉です。主イエスの弟子になるということは何よりもまず、主イエスと共にいることだ、というのです。共に食事をし、共に生活をし、共に伝道をし、共に歩む。共にいることなのです。

 その際のポイントは、こうです。

 自分の考え、自分の生き方、自分の歩み方、というものを人間は一人一人持っています。しかし主イエスの弟子になるということは、自分の生き方ではなく、主イエスを見つめるということなのです。主イエスの生き方、主イエスの言葉、意見、考え、主イエスの歩み方を見るのです。その歩みに実際について行くのです。自分の歩みではない、キリストの歩みを見つめついて行くということが根本的なことなのです。

 それは、さらに踏み込んでいえば、キリストの使命を見つめる、ということではないでしょうか。キリストがどこを目指して歩んでおられるのか、どのような使命をもって生きておられるのか、その使命に生きる歩みを見つめる、ということが弟子にとって必須なのです。

 第二に、弟子に定める理由は、派遣して宣教させるためなのです。宣べ伝えるために派遣する、ということです。派遣という言葉は今日いろんな意味でつかわれる言葉ですが、もともと使命ということと深く関係する言葉です。遣わされていく使命、ミッションがあって遣わされていく、それはイエス・キリストがこの世に来られた使命を福音の言葉として語ることに他ならない。

 そして第三には、悪霊を追い出す権能を持たせるため、というものでした。

 それは、これまでにもお話ししてきたように、神を信じないで生きようととさせる力、悪霊の力とはそういうものです。だから弟子たちの働きは福音を宣べ伝えることで、神を信じないで生きようとするこの世の力を追い出していくことでもあるのです。

 主イエスが弟子を定めたのは、この三つのことのためでした。そこで改めて今日の聖書箇所を考えてみると、主イエスは大勢の群衆に取り囲まれながらも、その群衆の一人一人と出会いつつ、しかし、同時にそこから退く自由も持っておられた。

 一方で主イエスは自分に従うものから弟子を定められた。それは弟子たちが主イエスと共に生きて、主イエスの使命を知り、その使命を福音として語るためであった。

 それはまた主イエスご自身がご自分の使命に向う歩みを弟子たちにあらわにされる、ということに他なりませんでした。

 主イエスはどれだけ多くの人に囲まれても、それによって有頂天になったり、自分を過大評価して、舞い上がるというようなことはありませんでした。

 キリストなんだから、当たり前だと思う人がいるかもしれませんが、わたしはそうは思いません。有頂天になったり、過大評価をしなかったのは、キリストがご自分がこの世に派遣された使命というものから目をそらさずにおられたからです。この使命から目をそらしたら、キリストは何にもでもなることはできたでしょう。しかし、キリストご自分の使命から目をそらさない。だから群衆に取り囲まれても、人々の叫びや苦しみや、求めに応えられても、群衆のいいなりになるわけではなかった。事実群衆はイエスを王になってほしいとか、政治的なカリスマになってほしいという願望を様々持っていた。弟子たちも持っていた。だがキリストは、ご自分の使命から決して離れない。ご自分の使命から目をそらしておられない。

 主イエスが弟子を定めたのも、この使命と深く繋がっている。弟子をとって弟子の上に君臨するということは、この世でしばしばあることです。芸術の世界、学問の世界、いろいろな領域で、師と弟子の関係はあるでしょう。

 しかし主イエスと弟子の関係は、一つのことをめぐって繋がるものでした。

 それは、キリストの使命です。弟子はキリストの使命を見て、知る、そしての使命を福音として語る、ということです。

 最後のところに定められた12人の名前が列挙されています。一人一人のお話をしていっても楽しいですが、残念ながらそれは時間のいることです。

 ただ、こうして名前を見ていても、この12人が今言った意味で、主イエスの使命を見て知っていたのか、と思うと、少なくともキリストが十字架にかかるまで全く分かっていなかった。いや、十字架にかかっても、わからず、キリスト復活後に、ようやくわかっていく。

 12弟子の名前のリストの最後には「イスカリオテのユダ」の名前が記されています。ユダだけでない、わたしたちの課題は、最初に申し上げたように、自分の生き方を見つめる歩みからキリストを見つめる歩みへの転換、ということです。いつまでもいつまでも、結局は自分の歩みばかり見つめ続けていくというわたしたちの問題です。ユダはそのことを最後まで引きずった。

 しかし今日の聖書箇所がわたしたちに語るのは、キリストが弟子たちを定めてくださるということです。わたしたちが洗礼を受け、キリストの僕とされたのは、キリストの呼びかけ、キリストの定めによるものなのです。

 キリストが呼びかけてくださった、というだけが今ここで名前の挙がっている弟子たちが弟子としてたっている根拠なのです。自分はクリスチャンとして失格だ、というようなことをいう人がいますが、そんな事始めからわかっているのです。キリストの弟子としてふさわしくない自分だ、ということもはじめからわかっている。それでもキリストがわたしを呼びかけてくださって、キリストの使命に与るという、恵みにわたしたちを招いてくださったのです。

 キリストの使命は、十字架と復活の使命です。罪の赦しと、わたしたちの存在を負ってくださる主が、復活されて、わたしたちを新しいいのちへと招いてくださる、この使命即福音。

 キリストはわたしたちにもうすでに呼びかけ、弟子として定め、招いてくださっている。その招きの中で、キリストを見つめ、その使命を見て知る。そして使命即福音を語る。その中で自分を見つめる生き方からキリストを見つめる生き方への転換を神によって起こしていただくのです。