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マルコによる福音書連続講解説教

2021.9.12.聖霊降臨節第13主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書3章31-35節 『 神のみ心を行う人 』

菅原 力牧師

 マルコによる福音書によれば、イエスの兄弟、弟は4人。妹は少なくとも2人、つまり主イエスは7人兄弟の一番の上の長男だったようで、両親を入れて9人家族、もしくはそれ以上だった可能性が高い。お父さんのヨセフは、主イエスが比較的若い時になくなったのではないか。しかしだからこそ、家族皆が母マリアとともに力を合わせて支えあってきたのではないかと思います。父ヨセフは大工、おそらくは主イエスも父同じ大工の仕事をして、家族を支えてきたのでしょう。

 その息子が30を過ぎたころから急におかしなことになっていく。家族を大切にし、大工仕事をしながら家族と共に歩んできた息子が、突然、放浪するような生活を始めていくのです。しかもこれまでとは全く方向の違う宗教活動を始めるのです。なぜ息子が、なぜ兄が突然のようにそんなことを始めたのか。マリアにも、兄弟にもわからない。しかも兄はたんなる布教活動というのではなく、自分が神の子であるという思い込みの中で歩んでおり、しかも自分一人の単独行動ではなく、たくさんの弟子を引き連れ、多くの人を巻き込んで神の国の福音を宣べ伝え、あちこちに行き、放浪生活をしている。家族にとってこれがどれほど心配の種になっているか、容易に想像がつくのです。特別な宗教教育も受けていない者が、律法学者たちを相手に論争まがいのことをしたり、ファリサイ派の人々とやりあったり、挙句憎まれたり、敵対視されたり、そうした噂を聞くたびに家族は身の竦む思いがしたに違いありません。母マリア、兄弟たち、妹たち、家族皆が深い不安と苦悩の中にあったことは容易に想像できます。

 先週読んだマルコによる福音書3章21節には身内のものがイエスのことを聞いて取り押さえに来た、とありました。取り押さえに来た、という言葉は捕まえに来た、という言葉です。身内のものとしてはもう捕まえて、家に連れて帰る以外にない、と思ったということでしょう。これ以上「野放し」することはできない、日本的に言えば、世間さまに迷惑をかける、危険だ、そう思ったのでしょう。

 今日の聖書箇所は21節に続くものです。この時、主イエスの年齢は30歳ぐらい。当時の30歳と言えば大人も大人。一方マリアはもう老人と言ってもいい年齢です。長男であり、父のいない一家にとってイエスは家長でもあり、その長がこんな状態でいいわけはないのです。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」弟子や支持者に囲まれたイエスのもとに行くのは避けた家族の気持ちが伝わってきます。「あの男は気が変になっている」という噂を誰よりも重く受け止めてきたのは、家族だったです。

 家族の気持ちはわかるのです。けれどもここで立ち止まって考えたいのは、なぜ家族は、主イエスの意思、行動、働きを受けとめられなかったのでしょうか。主イエスの働きを十全には理解できないとしても、取り押さえに来る、捕まえに来る、というのは尋常ならざる態度です。

 しかし敢えて言えば、家族だからこそ理解できず、肉親だからこそ、見えない死角があり、家族だからこそ把握できないものがあったのではないか。これはイエスの家族がたまたまそうだったということではない。家族というものがそもそも持っている事柄です。家族とは、共に暮らす中で、互いの等身大の姿を受け入れあってきた関係と言えます。だからこそ、誰よりも家族のことは知っているという思い込みも生まれやすい。また何ものにも代えがたい絆を見出しても行くのです。だが、と思う人もいるでしょう。そもそも母マリアは主イエスを身ごもったときに天使の言葉を聞いた人です。父ヨセフも夢の中で、天使の言葉を聞いているのです。つまり夫婦して天の使いの者の言葉、この子は自分の民を罪から救うものだ、という言葉を聞いてきたのに、理解できなかったのかと思う人もいるでしょう。けれど考えてもみて下さい。30年もの間ごく普通のどこにでもいるような家族として過ごしてきたのです。母と子として、平凡に堅実に、親子としての絆を深めてきたのです。それが普通で平凡で穏やかだったからこそ、福音書には何も記述がないのでしょう。マリアも30年の時を経て、息子としてのイエスしか見れなくなっていたのかもしれません。しかし、人は等身大だけの自分を生きるわけではない。息子としての自分だけを生きるわけではない。例えば、人は思想や観念や社会的なポジションによって等身大の自分を超え出ていく存在でもあります。

 いやそれだけでない。家族の愛とか、絆以上にもっと深い、信実な愛、繋がりの中に置かれている、ということに人は気づかされていく存在でもあるのです。

 その時、家族は否定されるのではない。そうではなくて、神の愛の中にある者として、人の愛の中に生きるのです。人の愛は欠けも多いし、破れも多い。親の子に対する愛、連れ合いに対する愛、友人に対する愛、その愛は欠け多いものです。

 しかし神の愛、キリストの愛の中に置かれている自分を知らされて、愛の中におかれ続けている自分を知らされて、欠け多い自分を尚生きることができる。神の愛に出会い続けながら人への愛へと向かうのです。

 そもそも、家族愛は家族愛で完結するわけではない。

 キリストは誰よりもそのことを熟知しておられたのです。

 

 だから、家族のものが「あの男が気が変になっている」という噂を聞いて取り押さえに来て、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹方が外であなたを捜しておられます」と言ったとき、主は「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と問われたのです。それは言うまでもなく、わたしの家族って誰、と言ってうそぶいておられるのわけではない。そうではなく、わたしたちが家族という時、まず見つめなければならないことは何なのか、と問いかけておられる言葉なのです。

 

 主はご自分の周りに座っている人を見回しながら、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。ここで主イエスが言われておられること、それは神の家族、ということであります。

 キリストは、神の国の福音を宣べ伝え始められました。神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい、神さまの支配はもうやってきている。あなたもその神の恵みの中に、愛の中に活かされているんだ、だから神に向きなおって、この恵みの中で歩んでいきなさい、というメッセージでした。それは別の言い方をすれば、この神の愛、イエス・キリストによって示される神の愛こそ、すべてのものの根底にあるものなんだ。すべてのものを活かす愛なんだ。まず、この愛と恵みを受け取りなさい。まずのこの愛と恵みの中にある自分を受け取りなさい。あなたは神に愛されている、神の家族の一員。まずそれを受け取りなさい、そういうメッセージです。

 神のみ心を行う人こそ、わたしの家族なのだ、というキリストの言葉は、神のみ言葉に聞く人こそ、神の福音に聞く人こそ、わたしの家族なのだ、ということです。神の福音とは、あなたは神の愛と恵みの中にあるという福音です。

 神の愛を受ける、そして人と人との関係に向う、それが主イエスがわたしたちに指し示しておられることです。逆ではない。まず家族があり、まず親子、まず夫婦、というのではない。

 わたしたちはマリアはもちろん、イエスの家族がイエスの働きに理解が至らないことを非難することなどとてもできないし、する必要もない。自分の息子が、兄弟が、神の子だと言われてはいそうですか、とすぐに言える家族がいるのでしょうか。確かにイエスの家族に背負わされたものは重い。しかし、それは家族にとってやはり恵みに満ちた、愛にあふれた出来事であって、出家して、家族を捨てて神の道に入っていった、というようなこととは全く違うのです。

 神のみ心を行う、それは神の福音に聞くことだ、と申し上げました。聞くことそれ自体が、御心を行うことにつながっているのです。そして神の福音に聞くことは神の愛の中にある自分を知らされることであり、より深い、本来の自己と出会うことであり、そのようなものとして、家族との関係、人との関係、社会との関係を生きるということに他ならないのです。神の家族の一員であることを受けとめ、与えられている関係を生きるのです。それが大事だ、という話ではない。そうして生きることがどうしても必要、なくてならぬことなのです。