-->

マルコによる福音書連続講解説教

2021.9.12.聖霊降臨節第17主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書4章1-20節 『 種をまく人 』

菅原 力牧師

 今日ご一緒に読みます聖書箇所は一般に「種まきのたとえ」と呼ばれている箇所です。皆さんもよく親しまれている聖書箇所だと思います。

 しかし、この聖書箇所を読むと、不思議なことにも気づかされていきます。まずここには1節から9節に「種まきのたとえ」が語られています。たとえの本体です。ところが、そのたとえの後になぜたとえで語るのか、ということの話があり、さらには、種まきのたとえの解説が13節から20節にわたって語られている、これはとても珍しい箇所と言えます。主イエスご自身がたとえを語り、さらにその解説を語っているのですから。

 しかし、不思議なことと言ったのは、たとえに解説が続いていることではありません。よく読むとわかるように、たとえ本体と、たとえの解説とでは視点、見ている立場が違う、ということが不思議なのです。

 まず最初にたとえそのものが語られる。それは種をまく人が出ていき、いろいろ場所に種をまく。道端や、石だらけの地や、茨の地にも種は落ちた。だがそれはどれも実を結ばなかった。しかし良い地に落ちた種もあり、それは芽生え育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなったというのです。これは、種をまいた農夫の視点から語られているものです。

 ところが13節からの解説は、農夫の視点ではない。種をまかれた側、ここで種とは神の言葉、み言葉なのですが、それを受けた側、聞いた側の問題について語られているのです。明らかに視点の違いというか視点の移動があるのです。つまり、まくという視点と聞くという視点です。

 このたとえそのものは、み言葉を宣べ伝える、つまり伝道を語るためのたとえです。種まきのたとえと呼ばれるのはその通りですが、言うまでもなく種まきをしましょう、ということがこのたとえの意図ではない。このたとえが語ろうとしているのは、み言葉を宣べ伝え続けていくこと、伝道です。

 種をまいたが、鳥が来て食べてしまったり、根がなくて枯れてしまったり、茨が覆って実を結ばなかった、それは神の言葉を語ったけれど、実を結ばなかった、成果が上がらなかった、ということです。一方で、良い地に落ちて、芽生え、育って、実を結び、大きく成長したものもあったというのです。

 何が語られているかと言えば、伝道してうまくいかなかったこともあれば、豊かな実を結んだこともあったことがそのまま語られているということです。あえて言えば、、伝道の失敗談がはっきりと、赤裸々に語られているということです。キリストはここに至るまで、いろいろな場所で神の言葉を宣べ伝えてこられました。しかしその全部が全部、実を結んだわけではなく、失敗して、うまくいかなかったこともたびたびあった。その伝道の失敗体験が、痛みが、このたとえでは語られているのではないか。神の言葉を語る中でさまざまな困難や壁にぶつかる。それがリアルにこのたとえには反映している。道端に落ち鳥が来て食べてしまった。すぐに芽を出すけれど、日が照ると枯れてしまう。茨に覆われて実を結ばない。それは驚くべきことに主イエスご自身が経験してきたからこそ語られていることなのです。

 一方13節以下で語られているのは、種をまく側ではなく、み言葉を聞く側の問題です。どうしてこういう視点の移動があるのでしょうか。

 

 キリスト教の伝道は何によってなされるのか、というと、それは「ことば」でなされる。神の言葉を宣べ伝えるということにおいて伝道はなされていく。そしてわたしも、皆さんもその言葉を聞いて、受けとめて、信仰が与えられてきたのです。物理的な強制やある種の暴力によって信仰を与えられたのではない。さまざまなプロセスがあるにせよ、「ことば」に出会い、「ことば」に導かれて信仰へと招かれてきたのです。ところで、「ことば」である伝道である以上で、それは聞いた側一人一人の主体的な、自由な判断、理解、受け取りに託されている部分があるのです。福音は一人一人の判断に委ねられている。自由に委ねられている、そういう部分もあるのです。当然反対も、受け取らないということも起こっていく。だからこそ伝道は必ず、困難や、壁にぶつかり、まく側からすれば失敗も起こる。逆に言えば、困難や壁にぶつからない福音伝道は、そもそもあり得ない、ということです。しかしそうであっても、困難にぶつかっても失敗しても、福音を宣べ伝えていく。それは、福音が人間を救う、いのちの言葉だからです。聞いても聞かなくてもどちらでもいい言葉ではないからです。

 13節以下で言われているのは、聞く側の、受け取る側の問題です。聞いても簡単に奪い去られていく。聞いて受け入れるのだが、根がないために困難や迫害が起こってきたら、放棄してしまう。聞くのだけれども、この世のさまざまなことに心奪われて、結局み言葉に聞いて生きる、ということにはならない。「聞く」ということはこちらの主体が問われる行為です。聞けば、それで自動的に何かが起こるわけではない。この主イエスの言葉を聞くと、み言葉に「聞く」ということはある持続的な、継続的なことが求められる、言葉が根を下ろすためにはそういう聞く側の課題がある。言葉でなされる伝道である以上、それは当然のことです。

 キリストは、種まきのたとえを語られたときに、なぜこの二つを語られたのでしょうか。そもそも、この二つのことは、別々のことなのか。まくことの苦労、聞くことの困難が、二つ並列的に語られている、ということなのか。

 そうではないと思います。この種まきのたとえの初心は、まき続けるということにこそあるのです。教会が伝道し続ける、一人一人のキリスト者が証し続ける。それは、その一人一人がどのように聞いているか、ということと繋がり、結びついている。

 キリストは、すでにこれまで、さまざまな場所で、さまざまな人々に神の国の福音を語ってこられました。それによって、福音書にあるように多くの者たちが福音に触れ、中にはキリストに従うものも与えられてきました。しかし一方で、、み言葉を語ることの困難と失敗にもキリストご自身が直面してこられた。わたしたちが伝道の困難を語るのであれば、よくわかる。欠け多く、すべてにおいて不十分なのですから。しかしここで伝道の困難を語っておられるのは、主イエス・キリストなのです。キリストが語られても、困難は生じ、失敗は起こる。それが言葉による伝道だからですし、それは避けて通れないことなのです。一方でまかれた種が三十倍、六十倍百倍となり、実を結んでいくこともあるのです。そこで大事なことはうまくいかない時もあれば、うまくいくときもある、だからめげずにがんばれ、というようなことではありません。そうではなく、種をまくことでの困難が避けられないものである中でこそ、福音を宣べ伝える者は、まず、福音に聞いているかどうかが問われていく、それがこの二つのこと関係なのです。

 そもそも、このたとえにおいて、種が道端に落ちるとか、石地に落ちるとか、茨の地に落ちる、というのは普通に考えてありない話です。そんな場所にわざわざ種をまく人などいない。しかしそれがこのたとえの大事な要素、わたしたちに考えるよう求めてくる要素です。確かにあり得ないような話なのだけれど、あなた自身が道端にまかれた種のように聞いていないか。聞くか聞かないかの間もなく、鳥が来て食べてしまった。石だらけのところにまかれた種のように聞いて、わかったような気分になり、芽を出しもするのだが、日が照って、ちょっとした困難が起こってくると、すぐに枯れてしまう。種が根付ていないから。茨の中に落ちた種は、芽を出すものの、この世のさまざまなできごとや日々の生活の中で、忙しさに追われ、別の関心、欲望に心が向いて、結局み言葉によって生きる、ということは枯れてしまう。み言葉に聞くことは、み言葉が自分の中に根を張り、息づき、成長させてくださるまでに、聞き続けることが求められる。自分の都合のいい時に、都合のいい形で、自分の好きな聖書の個所だけ、自分が納得できる仕方でだけ聞く、というような聞き方は、茨の中に落ちた種のようなものです。そもそもそれはみ言葉に聞いているのではなく、自分の中の声に聞いているに過ぎない。

 種まきのたとえはさまざまな困難や失敗を経験しても、成長させてくださる神を信じて、み言葉の種をまき続けていきなさい、とわたしたちに語りかけています。そしてそれは、まずわたし自身が、み言葉に聞いて、そのみ言葉の信実な力に活かされ、豊かにされていくそのことを通してなのだ、と主イエスはわたしたちに語りかけておられるのです。