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マルコによる福音書連続講解説教

2021.9.12.聖霊降臨節第17主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書4章21-34節 『 み言葉の力 』

菅原 力牧師

 マルコによる福音書4章には四つものたとえが語られています。さらにその解説や、なぜたとえで語るのかというような話が織り込まれています。当然、その一つ一つのたとえをそれぞれに理解するということが必要なのですが、もう一方で、全体を一つのまとまりあるもの、四つのたとえで一つのメッセージを語りかけてくるものとして読むことができます。そしてそれが主イエスが求めておられることではないか、と思わされるのです。

 4章に繰り返し出てくる単語がいくつかありますが、その中でもとくに心に留めたい言葉は、「聞く」という言葉です。13回も出てきます。「よく聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」「聞くには聞くが理解できず」「何を聞いているかに注意しなさい」「聞く力に応じて」と実にたくさん、「聞く」が語られている。マルコ福音書4章は「聞く」ことを巡って大事なことが語られている箇所であるということは、形態からもよくわかるのです。

 マルコ4章は、まず、「種まきのたとえ」が主イエスによって語られました。種をまく話です。そしてそれに続き、聞く側の課題が語られていました。どう聞いているのか、ということです。失敗しても、困難に取り囲まれても、種をまき続けることができるのは、福音に聞いて、受け入れ、福音の喜びに活かされていくことによってだ、ということ先週の聖書箇所から聞き取ってきたのでした。

 すでに先週の箇所でも「聞く」ことがテーマになっていました。今日の聖書箇所でもまた、「聞く」ことが大事なテーマとして語られている。しかしそれはたんなるくり返しではありません。

 聞くということは、わたしたちにとってとても日常的なことです。しかも膨大な量の聞くをわたしたちは日常経験していく。家族との何気ない会話も、友人との会話も、テレビやネットから流れてくる声、音、音楽、さまざまなものを聞いている。そしてそこには、聞いた先から忘れていくものや、聞いたことすら自覚していないもの、何気ない会話の中であっても大事な言葉や、真剣な学びの中で聞いた忘れてならないことも、全部混在しています。そして意識的にかつ無意識に何を聞くか選択している。

 人は、何を聞いているかがその人だ、という存在でもあります。その人が大切に聞いているもの、心の底深くで聞き取っているもの、それがその人に生き方に必ずあらわれるということです。例えば。どんなに拙くても、その人が心を込めて聞いているもの、わかるわからないを超えて、大事な言葉だとしてその人が心で聞き続けているもの、それはその人の生き方の中で、その人の存在の中で、必ず現れる、ということです。逆もまた真なりで、いくら聞いていても、その人の中で、本当には聞いていないものは、その人を形成してはいかない。

 

 マルコ福音書3章で主イエスの家族が登場してきました。この人たちは、ある意味、他の誰よりもイエスの言葉をたくさん聞いていた人たちだと思います。小さな時から、毎日聞いてきた。その主イエスがある時、神の国の福音を語り始めた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」家族が主イエスが語った福音宣教の言葉をどうやって聞いたかは定かではありませんが、何らかの形で、伝え聞き、気が変になったと思ったのでしょう。時は満ちたとか、神の国は近づいた、というのは家族にとって見ず知らずの外国語を聞くこと以上に訳の分からないことだったかもしれない。どうして、うちの兄はこんなことを言い出したんだ、と思ったのではないか。つまり家族は聞いたけれども、理解できなかった、と言えるかもしれない。福音の言葉は、人間の言葉を超えた領域、神からくる言葉ですから、わからない、理解できない、という反応は当然と言えば当然。これまで日常の言葉で繋がっていた家族であればこそ、この反応は必然と言えば必然なのです。

 しかし言葉はそれで終わりではない。主イエスの言葉を聞いた人すべてが、ただわからない、気が変になった、と思ったわけではなく、わからないなり聞こうとした人々がいたことも聖書は記しています。その代表格は弟子たちでしょう。しかし、聞こうとした弟子たちも、どう聞いていたのか、心許ないと言えば心許ない。例えば、『神の国は近づいた』というというその一言も、神さまの支配が実現しつつあるということを弟子たちが主イエスの到来と重ね合わせて聞いていたかどうか。

 そもそも、神さまの支配が実現しつつあるということを受けとめていたかどうか。聞いて、さっぱりわからない、という段階があり、しかしなお聞いて、聞き続けていくのだけれど、神さまの支配という人間の力や知恵を超えた恵みの広さがわからず、現実の困難の中で、神の国が近づいたという福音は結局受け取られないまま、ということもしばしば。まさに「種まきのたとえ」の実を結ばない種の状態なのです。福音の言葉は無理解に取り囲まれている。

 主イエスは今日の聖書箇所で短いたとえを三つ語られました。一つは、ともし火は升の下やベッドの下に置くものではなく、燭台の上において部屋全体を照らし出すためのものではないか、というたとえ。もう一つは、種は土にまかれてひとりでに実を結ぶものだという話。そしてもう一つは、神の国はからしだねのようなものだ。蒔くときには地上のどんな種よりも小さいけれど、蒔くと成長し、大きな枝を張るまでになる、というたとえ。

 二つ目のたとえと三つ目のたとえはどちらも種それ自身の生命力のすさまじさを物語っています。蒔かれた種は土の中で、おのずとおのずから実を結んでいくことが強調されています。蒔かれた種に対して人は水をやったり、雑草をとったり、世話をする。しかし種そのものに対しては何もしないし、何もできない。種そのものの力が自然の恵みを受けて育っていくように、蒔かれた神のことばが神の恵みを受けて、聖霊の働きの中で、神の言葉そのものの力によって実を結んでいくのだと二つのたとえは語るのです。先週の話と矛盾するようにも聞こえるのです。種をまいても育たないような道端がり、石地があり、成長を邪魔する茨が生い茂っている。種は土によって成長できないことが語られていた。しかしここで主イエスが語るのは、種はおのずと芽を出し、実を結んでいく、夜昼人が寝起きしている間に、種は芽を出し成長するのだ、種にはそのような漲り溢れる、豊かな、爆発的な力があるのだと語るのです。

 先週読んだたとえと、今日聞いているたとえを二つながらに受け取るのだ、とするなら、マルコ福音書4章が語っているのは、種をまいても実を結ばない現実にぶつかり、また神のことばの種をまいても、なかなか聞けない現実にもぶつかりつつ、いやまさにそのような場所で、種そのものの持つ、神の言葉そのものが持っている漲り溢れる力、豊かで爆発的な力を信じていくことこそが大事なんだ、必要なんだということを主イエスは語っておられるのです。

 キリストは種が実を結ばないような現実をよく知っておられる。そして種を身を結ばないようにさせている人間の現実、人間の聞き方、聞きようというものもよく知っておられる。家族も主イエスの福音の言葉を聞いても受け取れない。主イエスに従おうと思って従っている者たちだって、聞いてはいるけれど、福音として聞けていない、ということも多々ある。本当に福音は、福音として受け取られいない。そういう現実が種まきのたとえには、滲み出ている。けれども神のことばは、それで終わりなのではない。その人間の現実の中で、神の福音の力そのものがおのずと芽を出し、成長し、実を結んでいく。岩をも突き破り、芽を出し、穂を出し、実を結んでいく種の力を見よ、それを信じなさい、そう主は言っておられるのです。

 福音の種まきが厳しい現実や困難に直面していく、その中で、福音の種は種そのものの力をあらわにしていく。そのような力を持っている。21節からのたとえは福音の光を燭台の上におこうと言っているのではなく、福音はすべてのものを照らし出している、と言っているのです。神のことばは、この世界を照らし出している。わたしたちは、福音に聞くことにおいても、福音の種をまくことにおいても、さまざまな困難を経験してきている。しかし大事なことは福音の言葉の力を信じることなのです。福音の言葉そのものの力がわたしたちをとらえる、その言葉によって生きるものとさせてくださる、種まく者とさせてくださる。そして福音がこの世界を照らし出していることを、まずわたしたちが信じていくこと、それが求められている。

 4章では「聞く」ことが大きな関心になっています。「聞き方」や「何をどう聞くか」が確かに大事なことでしょう。しかしもっと大事なことがあります。それは何を信じて「聞くか」ということなのです。み言葉がわたしの中で生きて働き、成長させてくださることを信じて、「聞き」続けていくものでありたいと思います。