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マルコによる福音書連続講解説教

2021.9.19.聖霊降臨節第18主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書4章35-41節 『 この方は誰なのか 』

菅原 力牧師

 主イエスは湖の畔でたくさんの人々を前に多くのたとえ、言葉を語られました。そしてその日の夕方、主イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに声をかけられました。この湖はガリラヤ湖と呼ばれますが、現在ではティベリアス湖と呼ばれている湖で、広いところで南北21キロ、東西13キロというのですから、巨大と言っていい湖です。群衆とも離れ、弟子たちと共に舟で漕ぎ出したのです。それは小さな池の向こう岸に行くのとは全くわけが違う大きさなのです。舟をこぎだしていくと突然暴風が吹いてきました。ガリラヤ湖は地形的には谷底にあるような湖です。それでしばしば強風が吹きつけてくるのです。その日の風は舟が波をかぶり、水浸しになるほどの凄まじい暴風だったのです。舟は大揺れに揺れたのです。弟子たちの中には、漁師もいました。つまり湖のこと、舟のことに関してはプロと言っていい人たちです。その彼らでも恐ろしくなるような暴風だったのです。いやプロだからその恐ろしさに怯えたのかもしれません。小さな舟が暴風にさらされ、波にのまれそうになる、それは心底おそろしいものです。陽は沈んできている。暗い闇が覆い始めている。その中で舟の中が水浸しになっていくのです。次の瞬間何が起こるかわからない。

 弟子たちは不安と怖れの中で、艫の方(船尾の方)におられる主イエスを見たのです。すると主イエスは枕をして眠っておられた。この危急時に眠っている。弟子たちは驚いたと思います。呆れた。そして怒りが込み上げてきたのかもしれない。弟子たちはイエスを起こして「先生、わたしたちが溺れても構わないのですか」と叫んだのです。

 その時彼らは「先生」と呼びかけました。彼らにとって主イエスは先生だったのです。そして彼らの理屈は、先生なら、わたしたちが危機にさらされ、不安にとらえられている時、助けてください。すくなくとも、一緒にどうしてらいいのか考えてください、ということだったでしょう。今嵐の中で、死と向かい合わせになっている状況で、彼らは「先生、わたしたちが死んでも構わないのですか」と叫んだのです。彼らが言った「わたしたち」とは誰のことでしょう。弟子たちだけのことでしょうか。それとも主イエスもわたしたちの中には入っているのでしょうか。もし入っているとするなら、先生、あなただって、今、死に瀕しているのですよ、どうしてこんな時に寝ている、なんてことができるんですか。という弟子たちの思いも込められていましょう。

 主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 主イエスは艫の方で眠っておられた、確かに不思議な光景です。さして大きくもない小さな舟で、水浸しになるような状況で、眠っている。それは暢気とか、剛毅というのではなく信頼しきった態度、だったのではないか。暴風の中の静かな姿です。平安な姿と言ってもいい。両親の深い愛情の中で幼子が全身をゆだねて眠っているような、静かな姿。神に身をゆだねた平静さがあるのです。眠るということの中に信頼と、平穏さ、平静さがある。弟子たちの慌てふためき、狼狽している姿と、眠る主イエスとは深いコントラストがあって、いまわたしたちの目の前に描き出されている。

 人が困難に遭遇して慌てふためくことは、あたりまえのことです。避けられないし、別に避ける必要もないのかもしれない。わたしたちは生きていく限り、いろいろな困難に出会うし、実際手におえないような現実に出遭い頭のようにぶつかっていく。今もわたしたちはコロナで右往左往している。しかしその慌てふためく中で、何を見ていくのか。どこを見ていくのかが、大事なことになるのです。わたしたちは今日の聖書箇所でキリストの眠っておられる平穏な姿に出会うのです。こんな態度ありないとか、わたしには無理だとか、言う前に、キリストのこの態度を見つめるべきです。このような方がここにおられるということをしっかり見つめるべきなのです。

 

 そしてその主イエスが「黙れ、静まれ」と言われる。この主イエスの言葉は、風に向って、湖に向って語られた言葉ではある。けれど、それは弟子たちに向って、わたしたちに向って語られている言葉なのかもしれない。

 たしかに主イエスはここで、自然界に向かって風を叱り、湖に向かって静まれ、と言われた。そして主イエスそこで奇跡をおこなわれた。

 しかしその奇跡は、わたしたちに対するしるしとして行われたのではないか。「黙りなさい。口をつぐみなさい」そう主は言われたのです。それはまさに、嵐の中で、狼狽する弟子たちに向って語られた言葉でもあるに違いない。

 

 風も湖の波も、主イエスの言葉によってやみ、凪になった。主イエスにはそのような力が与えられている。それが弟子たちへの徴であるとするなら、それは何の徴なのか。

 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。キリストはこの奇跡行為によって弟子たちを、わたしたちをある世界に招き入れようとしているのだ、と言っていい。その世界とは40節の言葉で語られているものです。信じるという世界です。

 まだ信じないのか、と訳されている言葉ですが、これは新約聖書の中でも特に大事な言葉ですから、ていねいに見ておきたいのですが、これは元の言葉はピスティスという言葉で、キリストの信実ということを表す言葉です。パウロはこの言葉を神がキリストにおいてあらわしてくださった信実というふうに限定して使っていきます。つまり、信じると訳されている言葉だとわたしたちの信じるという行為や思いにすべてアクセントが置かれますが、聖書では、むしろ私たちの信じるという態度が生まれるそのもと、キリストの信実があるから信じる者とされていくというそこにアクセントがしっかり置かれているのです。これはどんな時でも忘れてはならないことだと思います。

 例えて言えば、ある組織で代表者を選ぶというような場合に、Aさんのことを多くの人がふさわしいと思った。それはAさんという人の人となり、普段の生活、人との接し方、考え方、その全部があの人なら安心だと思わせるものがあり、自分は代表者にAさんを投票した。結果多くの人がAさんに投票し選ばれた。その場合に、自分がこの人がいいと思い信じて投票したからAさんは大丈夫だと思うのは、明らかに自分の思いと行動にアクセントを置いている。自分の思い投票したことよりも、Aさんその人の人となりが人々に信頼、安心、を与えたのだ、と受け取るのは、Aさんにアクセントを置いている。聖書が語る信仰とは、自分から始まる信仰ではない。自分が聖書を読んで自分が納得し、自分がよしと判断して、自分の能力の一つとして信じていく、そういう態度行為ではない。

 そうではなく、Aさんの人となりが人々を動かしたように、イエス・キリストの信実がわたしをとらえ、イエス・キリストの恵みと愛の中の中にある自分に気づいて信じる者とされていく、それが聖書におけるキリスト信仰なのです。

 ここでキリストは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。それはもう少し言葉を加えて正確に受け取るのなら、「なぜ自分ばかり見つめて怖がるのか。神がわたしを通して働いてくださっている。だからわたしを信頼しなさい」。信じなさい、ではあるのですが、まず最初に必要なのはキリストへの信頼です。キリストというお方、この方を見つめるのです。自分の信仰がどうこうじゃない。そんなものに心を奪われている暇があったら、とにかくキリストというお方を見るのです。この方の降誕、この方の伝道の歩み、一つ一つの言葉、十字架へ向かう道、そして十字架での贖罪死、十字架愛、そして復活。その一つ一つを見ていくのです。そしてこの方の信実に触れるのです。出会うのです。そしてこの方の存在の全体にそこはかとない信頼を覚えていくところ、わたしたちの信はそこから生まれる、与えられる。「なぜ怖がるのか。まだわたしを信頼しないのか」キリストは弟子たちにそう呼びかけたのです。

 自然界はキリストの言葉の前に聞き従い、そこで奇跡が起こった。もしわたしたちがキリストの言葉に聞いて、このお方を見つめ、このお方に出会うなら、わたしたちにも奇跡は起こる。それはキリストが弟子たちとあの波にもまれる子舟に一緒に乗っていた下さったように、わたしたちの困難や苦しみや、死においても共にいてくださって、信頼を与え、信仰を受け、嵐の中も希望の内に歩んでいけるという奇跡です。

 「一体この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」弟子たちは互いに言った、というのですが、これは、互いに言い始めた、という意味の言葉、つまり弟子たちはこれ以後、この方はどなたなのだろう、という問いを持ち続けていくことになったということです。そしてその問いを問い続けるたびに、弟子たちは主イエスを見つめ、その言葉を聞き、出会い続けていくことになったのです。