-->

マルコによる福音書連続講解説教

2021.9.26.聖霊降臨節第19主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書4章35-41節 『 正気になる 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所には一人の人物が出てきます。彼は墓場に住んでいました。墓というのは地上の生涯を終えた家族や愛する者を葬る大事な場所です。しかし一方で墓は穢れた場所として人々が忌避する場所でもありました。墓はしばしば町から外れ、人々が日常近寄らない場所でもありました。その墓場にこの人は住んでいたのです。誰も墓場に好んで住む人はいないのです。彼は町から放り出され、墓場に追いやられた人、隔離されて、墓場に住むことを強制されていた人なのです。なぜなのか。彼が足枷や鎖を砕き、引きちぎってしまうからだというのです。そもそも足枷や鎖で彼を拘束しなければならなかったということ自体、尋常ではない。彼は墓場や山で叫び、石で自分を打ち叩く、つまり自傷行為をする人だった。この人が町中で、突然叫びだし、他の人が押さえつけられないような形で興奮し行動することがあったのでしょう。だから鎖につながれ、やがて墓場へと追いやられた。

 墓場を住まいとする。それ自体異様なことですが、そこは否応なく自分の足元に死があることを実感する場所です。たまに訪れるのでなく、そこで寝泊まりするということは、いつも足元に死があることを意識する場所なのです。彼は家族や友人とも切り離され、一人でその墓場で暮らすのです。

 

 町中にいた時も、墓場に追いやられてからも彼は何か抑えきれない力に振り回されるようにして、叫び、ある種の凶暴性があった。どうして彼はそうなったのか、それはよくはわからないのですが、一つのことを言えば、彼は不安の中にあったのではないか、と思います。逆に言えば、不安というものに捉えられた一人の人間を、足枷も鎖も人々も抑え込むことはできなかったのです。わたしたちもそうです。不安に捉えられたら、力づくでそれを抑えることはできない。

 彼の不安がどういうものだったか、それはわからないのですが、彼は深い不安の中にいた。不安はその人を孤立させます。一人ぼっちにさせます。自分だけがこんな苦しみを味わっているのではないか、そう感じるのです。それはわたしたちが重い病気になった時も感じる孤立感です。みんなから遠ざけられ、自分からも離れていき、自分だけが墓場にいる。誰も自分のことわかっていない。自分も自分のことがわからない。不安があるというのではなく、不安の中に落ち込んでいる。

 この人の中には、穢れた霊が入り込んでいた、といいます。悪霊です。この霊には名前があって「レギオン」と名乗るのです。その名前はローマの一個師団、およそ5千人から軍隊の単位です。つまりたった一人の人の中に、百とか二百ではなく、5千ほどの悪霊が入り込んでいるというのです。想像を絶する数の悪霊が彼の中でうごめいている。にもかかわらず彼は一人ぼっち。たくさんの悪霊が彼を引き回す。たくさんの声が彼の中にある。いろいろな声が彼の中で聞こえてくる。しかし一人の自分がわからない。一人の自分の声がわからない。

 いつもこれでいいのか、こうしたらどうだ、こっちの方がいいぞ、こうしなきゃだめだぞ、こうするべきだ、という声が聞こえてくる。しかし、自分の声が聞こえてこない。肝心要の自分の声は聞こえてこない。だから不安なのです。だから不安定なのです。そもそも自分の声というのがどういうものなのか、わからなくなっていくのです。

 いつもずっと人の声に流されてきた。流行だとか、みんながそうしてるからとか、みんなの流れに乗り遅れたくないとか、気がついたら自分の声とみんなの声との違いも分からなくなっていく。

 悪霊の働きはそういう具合にわたしたちの中で働いている。もちろんそれが悪霊の働きだとは露思わず、人はいいように振り回されていく。時の流れや世間の声に流されていくように、悪霊に振り回される。まさに悪霊はレギオン、圧倒的多数なのです。

 悪霊に取り憑かれた人は、イエスを見るとすぐに走り寄り、ひれ伏して叫んだ。悪霊はこれまでも見てきたように自分と敵対する相手を熟知していたのです。悪霊はマルコ1章の時もそうだったように、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、苦しめないでくれ」と叫ぶのです。これは、墓場に住んでいる人と主イエスとのやり取りであってその実やり取りしているのは、悪霊と主イエス・キリストなのです。

 そして悪霊は自分たちは豚の群れの中に乗り移ることを願い、豚の群れの中に入っていったのです。悪霊が入り込んだ豚の群れは崖を下って、湖に雪崩込み、湖の中でおぼれ死んだ、というのですから、凄まじい光景です。

 悪霊に取り憑かれて群れをなして崖を下っていく光景は、ひょっとしたら、わたしたち人間が、群れを成して、どこかに突っ込んでいく姿そのものなのではないでしょうか。そしてみんな滅びてしまう。

 どうしてあんな無謀な戦争をしたんだ、ということを考えていくと、単に誰かの責任というようなことでは済まない、この国に住む者一人一人が雪崩を打って湖に飛び込んでいくような姿を、わたしたちは思わないわけにはいかない。悪霊の働きは、とても身近なものです。

 悪霊に取り憑かれていた人が癒されたときのことを聖書はこう記しています。「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取り憑かれた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」。レギオンに取り憑かれた人が正気になってキリストのそばに座っていたというのです。正気になるとは、彼が本来いるべき場所にいるということです。キリストのそばに座っていること、それが彼の本来いるべき場所なのです。

 わたしたちは自分のいるべき場所を探している。もちろん家庭や職場がその居場所であることは確かであるかもしれないけれど、それだけではない。自分が自分である場所を人は探している。子どもの時、親のいる場所こそが自分のいるべき場所だと体で感じていた。しかし、そこは大事な場所ではあるけれどやがて、そこから歩みだす。どこに向かうのかわからないままに。今この人、墓場にいる人のことを言えば、不安の中にいる自分がいるべき場所はどこなのか、足元に死がむき出しにあることと向き合っている自分が、いるべき場所とはどこなのか、彼は彷徨っていたのかもしれない。

 人はあの場所この場所へと行くことで、もっと自分らしい自分になれるのではないか、と思って懸命にその場所に行こうとする。墓場から出てきたこの人は、キリストに出会い、悪霊を追い出していただき、何よりキリストに見出されている自分、神に見出されている自分に出会っていくのです。キリストのそばに座ることが、自分の場所であったことを知るのです。というか、キリストが彼のそばに座ってくださっていたのです。

 

 彼は正気になった。ところが成り行きを見ていた人たちは、彼の身に起こったこと、そして豚に乗り移ったことを人々に語るのです。それを聞いた人々は、主イエスとその一行に対して、この土地から出ていってほしいと言い出したのです。悪霊と追い出しそれを豚の中に乗り移させたのですから、その土地の人々にすれば、大きな損失もあり、その力に恐れをなしたともいえるでしょう。

 正気になった人は、キリストのそばに座って、これまでにない落ち着きを感じていたのではないか。この人のそばにいることで、余分な力が抜けていく。藻掻いたり足掻いたりしないでいい自分を感じていた。だから彼は、主イエスについていきたいと願い出たのです。とても自然な願いです。しかし主イエスはお許しにならず、むしろ「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない。」と言われたのです。 

 キリストのそばに座っている、それが自分の場所だと思った彼に、主イエスはあなたが生きる場所は、あなたの家、あなたのこれまで生きてきた町や社会だと言われているのです。そこであなたわたしと出会って経験したことを証ししなさい。と言われたのです。あなたの生活の場所で、福音を証ししなさい、と言われたのです。その場所というのは、キリストに出ていってもらいたい、と言い出した場所のことです。イエス・キリストはわたしたちの町にはいらない、と言う場所です。墓場にいた男にとって、決して居心地のいい場所とは言えないかもしれない。しかし、彼にとって、決定的なことは、イエス・キリストと出会ったということ、キリストによって悪霊を追い出していただいたということ、キリストによって正気になったということ、キリストのそばに座るという場所が自分の場所であることを知ったこと。そして不思議にも、キリストが目に見える場所にいなくても、彼と共にあり続けてくださるということを、彼はこの後知ることになっていく、ということなのです。キリストはどんな時も、あなたのそばにいてくださる、つまり、どこにあってもあなたのいるべき場所はキリストによって備えられ、与えられているということを、彼は知るものとされていくのです。彼はキリストのことを証しする中で、そのことを知らされ続けていったのです。