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マルコによる福音書連続講解説教

2021.10.3.聖霊降臨節第20主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書5章21-34節 『 娘の信仰 』

菅原 力牧師

 先程の聖書朗読で、5章21節から朗読しました。ここはお読みになってわかるように、最初と最後にヤイロの娘の話があり、その間に病気の女性の話があり、いわばサンドイッチのような構成になっています。それで、今日は間に挟まれた部分、25節から34節までの聖書箇所に聞き、ヤイロの娘の話は来週聞きたいと思います。

 「さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」彼女の病気を特定することは難しいのですが、慢性の子宮出血のような病気だったのではないか、という人もいます。医者にはかかったものの、十分な医療行為がなされないままに、その病が12年間続いていたのです。しかもそれだけでなく、こうした出血を伴う病は、宗教的に穢れているとして忌避された。彼女は、肉体、精神的苦痛だけでなく、宗教的、社会的な苦痛を身に負うていたのです。それは現代においても、ある病気の人が社会的な差別を受けるということがあることを考えると、彼女はどれほど重いものを背負わされ、深い苦しみ負わされていたことかと思うのです。挙句に彼女は、多くの医者にかかり、全財産を使い果たし、それでよくなったというのではなく、ますます悪くなっていた、というのです。

 その彼女が主イエスのことを聞いて、この方の服にでも触れれば癒していただける、そう思って群衆の中に紛れ込み、後ろから主イエスの服に触れたのでした。

 ここまで聖書は彼女のこと、一気に、一筆書きのように書き記しています。

 苦しんで、苦しんで、苦しんできた彼女が人目を気遣いながらもなお、この方こそとの思いの中で、後ろから主イエスの服に触れたことが描かれているのです。「触れれば癒していただける」それが彼女の中にあった思いです。すると出血はすぐに全く止まって、病気が癒されたことを彼女は実感しました。

 彼女はそれで十分だったでしょう。目的は達した。触ったら癒される、そう思って触って癒されたのですから。

 しかし主はそうではなかった。主はご自分の内から力が出ていったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と尋ねられました。弟子たちは、こんなにたくさんの人が押し迫ってきている中で、誰が触ったかと言われてもそれは無理だ、わからない、と言うのです。

 しかし主イエスは弟子たちの言葉に関わらず、触れた者を見つけようとして、周りの人々を見つめていかれたのです。女は自分の身に起こったことにおそろしさを感じた。それは、あらためてこのイエスという方に働く力がわたしに癒しを与えたのだということを感じる恐れのようなものでした。その方が自分を捜しているのを見て、震えながら進み出て、すべてをありのまま話した。すると主イエスは彼女と向き合ってこう言われたのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。

 主イエスはどうして彼女を捜されたのでしょうか。群衆が押し寄せるような中で、あえて一人を捜された。一人の病人が癒された、ということでいえば、主イエスの中にある力が溢れ出て、長く病を身に負うていた女性が癒された、それで十分と言えば十分です。少なくとも彼女の側から言えばそれで十分。自分の目的は果たしたのですから。ある人はこれで彼女が逃げ去れば、「食い逃げ」だ、と言いましたが、確かに。キリストからいただける恵みだけいただいて、とっとと逃げ去るのならそれは食い逃げかもしれない。しかしキリストはそれを咎めようとしておられたのでしょうか。違うと思います。キリストは「食い逃げ」はだめだと言いたいわけではなく、今日の聖書の言葉で言えば、「癒される」だけではなく、「救われる」者となってほしい、という願いがあったのです。28節で彼女は「癒していただける」という思いをもってキリストに近づいた。しかし、キリストが彼女に語ったのは、「あなたは癒された」ではなく、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」でした。彼女にとってキリストに接近するのは、癒しのためでした。しかしキリストが彼女と出会うのは、救いのためだったのです。

 けれども、それにしても不思議なことがあります。それは、主イエスが彼女の態度、それはご利益的なかかわり、食い逃げ的な関わり、自分の利益になるものを受けるというだけの態度を「あなたの信仰があなたを救った」と評価しておられるということです。いったい彼女のどのような態度が「信仰」なのか。確かに病気を癒してほしいという切実さはわかるとして、それは自分にとってのご利益を求める態度以外の何ものでもない。あえてご利益的な関わりと言ったのは、ご利益信仰というほどの信仰もあるのかどうかわからないからです。

 しかし、キリストは「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。わたしたちが彼女の態度をどのように評価しようが、キリストは彼女の態度に何かを見ておられる。そのことと、キリストが彼女を捜し、彼女を対面させて、語ろうとしたことと、関係があるのではないか。

 キリストがあなたの信仰といった信仰いう言葉、以前も申し上げたように、どう訳すかが問題となる言葉です。ここでは信頼と訳すのが適当なのかもしれません。彼女はイエス・キリストの何をどう聞いていたのか、福音書には何も書かれておらずわかりません。ただ、彼女はこの方であれば、その内なる力で癒していただけるだろう、という信頼を持っていたことは伝わってくるのです。「わたしを助けてください」という思いと、「癒していただける」という思いが彼女の中でキリストへの信頼となって、この行動に出た。体も傷つき、こころも傷つき、お金もなく、何も持たない彼女がこの方は頼れるお方、と受けとめて、進み出た。キリストはその彼女の思いを丸ごと受けとめてくださっているのです。キリストへの信頼、それをもって進み出ることの大事をキリストは受けとめてくださっている。もちろん、それで終わりではない。その信頼により進み出ること、その中でキリストの力があなたにあらわれた。しかしそれで終わりではない。自分が近づいて、その実キリストが近づいてくださっていること、このわたしを見つめてくださっているキリストに出会うこと、キリストのまなざしの中にある自分に出会うこと、さらに進んでキリストの愛に出会うことへと招かれているのです。

 彼女は、癒されることは願っていたけれど、救われることは願っていなかったかもしれない。いやそもそも救いというようなことなど考えてもいなかった。それは実はみんな同じ。自分のご利益は求めているけれど、キリストによる救いということはわかっていないし、求めてもいない。しかしキリストは彼女の助けてくださいという思い、癒してくださるという思いを受けとめて、彼女を救いへと招き入れてくださるのです。ご利益に終始するのではなく、もっと豊かな、もっと充たされた、もっと恵みにあふれた救いへと彼女を招き入れてくださるのです。だから触られて、力が出て、それで終わりではないのです。食い逃げは図々しいから彼女をとっ捕まえたのではないのです。彼女を受けとめ、彼女を救いへと招き入れ、神の愛の中にあることを指し示すキリストの信実に、彼女を招き入れようとしてくださっているのです。

 「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。文語訳聖書はこう訳していました。「安らかに往け。病いえて健やかになれ」。この安らかというのは、神さまのとの関係の中に入れられた充実を表す言葉です。あなたも神さまの支配の中にあるんだ、神さまの愛の中にあるんだ。すでに安心の中にあるよ。神の平安の中に招き入れられている。神さまのとの関係の中にある自分を全身で受けとめて生きる。それが本当の健やかさだ、あなたはその健やかさの中で生きていきなさい。キリストは癒された女性にそう語って送り出したのです。