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マルコによる福音書連続講解説教

2021.10.17.聖霊降臨節第22主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書6章1-6節『 なぜ不信仰なのか 』

菅原 力牧師

 主イエスは故郷・ナザレに行かれます。そこは主イエスが育った場所であり、家族と共に過ごした場所です。しかしヨハネから洗礼を受け、福音を宣べ伝え始めるようになってから主イエスは故郷から離れていました。そして今弟子たちと共に故郷へ行かれた。そして安息日になったので主は会堂で教え始められた、というのです。

 ということは主イエスは単に故郷にのんびりしたくて帰ったわけでも、旧交を暖めるために帰ったのでもなかった、ということです。故郷でのんびり旧交を暖めるために帰るのであれば、弟子など連れず、一人で帰ればいいのです。主イエスが故郷に帰られたのは、会堂で教え始められたとあるように福音を宣べ伝えるためだった。

 安息日、会堂に集まった人たちは主イエスの語られることを聞いて驚きました。少し驚いたのではない。とんでもなく驚いたのです。キリストが語られたのは神の国の福音でした。そして神の恵みの支配はやってきている、と語られた。それは彼らがこれまで聞いたものとは違っていたし、ただ教えが少し違うというのではなく、まるで神に直接聞いたようなリアリティで語ることに驚くのです。さらに故郷の人々も、主イエスの奇跡の業については、風評で聞いていたのです。

 語ることも、なすことも、驚くほかないようなことをイエスはする、実際故郷の人はイエスに驚いているのです。

 会堂に集まった故郷の人たちはその驚きをこう語った。「この人はこのようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」

 「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たち、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」故郷の人たちの驚きには、母親も、家族も知っている、そして何より大工として働いてきたあのイエスが、「時は満ち、神の国は近づいた」と語り、あたかも自分が神の子であるかのような言動をしたり、奇跡を起こしたりする。そのことに対する驚きと、疑心、よくわからないけれど否定的な疑心なのです。

 マルコはそれに続いて「このように人々はイエスに躓いた」と書き記しています。躓いたという日本語は、つま先にものが当たって前によろめくという意味で、そこから途中で障害物があってしくじる、という意味になっていきます。確かにここで、主イエスに対して評価がくじかれる、ということがあったのだと思いますが、ギリシャ語の躓くは、もともと「罠にかかる」とか「落とし穴にはまる」という意味の言葉です。これはとても興味深い表現で、人々がイエスに躓いたのは、(人々が)罠にかかったということだ、落とし穴にはまり込んだということだ、といっているのです。

 どういうことか。それは主イエスの語られた言葉。その言葉の内容に驚きつつも、人々はその内容に聞くよりも出自、どこの出の人だとか、どういう家柄だとか、どういうところで学んだとか、そこから受け止めようとした、それは罠にはまっている、落とし穴にはまっているのだとマルコはいうのです。

 説教者が優れた説教をしたときに、この人はどこの学校でどれだけ勉強して、どういう経歴なのか、と思うことはわたしたちでも普通にあります。故郷の人たちが特別なのではない。しかも彼ら・彼女たちは主イエスの家族のことまで知っているのです。律法学者やファリサイ派の人々のような学びの訓練を受けず、大工として働き続けてきたイエスがなぜこんな知恵を、どこから得たのだろう、と思うのはある意味当然なのかもしれない。中身ではなく、その人の出自、経歴でその人を、その話をとらえようとする。いつの時代でも、どんなときにもあることです。

 けれども、誤解のないように言えば、ここで問題になっているのは、郷里の人たちはイエスの偉大さを見誤っている、イエスを過小評価している、というようなことではないのです。ここにはもう少し質の違う問題があるのです。

 それを今要約して言うのなら、この人はいったい何者なのだ、という疑問が故郷の人たちの中に湧き起っているということです。この男は紛れもなく我々の知っているマリアの息子だ。兄弟も知っている。だがこの男はいったい何者なのだ。という戸惑いにぶつかっているのです。

 その中身を想像するに、イエスはまるで神と親子関係でもあるかのように、神のことを語る。それは、神のことを宗教者としてどこかで学んできたというのとは全く違う。まるで父のことを語る息子のように神のことを語る。この男はいったい何者なのだ。そこで故郷の人たちは躓いているのです。マリアの息子に過ぎないこのイエスがなぜ神のことをこんな風に語るのか。

 それは故郷の人たちだからこそ敏感に感じたことなのですが、突き詰めていけば、主イエスに出会った誰もが何らかぶつかっていく事柄だったのです。

 例えば、律法学者やファリサイ派の人々もイエスがたんに洗礼者ヨハネのように、新手の宗教家の一人というだけなら、あれほど憎む必要もなかった。在野の宗教家というのは、いくらでも出てくるのでしょう。しかし主イエスのことを彼らが許せなかったのは、自分のことを神の子と思い込んでいることがあったのです。冒?の罪極まれり、と彼らは感じたのです。

 

 このマルコ福音書8章で主イエスが弟子たちに「人々はわたしを何者だと言っているか」と問われる場面が出てきます。弟子たちは口々に「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」といっています、と応えるのです。

 これは人々の見方がとても理性的で、精確であることを物語っているのです。つまり普通に考えれば、イエスは洗礼者ヨハネのような優れた宗教家、ですよ。エリヤのような優れた預言者の一人、こう考えるのが最も理性的なのです。理性的というのは、わたしたち人間の判断という意味です。

 ところが、主イエスは人間の判断を超える方だった。人であって、神の子。これは人間の理性の捉えられるところではないのです。

 故郷の人たちもイエスが大工であっても、一人の優れた宗教家というのであれば、いろいろ飛躍はあるにせよ、それはそれで了解できないものではなかったと思います。しかし主イエスは優れた宗教家、ということで故郷の人たちに収まりつくような方ではなかった。主イエスは救い主だった。故郷の人たちはもちろん、そんなことはまだこの時知る由もなかった。しかし、語る言葉にせよ、なした奇跡にせよ、人々は何か不思議なものを感じていた。だがそれ以上前には行けなかった。人々はイエスに躓いたのです。蹴躓いて、落とし穴に入り込んでいる。

 それは飛躍を承知で言えば、人間の考え、人間の理性、人間の判断、という穴の中に落ち込んでいるということです。そしてそれは故郷の人に限らない、誰もが躓くこと、誰もがあり得ないと思うことなのです。

 イエス・キリストにおいて神が働き、神が共におられ、神が語られる。イエス・キリストは、人であって神の子。それはわたしたちの考え、理性、判断を超えています。

 先ほど言ったマルコ8章で主イエスが「人々はわたしを何者だと言っているか」という問いかけに続き、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」という問いが主イエスから与えられました。「あなたはわたしを何者だというのか」。

 それに対して意外にもペトロが「あなたこそキリスト(救い主)です」と応えるのです。それはペトロの考えというより、聖霊の導きによるもの、でした。

 イエスはキリストです、という告白は、わたしたちの内なるものからは出てこない。ただ聖霊の働きと導きのよるものなのです。

 4節の言葉は、当時広く知られた格言のようなものでした。主イエスは種まきのたとえの時にそうであったように、神のことばを容易に受け入れない人間の現実の中で、強引に力でねじ伏せるというようなことはされておられない。ここでも人間の躓きの前でいわば主イエスご自身が破れておられる。イエスを通して語られる神のことばを信じて聞こうとしない人々の前で、彼らをうならせるような奇跡を起こそうとはしておられない。ただ、最初に申し上げたように、故郷でも神のことばを語り続けられる。それは、人々の不信仰に驚きつつも、蒔かれた種が聖霊の働きの中で、聖霊の導きの中で根を張り、実を結んでいくことを信じて、破れてなお、語り続けられる主の姿なのであります。

 主が忍耐をもって、わたしたちの現実の中に立ち尽くして、そこで祈りつつ、わたしたちのために語り続け、種をまき続けてくださること、そのことを受けとめていきたいと思うのです。