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マルコによる福音書連続講解説教

2021.10.24.降誕前第9主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書6章6-13節『 遣わす 』

菅原 力牧師

 主イエスは伝道を開始されたその直後に、ガリラヤ湖の畔で弟子となる者たちを召しておられます。そしてその後の歩みの中で、12弟子を選ばれていかれる。つまり主イエスにとって、弟子というのはあってもなくてもいい存在なのではなく、伝道の歩みを始めると同時に、弟子を選び、主イエスの歩みと一体をなすような、なくてならぬ存在として召し、「弟子」と共に歩まれたのです。

 内村鑑三という方がいました。ひじょうにすぐれたキリスト教思想家でした。彼の周りには抜きんでてすぐれた者たちが集まってきました。彼もまたそれにこたえて多くの弟子を持ち、鍛え、教育し、その弟子たちの中から、社会的にも、学問の世界においても優れた人物が輩出されました。内村鑑三の弟子のグループはいくつかありましたが、みな自分が内村の弟子であることをどれほどの光栄と誇りいのもっていたことか。それは内村鑑三だけでない、世に師弟関係と呼ばれるものの多くは、そうした師を尊敬し、師もまた弟子を訓練し、優れた門下生を生み出していく、という関係が目指されていることが少なくないのです。

 しかし、キリストと弟子たちとの師弟関係はそのようなものではありませんでした。キリストは弟子たちに、宗教者としての英才教育を施したり、高度な訓練をしたり、特別な教育を施したわけではありませんでした。そもそもキリストの弟子たちと呼ばれた者たちが、理解力に富み、キリストの言葉を一聞いて十わかる、というような人々では全くなかった。むしろ弟子たちは常に鈍い理解の者たちであり、臆病で、信仰も定まらないような人々だった。またもし弟子というものが師のなす業の有能な助け手、協力者ということであるのなら、キリストの弟子はあまり該当しない。むしろキリストの働きの足を引っ張り、時には邪魔をし、最終的に裏切ってしまう者たちだったのです。なぜこのような人たちを主イエスは弟子とされたのか。しかもそれは成り行き上止むを得ずそうしたものを弟子にした、というのとはわけが違うのです。主イエスがその公の活動の、伝道の働きの最初から、主ご自身が呼びかけ召した者たちだったのです。主はこの者たち共に歩むことを意志されたのです。なぜなのか。

 キリストは今日の聖書箇所で弟子たちを伝道に派遣されます。「12人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた」とあります。そして伝道に遣わされる心構えのようなことを弟子たちに語ります。

 ここを読むと、わたしたちはとても素朴な疑問にぶつかります。それは、いくら何でも弟子たちを派遣するのは早すぎるのではないか、ということです。そもそも伝えるべき福音そのものを弟子たちは理解できていないのではないか。弟子となってから数か月たっているかどうか。本当に短い期間です。あまりにも未熟、訓練もなされていない。それなのに二人ずつで派遣するなんて。

 そういう疑問を持たれた方は少なくないと思います。教会に20年ぐらい来ている人でもそういうことを平気で言う人がいます。「全然勉強が足りてないので、人様の前でキリスト教の話をしたり、証しをしたりするなんて無理です。」弟子たちは、わずか数か月だったと思います。なぜ主イエスはそういう弟子たちを派遣されたのでしょうか。それこそが訓練だ、と思われたのでしょうか。泳げない子をプールに放り込んで泳がせるみたいな。

 

 キリストの弟子の選びと、この派遣とは別な事柄ではなく、深く関係があるのではないでしょうか。そこで考えたいのは、キリストが弟子を選ばれる、その選びに何らかの基準はあったか、ということです。その選びの基準は聖書のどこにも何も書かれていません。だから、わたしたちにはわからない。しかし、キリストの選びから受け取るものはあります。それは、「罪人の一人を選ぶ」、ということです。キリストは罪人の一人を選ばれる。罪人というのなら、すべての者がそうなのですが、その一人をキリストが選ばれる。それは、罪人は誰でもいいから、ということではない。罪人の一人が、キリスト呼ばれて、選ばれるということなのです。選ばれるということは、招かれるということです。招かれるということは、キリストと共に生きる者とされるということです。イスカリオテのユダが弟子の一人として選ばれています。それはキリストの人を見る目がなかったということなのではない。罪人の一人であるユダが選ばれているのです。同じように罪人の一人であるペトロが選ばれているのです。そしてキリストはその人と共に歩んでいかれることを意志されておられる。その人を負っていかれる。その人もかけがえのない一員として、招き、背負い、共に歩んでいかれる。そしてその人が遣わされる。

 今日の聖書箇所を読むと、宣べ伝える福音の内容については、語られず、宣べ伝えていく弟子たちの心構え、姿勢について語られる。それをあらためて考えてみると、宣べ伝える福音は、わたしたちもこれまで繰り返し聞いてきた「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」以外の何ものでもない。このキリストが宣べ伝えている福音を弟子たちも宣べ伝えるのです。このキリストが語られた福音、別な言葉で言い換えるとするなら、「神の国は近づいた」とはイエス・キリストがこの世界に来られた、ということです。この世界はイエス・キリストのおられる世界なのだ、ということです。それを宣べ伝えるということなのです。それは、罪人であるわたしが招かれ、受け入れられ、担われていく世界なのです。そしてそれを宣べ伝えていくのは、他の誰でもない、罪人の一人として選ばれた者なのです。そしてそれは、特別な才能や、優れた才覚があろうがなかろうが関係ない。「わたしが招かれ、受け入れられ、担われていく、わたしが救われる」、という福音なのです。選びと派遣とは深く結びついているのです。

 主は弟子たちに、「汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない、と命じられた。」汚れた霊に対する権能とは、キリストの福音が持つ権能・力です。それ以外は杖一本だけ持って行け、と言われたのです。この主イエスの言葉は、どう受け止めたらいいのか、わたしたちには難しい言葉です。これに続けてキリストは「どこでも、ある家にはいったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」と言われています。神の福音を宣べ伝えるものを受け入れる家がある、ということです。こうした巡回伝道者に対して受け入れる人たちもいたということがあって、杖一本のほか何も持たずに行け、というような言葉が成り立っているのだ、と解釈する人がいます。確かにそういう面はあるのだろうと思います。けれどもここでキリストが言われているのは、福音を宣べ伝える時に、福音以外のものに頼るな、ということなのです。福音を宣べ伝える、そのときにお金や蓄えがあるという安心、戦う武器がいろいろとあるという拠り所を捨て行け、というのです。聞いてすぐに理解できるようなことでも、理解すべき言葉でもない。じっくりと味わっていくべき言葉です。

 「しかし、あなた方を迎え入れず、あなた方に耳を傾けようとしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証として足の裏の埃を払い落としなさい。」何をここでキリストは語っておられるのか。派遣され、福音を宣べ伝えるということ、派遣とはキリストから使命を託されて遣わされていくことです。主語はキリストです。働いてくださるのは神です。弟子たちはその一部を担っていくのです。自分の力で全部完了させるわけでも、成し遂げるわけでもない。福音に耳を傾けない、という人々も場所もある。その時には卑屈になることもなく、去っていけばよい。足の裏の埃を払い落とすとは、いろいろな意味が込められた行為ですが、ここでは福音に心を開かないものがいるなら、その心を開かせるために福音以外の手段によって工作することはせず、決然として去れ、後のことはすべて神に委ねよ、ということの態度表現なのです。自分のできなかったことをくどくど後悔することは、神の働きを自分の働きにしてしまう傲慢なのです。弟子たちは派遣によってキリストになるわけではない。あくまでもキリストに仕える弟子の一人として生きればいい。

 弟子たちは、キリストによって選ばれた。罪人の一人であるにもかかわらず、キリストによって呼ばれ、招かれ、担われ、救われていく一人として、選ばれた。そしてこの世界が、もうすでにイエス・キリストがおられる世界なのだ、あなたもキリストに呼びかけられているのだ、ということを宣べ伝えるため、派遣された。わたしはこれは、キリスト者の生涯の原型のようなものだと思います。キリスト者の人生の縮図のような出来事がここに描かれているのだと思います。わたしたちキリスト者は、一人一人、このキリストからの呼びかけの声、招きの声、選びに応え、キリストに遣わされて神の働きに参与していく人生を歩んでいくのです。恵みに応えて、気負いなく、しかし、祈りつつ歩んでいきたいと思うのです。