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2021.11.7.聖徒の日礼拝式説教

聖書:テサロニケの信徒への手紙一 4章13-18節『悲しみに負けない希望』

菅原 力牧師

 今日は教会の暦で、聖徒の日と呼ばれる日曜日です。聖徒という言葉は、カトリック教会とプロテスタント教会とでは意味が違います。カトリック教会では、信仰者としてすぐれた歩みをなした人を聖徒と呼び、その人たちを記念します。しかしプロテスタント教会では、聖徒というのは、特別信仰者としてすぐれていたとか、どうかということに関係なく、キリストに在って地上の生涯を終えた人、そのすべての人を聖徒と呼びます。ですから今日は、大阪のぞみ教会につらなり、地上の生涯を終えたお一人お一人、また皆さんお一人お一人の胸の内にある数多の聖徒たちを覚えつつ神を礼拝する日なのです。

  けれども、地上の生涯を終えた方々を覚えて礼拝するということは、日本のお盆のようなこととは違います。お盆は、日本に古くからある祖先崇拝と仏教とが融合して定着しているものです。祖先の霊を敬い、崇拝する、広い意味での宗教行事です。しかし、教会が行う聖徒の日の礼拝は、なくなった人たちを礼拝するわけではありません。地上の生涯を終えた方々を深く心覚えるのですが、その人たちを仏さまとして礼拝するわけではありません。神を礼拝します。しかもそれは漫然と神を礼拝するということではなく、キリストに在って死んだ者たちに神はどのような将来を約束し、与えてくださるのか、その神の御業に思いを寄せ、その神の恵みに感謝し、神を賛美し、神を礼拝するのです。

  先ほど朗読された聖書はテサロニケ教会に宛てて書かれたパウロの手紙の一部です。テサロニケ教会は当時ローマ帝国のマケドニア州の首都だった町で、パウロが伝道の旅をする中で生まれた教会でした。町には様々な宗教・信仰があふれ、生まれたばかりのテサロニケ教会はさまざまな困難に直面していました。その中の一つが、すでに死んでしまった人たちのことでした。

  そのころ、教会の中では、終末のときは近い、という信仰がとてもリアルなものでした。終末というのは、神がイエス・キリストにおいて示してくださった人間の救いを完成させてくださるとき、この世界の救いの完成のときでした。それがもうまじかに迫っている、という緊迫感がありました。そうした中、教会の中で、ではすでに死んでしまった人たちはどうなるのか、救いの完成のときには、死んでいるのだから与れないのか、という不安と問いがありました。つまり、テサロニケの教会の中では、終末という救いの完成のときに運良く生きている人はそれに与れるのかもしれないが、死んでしまった人たちは、しかもキリストを信じていたけれど、死んでしまった人たちは、救いの完成に与れないのか、という不安と問いが蔓延していたのです。

  パウロはこうした問い、不安にこたえるためにも、この手紙を書いたのです。

  13節「兄弟たち、すでに眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」眠りについた人たちというのは、死んだ人たちのことで、当時こうした表現がよくつかわれました。元の文章は、「すでに眠りについた人々について、無知でいてほしくない。」とまず記されています。このことについては、無知でいてもらっては困る、という強いことばなのです。

  どうしても知っておいてほしいこと、それが14節に記されていること、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」これがキリスト教信仰です。わたしたちの罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んだ、そのキリストを神は復活させてくださった、これがキリスト教信仰の中心です。その信仰に示されているように、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導きだしてくださいます。」そのような希望が与えられていること、そのことに無知であってほしくない、そう語っているのです。

  眠り、という言葉が使われています。つまり死んだ人も目覚める時が来るのです。神がキリストを復活させてくださったのと同じように、救いの完成のとき、神は眠りについたものをキリストと共に導き、復活へと導き給う、そういう希望が与えられているのだ、というのです。すなわち死んだ者は永遠の眠りについたわけではない、ということです。

 

  誤解のないように言えば、これはいわゆる死後の世界について語っている言葉ではないのです。死後にわたしたちが行く世界について語っているのではない。宗教というものは、死後の世界について語るものだ、というような理解がありますが、聖書は死後の世界・場所についてはほとんど何も語っていないのです。天国とか、神の国という言葉が聖書の中にはたびたび出てきますが、それは日本で言う、「地獄極楽」の「極楽」という意味では全くありません。神の国はあなたがたのただ中にあるのだ、と聖書にあるように、神の支配をあらわす言葉です。

  聖書が語るのは、死後に我々が行く場所ではありません。それはわからないし、神さまにおかませしたらいい。行く場所ではなく、死んでのち神さまはわたしたちにどのような約束を与えてくださっているのか、最終のゴールは何なのか、ということを語るのです。それは終末のとき、救いの完成のときで、その時には、すでに死んだ者も、その時生きているものも、等しく神によって復活させられ、その終末に与る、救いの完成の中に置かれる、しかも大事なことは、その完成のときに至るまでも神さまの御手の中にある、どういう形でかはわたしたちには知りようもないけれど、御手の内にある、それが神の約束されておられることだ、と語るのです。

  わたしたちはこの地上の生涯を終えて、死んだ後のことなど、わからないし、知らないし、というのは、古代人も現代を生きるわたしたちも同じです。死の経験がないからです。しかし聖書が語るのは、繰り返しますが、死後の世界の様子や、体験ではなく、死後も約束されている神の恵みのこと、なのです。「兄弟たち、眠りについた人たちについては、無知でいてほしくない。希望を持たない、他の人々のように嘆き悲しまないためである。」とパウロは最初に言いました。神がイエス・キリストを復活させられたように、神のお定めになった時に、キリストと共に復活させられ、救いの完成の中に置かれるのだ。だから生も死もすべて司る神を仰ぎ見て、死者のことは安心のうちに御手に委ね、生きているわたしは与えられている地上の生を精いっぱい生きて、自分の死もしっかり見つめて、自分の死ぬことも死後も、神に導きの中にあることを信じて、生きて死ぬ、そして終わりの神による救いの完成の時を仰ぎ望む、それが人として大事なのだ、パウロはそう語っているのです。

  先ほどから神の救いの完成のとき、ということを繰り返し語っています。キリスト教会は、この終末ということを、聖書から聞き取り、2000年にわたって受けとめ続けてきました。そもそも終末ということがピンとこない人も、少なくないと思います。特に聖書の言葉に親しんでいない、この国の人にとってそうでしょう。しかし終末を信じて生きるということは、わたしたちの生き方に根本的な影響を与えるものです。例えば、スペイン・バルセロナにあるサグラダ・ファミリア教会、ガウディによる建築物ですが、あの教会は1882年に着工、130年以上たった今でも完成していません。最近の優れた技術革新で、完成の時期が早まるというようなことも聞きますが、いずれにせよまだ完成していません。

  ということは、あの建築に関わった多くの人は、完成の時を待たずに亡くなったのです。ほんの一部分の工事に関わって、ファミリア教会の全体像を見ることもなく死んだのです。それは何も、ファミリア教会だけに限らない、パリのノートルダム大聖堂も、200年近い歳月をかけてつくられたのです。つまり自分の生きている中で完結しない世界を工事に関わる人は、またそれを見つめる人々は知っていたのです。自分がかかわるのはあくまで一部分、しかも途中で死んでいく。しかし最後には、この仕事の完成の時を迎える。それを信じて、自分に与えられた今を精いっぱい生きるのです。わたしは工事を進める背景には、明らかに終末を仰ぎ見る人々の信仰がある、と思います。わたしたちの人生は、わたし一人の歩みだけ見れば、どんな評価したとしても、ある一部分、それも中途半端な歩みであることは、避けられない。完成などということは言えない。そもそも小さな、貧しさを内に秘めた歩みです。しかし、わたしを含め、この世界の営みを神の救いという業の中で完成してくださる時が来る、そのことを信じるからこそ、この貧しい、中途半端な、完成しない小さな歩みも、安心して生き死ぬことができるのです。

  わたしたちは、すでに多くの方々を神のみもとにお送りしています。それぞれ神によって与えられたいのちを走りぬき、主を仰ぎ見て御許に帰っていかれました。

  わたしたちは、ただこの方々をお見送りしたのでも、まして永遠の別れをしたのでもないのです。この方々は、今神の御手のうちにあって、神の約束の中に置かれているのです。イエス・キリストが十字架で死んだ後、神によって復活させられたように、この方々も、イエスに在って眠りにつき、イエスに共に導かれ、やがて終末のときに神によって復活し、救いの完成の中に置かれるのです。それは今、生きているわたしたちも皆そうなのです。そのことをあらためて受けとめて、眠りについた方々を御手に委ねるとともに、わたしたちも与えられたいのちの今を、終わりの完成のときを仰ぎ、感謝と喜びのうちに歩んでいきたいと思うのです。