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2021.12.5.アドヴェント第2主日礼拝式

聖書:ルカによる福音書1章39-56節『その憐れみは限りなく』

菅原 力牧師

 マリアは天使との短いけれど深く心に刻まれる会話を胸に秘め、エリサベトの元に急ぎます。なぜエリサベトのもとに急いだのか。お言葉どおりこの身になりますように、と応えたマリアの中には、今まで抱え込んだことのないものがあったからではないでしょうか。マリアの身に起ころうとしていることをどんな形であれ、受けとめてくれる女性は、エリサベトだとマリアが感じたからでしょう。同じように、天使の告知によって妊娠し、しかも自分より年長で親類であるエリサベト、彼女に今の自分の自分でもよくわからない思いを聞いてほしい、マリアはそう思ったのかもしれない。

 二人はいろいろな思いを分かち合ったことと思います。しかし今ここで注目したいのは、二人はこのとき、神からの約束の中に立たされた人であった、ということです。神から約束を与えられ、その約束を受けとめて、信じて待つ、そこに立っているのです。神の言葉が自分の現実の中で成就、実現することを信じて待つ人、奇しくも二人はその点で全く共通な人間だったのです。

 カール・バルトという神学者はこの聖書箇所の講解の中で「ここに、この二人において最初のキリスト教会がある」と言っています。ここで世界は新しくなった、とも言うのです。この二人、一人は年老いていましたし、一人はまだ若く幼いと言ってもいい女性でした。つまり社会の中で言えば弱い存在です。この二人がヘロデ大王に立ち向かえるわけでもなく、この世のさまざまな権力とやり合えるわけでもない。二人はこの世にあって無力なものです。しかし、この二人は神の約束の言葉の中に立っているのです。神があなたと出会い、あなたにおいて神の働きを実現しようとされる、神があなたを用いられ、神があなたを生かす、あなたは神の働きによって子供を産む、という神の約束の言葉の中に立っているのです。そして二人が産む子供は、一人は救い主を指し示す者となり、一人は救い主として歩む。二人はまさに神が与える希望の中に立っているのです。自分たちはいまだ戸惑いの中にある。自分たちはいまだ混乱している。自分たちはいまだ心も整理できていないかもしれない。約束の実現は未だ見ていない。しかし二人は、まちがいなく、神の約束の言葉の中におかれ、神の言葉によって与えられた希望の中に立っているのです。神の真実の力のもとにあるのです。それが教会なのだ、とバルトは語るのです。

 

 エリサベトは、ヨハネを胎に宿して、六ヶ月を迎えていました。彼女自身もちろん今も尚戸惑いの中にもあったことでしょう。けれども、神の言葉がこの自分において実現しつつあることを、神がこのわたしに現実的に具体的に働きかけて下さっていることを彼女は心とからだで感じていました。神の約束の言葉を信じて生きることの喜びを感じていました。だからマリアに語ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いなことでしょう。」「あなたも神の約束の言葉の中にあるのよ。神があなたを受け入れ、神があなたにおいて、救い主、神の独り子を誕生とさせようとしておられる。それは本当に不思議なこと。驚くべきこと。でも神が働かれるということはそもそも不思議なこと。その不思議がこのわたしにおいて働くことはただ不思議としかいいようがない。それをただ信じて受けとめていくものは、なんと幸いでしょう。」エリサベトはそう語ったのです。

 マリアのエリサベトのもとでの滞在は3ヶ月に及んだと聖書は報告しています。いくら親戚の家とはいえ、これは特別な長さのような気がします。マリアがエリサベトの下で、天使の言葉を約束と希望の言葉として豊かに味わっていったのでしょう。

 エリサベトとマリアの姿は、決して特別なものではない。キリスト者はみな同じ、と言ってもいい。わたしたちに約束されている終末の神の完成はまだ見ていない。しかしその約束、再臨の時を信じて、今を生きる。希望のうちに生きる。それがキリスト者の根本の姿だからです。マリアとエリサベトはわたしたちキリスト者の原型、と言っていい二人なのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんとさいわいでしょう。」それはマリアだけに語られた言葉ではないのです。

 マリアはエリサベトの言葉に応答するようにして、喜びと感謝のうちに神を讃美します。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」あがめるという言葉は、「大きくする」という意味がもともと込められています。自分を大きくするのではなく、神を大きくする、神の大いなる業をほめたたえるのです。マリアは、自分の思いを小さくして、神の大いなる業の中で自分が用いられていくことをこそ、願ったのです。マリアの信仰がわたしの魂は主をあがめとうたうのですが、そこで働いているのは神の働きです。マリアには奇跡が起こっている。主イエスを妊娠したということだけにわれわれの目は奪われがちです。しかし、神の子を宿したことも奇跡なら、彼女が神をあがめ始めたことも奇跡なのです。自分を小さくして、神の大きな働きの中で、自分が用いられ活かされていくことを願う、それは神が導き、神が働いて与えられる信仰なのです。

 「身分の低いこのはしためにも、目を留めてくださったからです。」マリアは天使の語りかけを聞き、自分の意志、自分の考えとは全く違う神の意志に出会います。

 自分を当事者として用いる神の思いに出会います。身分の低い、はしために神が目を留めてくださっている、ということを知ったのです。

 わたしに神が目を留めてくださっている、そのことを受けとめることこそ、わたしたちのキリスト教信仰です。以前の説教でキリストのまなざしは、キリストの全存在からいつもわたしたちに注がれるものなのだ、というお話をしました。キリストがわたしを見ていてくださっている。それがわたしたちの信仰の根底にあるものです。マリアは神が目に留めてくださっている喜びを歌うのです。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いなものというでしょう。」神が目を留め、キリストによって見つめられている、それは歴史を貫くまことの肯定のことです。わたしたちの存在の肯定なのです。キリストによって担われているという肯定なのです。だからいつの世の人も、幸いなものなのです。

 「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」偉大なこと、それはインマヌエルということです。神われらとともに、ということ。もちろんマリアはいまだわからないことだらけ。見てもいず、知らないことだらけ。しかし天使の言葉を聞き、神の子救い主がこの世界に降誕されることを知るのです。この世界は、イエス・キリストのおられる世界になるのです。この世界はキリストの十字架がたてられた世界になるのです。キリストの降誕は、神のインマヌエルの意志の実現です。マリアはわからないなりにも、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と讃美したのです。だから、今から後、いつの世の人も、わたしを幸いなものというでしょう」とうたうのです。

 「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」。マリアがここで歌う憐れみとは、神がわたしに目を留めてくださっている、ということと、偉大なこと・インマヌエルということです。この憐れみは、自分だけが受けるものではない。代々限りなく、いつまでも、与えられ続けるものだと歌うのです。クリスマスの恵みは、代々限りなく、いつまでも与えられ続ける。

 「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高くあげ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

 マリアがここで歌うのは、神がその腕で力を振るい働かれていく、神の支配のもとでは、自分こそがこの世の主人公だと思いあがっているものが倒され、自分の力に頼って生きている者、神抜きで自分の力を誇るものは引き下ろされる。自分を神の前で小さくするものは神によって活かされ、自分を神の前で大きくしようとするものは、追い返されるというのです。

 わたしたちはアドヴェントの時、いくつかの大事なことをあらためて受けとる必要があります。その一つはマリアから示されるものです。わたしたちは神の約束の言葉の中に立たされているということです。わたしたちはすでに、キリストの十字架も復活も知らされている。キリストの福音はこの出来事によってわたしたちすべての者は救われている、救いの完成は未だ将来の出来事だが、十字架と復活において約束されているのです。わたしたちは神の約束の救いの言葉の中に立たされている。だから、その言葉を聞き、受けとめ、自分の体をさしだして、自分を小さくして神の働きの用いられていくことを信じて、今を歩んでいく。それが今、わたしたちがこのアドヴェントのときに受けるべきことなのです。