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2021.12.12.アドヴェント第3主日礼拝説教

聖書:ヨハネの黙示録7章9-17節『涙がことごとく拭われる日』

菅原 力牧師

 聖書はその全体で一巻の書物です。そこには、実に多くの人々が、その時代時代の中で、神に御声に聞きながら編集編纂に携わってきた書物としての大きな大きなストーリーがあるのです。今その大きなストーリーを流れに沿ってざっくりと区分けするのなら、5つのブロックにまとめることができます。最初は創造です。二つ目は契約。そして三つめはキリスト、4つ目は教会、そして最後五つ目が完成、ということになります。もしわたしたちが聖書という書物を読みながら、この五つのブロックの一つのところだけを読み、後の部分をほとんど読まないとすれば、それは聖書のメッセージを全体の中から汲み取ることが難しい、というのは、よくわかるだろうと思います。まして聖書は最後が、完成、救いの完成について語るのですから、そこを読まない、ということがどれほどバランスを欠くことか。

 今日はアドヴェントの第3の主日です。アドヴェントのときは、キリストの降誕の出来事の恵みを心新たに思う時であり、今の区分けで言えば、最後五つ目の完成のときを思う時です。4つ目の教会の時を生きながら、3と5を思う。それはキリストの降誕と、再臨を仰ぎ見るということです。アドヴェントは到来という意味の言葉ですから、キリストの最初の到来を受けとめて、終わりの到来を仰ぎ見る、それがアドヴェントなのです。

 救いの完成の時、終末、再臨という言葉を聞くと、何か、ひじょうな異和感を覚えるという人もいるかもしれません。聖書の中でこの5の部分、完成の時を扱っているのはヨハネの黙示録なのですが、この黙示録が世界の終わりや死後の世界の預言のようにして断片的に引用されたり、文脈から離れて勝手に用いられてたりして、黙示録が誤解されていく。それは黙示録に限らず、聖書の言葉はしばしば誤解に取り囲まれている。しかし、残念なことには、キリスト者も黙示録を正確に読んでいる人が少ない。だから誤解が誤解を生んで、言わくいいがたいおそろしい書物のように読まれないままに扱われていく。黙示録がていねいに読まれていくこと、さらには聖書が一巻の書物としてそのストーリーが全体として受けとめられていくことを強く願うものです。

 さて、今朝はこの黙示録の7章からみ言葉に聞きたいと思います。

 黙示録はその冒頭にあるように「イエス・キリストの黙示」を書き記したものです。黙示というのは、覆われていたものが取られ、開示する、啓示するという意味の言葉ですが、イエス・キリストが開示する救いの完成の時、終末の到来ということです。今朝聞く7章は幕間劇(まくあいげき)のような構成になっているという人もいます。ここまで語られてきたことと、調子が変わり、ここで爽やかで、静かで落ち着いた空気が流れてくるからです。

 ここには、終末の完成の時の一つの光景が描かれているのです。

 「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と子羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、子羊とのものである。』」

 数えきれないほどの大群衆が、それもあらゆる国民、種族、異言語の人々が白い衣を着て、玉座の前、子羊の前に立っているのです。1節から8節を見ると、その数は14万4千人、とあって、それぞれの部族から1万2千人刻印を押されているとあります。12の部族から1万2千人、つまり12×12、完全数×完全数ということで、この数字そのものが無限を顕しているのです。その大群衆が救いは、神と子羊、つまりイエス・キリストとのものである、と声を上げ、ひれ伏し、神を礼拝しているのです。

 すなわち終末の完成の時とは、そこで皆が礼拝をささげている時なのです。黙示録を書いたヨハネという人物のことはわからないことが多いのですが、1世紀末のキリスト教の指導者でパトモス島に流刑になった人だったと言われています。パトモス島という小さな島で、おそらくは少人数の礼拝をまもっていた。流刑になったということ自体、ローマ帝国が世界を支配し、皇帝礼拝を強要する時代の中で、迫害や困難に直面していたことはまちがいない。死とも背中合わせだったでありましょう。しかしそのような中でヨハネは遥かに終末の救いの完成の時を仰ぎ見ていた。そしてそれは溢れるほどの多くの人々の天上での神礼拝の光景であり、それは今ここで自分たちが苦しみの中でわずかなものたちとまもっている礼拝と、遥か繋がるものだったのです。天と地を繋ぐものだったのです。

 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、代々限りなくわたしたちの神にありますように。アーメン。」ここに七つの言葉が書き記されています。主を礼拝する喜びが、神をほめたたえる喜びがこの七つの言葉に漲り溢れている。

 天井にいた長老の一人がこの白い衣を着た者たちは誰だ、と尋ねる。するとまたその長老なのか、別の長老なのか、こう応える。「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである。」ここでいう長老とは、天使のような存在なのかもしれません。神の前に集められた、キリストの前に集められた多くの人々のことを知っていてくださる。それはこの人たちはそれぞれ苦難を通ってきた、ということです。苦難というのは、わたしたちが普通に考える人生の困難という意味だけではない。ここでいう苦難とは罪の中をわたしたちが歩んできたことそれ自体が苦難なのです。その意味でわたしたちはみな、誰一人の例外もなく、罪の中を歩み、苦難の中を通ってきた、そして否応なく罪によって染まっているのです。自分ではもう拭えないほどに罪に染まっている。洗っても洗っても、拭っても拭ってもとても落ちることのない罪の色に染まっている。そのわたしたちがキリストの血によって贖われ、血で洗って白くしていただいたのです。不思議な表現ですが、そうとしか言いようがない。確かに地上に生きている今、わたしたちはキリストの十字架によって罪贖われ、赦されていることを知っています。しかし同時に、今なお、罪の中に生きている。それがわたしたちの救いの完成の時、白い衣を着ている、わたしという存在が罪から完全に解き放たれた姿になっているということなのです。

 「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」神とイエス・キリストの前に立って、神に仕えるとは、まさしく神礼拝している、ということで、礼拝している大群衆の上に幕屋を張る、ということはそこを神の住まいとしてくださるということです。なんという壮大な、豊かな光景なのか。神は集められた人々の罪をイエス・キリストにおいて担いきり、真白な衣の人としてくださり、その礼拝の場を神と人々との住まいとしてくださる、というのです。そして昼も夜も神に仕える、礼拝するというのです。

 「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。」飢え、渇きという自分のうちから来るものも、外から襲う危害も、もう何もない。わたしたちを困窮させるもの、苦しめるもの、もはや何もない、

 「玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、いのちの水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。」キリストが牧者となってくださり、いのちの水の泉へとわれらを導いてくださる。そこに充ちることと、神によって充たされることであふれているのです。そこでわたしたちが地上で流した涙がすべて神によって拭われるというのです。地上で流した涙を神が受けとめてくださり、すべて神の恵みの充ち満ちるものとしてくださるのです。ヨハネは神が涙をことごとく拭ってくださるその光景も仰ぎ見たのでしょう。ここを読んで詩編23篇を思い浮かべる方は少なくないでしょう。子羊であるイエス・キリストが、この人々の牧者となって、いのちの水の泉へと導く、というのですから。詩編23篇は、主の家に帰り、生涯、そこにとどまるであろう、と詠います。主の家とは、神が救いの完成の時にわたしたちを住まわせてくださるまさにこの幕屋のことでしょう。

 主の日ごと、わたしたちはここに集まって神を礼拝します。それは天上でやがて我々が経験するであろう礼拝の時を映し出しているのだ、と言ってもいい。毎日曜ごとに、わたしたちはここで礼拝しながら、天上での礼拝を遥かに仰ぎ見る、と言ってもいい。そこで、わたしたちは白い衣の人とされる。罪を洗い流し、罪の苦難を通ってきたわたしが罪から解き放たれていく。しかしそれだけではない。すべての飢え渇き、危害、困難からも解放されて、いのちの泉で満たされ、すべてが充ち満ちて、神を礼拝する喜びの中におかれているのです。神とキリストを礼拝する者として、神の家にあり続けるという救いの完成の時をヨハネは幻のうちに仰ぎ見ているのです。キリスト者は終末を仰ぎ見ます。救いの完成の時を仰ぎ見ます。それは現実を放棄するためでも、現実から逃避するためでもない。終末を仰ぎ見て、今を生きるためです。今ここで、罪にからめとられ、苦難の中を通っていても、さまざまな困難が襲ってきても、欠けや、自分の貧しさに嘆くことがあっても、今ここで神を礼拝し、救いの約束の中におかれている自分を受けとめ、終わりの日に向ってキリストの僕として今を大切に生きる。終わりの約束の時を仰ぎ見て、今を生きる。キリスト者は終末を仰ぎ見て、今を生きるのです。