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2021.12.19.降誕祭主日礼拝説教

聖書:ルカによる福音書2章8-20節『救い主がお生まれになった』

菅原 力牧師

 2021年のクリスマス礼拝の時を迎えました。今朝はこの喜びの礼拝をルカによる福音書のみ言葉に聞いて、神を礼拝し、クリスマスの喜びをこの身に受けたいと思います。

 さて、ルカによる福音書2章は1節から7節で、主イエス降誕の時代背景、ヨセフとマリアがベツレヘムに行った事情、そして出産という出来事がまことに簡潔に記されています。イエス・キリストの降誕という記述はマタイでもそうですが、ルカにおいても驚くほど簡潔です。その記述は、4つのことが記されています。一つは、マリアにとってその子は初めての子、二つはその子は布にくるまれたこと、三つは飼い葉おけに寝かせた、ということそして最後は、宿屋には彼らの場所がなかったということです。これがルカの記すキリスト降誕の記述です。そして8節から20節には羊飼いに天使が告げたキリスト降誕の言葉と、その言葉を聞いた羊飼いたちの応答が記されています。

 ベツレヘムからどれだけ離れた場所だったのか。羊飼いたちが夜、羊の群れの番をして野宿しているその場所に、主の天使が現れ、羊飼いたちに語りかけたのです。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

 「あなた方は布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるだろであろう。これがあなたがたへのしるしである。」羊飼いたちにとって、天使が現われたことは驚きでした。不思議な出来事です。しかしさらに驚きなのが、その天使が救い主がお生まれになった、と告げたことです。寝耳に水、いったい何のことか。けれど、天使はさらに不思議なことを語るのです。それは、この救い主は、布にくるまって、飼い葉おけの中に寝かされている乳飲み子だというのです。それらが救い主の「しるし」だというのです。

 このしるしという言葉、いろいろな意味のある言葉ですが、証拠とか、目印とか、兆しとか、合図とか。今たんに目印という意味で読むなら、とにかくその光景に行き会ったら、それが救い主の目印だよ、ということになります。初めて会う人との待ち合わせで、目印になる何かを持っている、というような意味で。しかし天使はそういう意味でここでしるしと言ったのでしょうか。証拠という意味でしるしを読むなら、飼い葉おけに寝かされている乳飲み子それが救い主の証拠だ、ということになり、それはそれで、不思議な天使の言葉です。布にくるまっていることや、飼い葉おけに寝かされていること、それらは貧しい家族のしるしにはなるにしても、救い主とどこでどうつながるのか。そもそも救い主はいきなり大人で生まれてきてもいいわけで、乳飲み子が救い主の証拠と言われても、いよいよよくわからない。

 しかし聖書が語ること、ここで天使が告げているしるしとは、目印であり証拠であり、合図であり、それらをみな含んだ広がりのある言葉なのではないか。布にくるまれていること、飼い葉おけに寝かされていること、何もできない小さな存在である乳飲み子であること、その全部が救い主誕生のしるしなのです。

 神があなた方のために、救い主をお与えくださり、事実人となって救い主がこの世界にお生まれになった、ということは、こういうことなのだ、と言っているのです。

 布にくるまれること、飼い葉おけに寝かされること、それはわたしたちが生まれた時、ある特定の両親のもとで、ある特定の場所で、特定の病院で生まれたということと同じことです。お金持ちの家庭に生まれたり、貧しい家庭に生まれてきたり、宿屋に泊まる場所なく止むを得ず飼い葉おけに寝かされたこと、それは地上で生きるということは、さまざまな条件、制限の中で生まれて生きるということに他ならない。初めからある条件下で生まれ、生き、そしてさまざまな制限の中で、歩んでいき、必ず死ぬということ、それが地上の生を受けるということなのです。神の御子が、皇帝アウグストゥスの時代にベツレヘムの町で、ヨセフとマリアという両親のもとで生まれる、それはこの地上の制限の中に、時間の中に、さまざまな制約下に、神の独り子が降誕されたということなのです。これはわたしたちには想像も及ばない、ウルトラなこと、とんでもないこと、凄まじいことなのです。しかしキリストはそれを身に受けて、やってこられた。

 神という永遠なるお方が、この時間の中に独り子を与え、有限の中に、生と死の中に、この地上を生きる者として、この地上で死ぬ者として、まさに制約を受けるものとしての生と死をお与えになり、キリストはこの地上にお生まれになったのです。

 

 もともと神の独り子とは、制限と無縁な存在です。無制限な存在です。しかしそれを引き受けていく。神は独り子が、この世界に生まれることを意志されたのです。なぜなのか。それは地上に住む人間が神と出会うためです。神などいないと嘯いている人間、自分の頭で考え、自分の知恵で作り上げた神と自分の好きな形で自分に気にいる時だけ神と付き合おうとする人間が、まことの神に出会い、神と共に、神と向き合って生きるためです。

 

 「すると突然、この天使に天の大群が加わり、神を讃美していった。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』」この天の大群の讃美は、天に栄光、地に平和との讃美なのですが、天と地の別々の讃美なのではなく、イエス・キリストがこの世界に生まれることによって、天と地が繋がれる、ということを讃美しているのです。イエス・キリストにおいて人が神と出会う時、天の栄光は、地に神と人との平和として具現していく、イエス・キリストにおいて神と人とが出会う時、そこで天と地は繋がるのです。天の大群は、その恵みを神に賛美しているのです。

 「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」羊飼いたちは天使たちが語ったその出来事を見に行くのです。見に行こうとして今ある場所から立ち上がっていくのです。そのしるしとしての出来事はこの世界のどこにでもある出来事です。乳飲み子がただ横になって寝ているだけ、という出来事なのです。しかし羊飼いたちは、それが救い主誕生のしるしだということに心を開いて、つまりそこにおいて働いておられる神を信じ仰ぎ見て、その出来事を訪ねあてるのです。

 しるしを見るとは、どういうことなのでしょう。例えば、キリストの十字架を見て、ある人々は、一人の男がローマ兵に逮捕され、神を冒涜した罪で十字架刑に処せられた、それだけのこと、よくある刑の執行、としか見ない。しかし十字架を見続ける中で、そこには我々の罪を負ってくださったキリストの愛があり、我々の罪を負って赦そうとされる贖いがあり、恵みがある、そう見るものとされていくのは、しるしとしての十字架を見る、ということになっていくのです。

 しるしとしての出来事を見る、それは羊飼いたちのように、その出来事を見ようとして立ち上がり、この自分の目でその出来事を見る、ということから始まるのです。わかるわからないで言うなら、羊飼いたちもまだよくはわからない。救い主が生まれたということがどういうことなのか、まだよくわからない。目に見えるのは、飼い葉おけに寝かされている布にくるまった乳飲み子だけ。しかし、ここに神のしるしを見るということは、この乳飲み子においてあらわされていく神の働きを信じ仰ぎ見ていくということです。神の働きがあるのだから、目をそらさず見続けていくということです。今この乳飲み子を見て、すべてがわかるわけではない。でも見続けていくのです。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」羊飼いたちは、このしるしとしての出来事を見ることが、大事なことなのだということを受けとめ始めていた。だからこそ、人々にこのことを告げたのです。ここに神の働きがある、と信じ仰ぎ見たからこそ、これを人々に宣べ伝えたのです。

 

 「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」不思議なのです。聞いた者は皆、とあります。布にくるまって飼い葉おけに寝かせてある乳飲み子が救い主であるということは。しかし、その最初のクリスマスの時に、しるしとしての出来事を受けとめて、わからないなりにも、神の働きを仰ぎ見て、この出来事を見ようとした羊飼いがいた。そしてルカは続けて19節でマリアがこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた、と報告しています。マリアもまた、このしるしとしての出来事を見て、心に納めた、それは保持するという言葉です。確実に保つという意味でこの出来事を記憶し、くり返し自分の中で見つめ続けたということです。

 最初のクリスマス。キリストの降誕はひそやかに、世界の片隅で、小さな小さな出来事として起こった。しかしこの出来事をしるしとしての出来事として見た人たちがいた。たとえ少数であっても、確かに見ようとした人々がいた。見続けようとした人々もいた。その人たちによって、クリスマスの出来事は語り継がれ、そこで働き給う神の業を見ようとする人々はさらに生まれていった。いまわたしたちも、そのしるしとしての出来事を見るひとりに加わりたい。その出来事を神の業として見続ける人の一人に加わりたい。そして羊飼いのようにそのことを人々に知らせる列に加わりたい。そして、見続ける中で、神がこの世界に与え給う真実の豊かさ、愛の大きさ、贖いの確かさ、恵みの深さを仰ぎ見るものとされていきたい。そして、羊飼いたちのように神をあがめ、讃美しながら生きる者となりたいと思うのです。