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マルコによる福音書連続講解説教

2022.1.2.降誕節第2主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書7章1-23節 『人を汚すもの』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所で主イエスが問題にしておられることはいったいどういうことなのでしょうか。ここには、手を洗う、身を清める、と言ったユダヤの清浄規定をめぐる論争や、神への供え物と両親を敬うという話。そして人を汚すものの話と、三つの話が連続しています。それで、ここを三回に分けて、それぞれについて語ることもできるでしょう。しかし、この三つは繋がっています。繋がっていて一つのことが語られている。それを受けとることが大事です。繋がっている一つのこと、それが主イエスが問題にしておられることであり、それが主が弟子たちと、わたしたちに語ろうとしておられることなのでしょう。

 今日の聖書箇所を何度も読んでみます。するといくつかのことに気づいていきます。まず、何度か出てくる言葉を見ていくと、「汚れた」「汚す」という言葉が繰り返されている。さらに「言い伝え」が「昔の人の言い伝え」「人間の言い伝え」というふうにいろいろな形で出てきていることに気づくのです。

 これまで皆さんも折々に聞いてこられたことと思いますが、ユダヤの人の生活においては、モーセ律法と呼ばれる十戒を中心とする掟のほかに昔の人の言い伝えと呼ばれる口伝伝承による掟がたくさんありました。口伝伝承ですから文章化され、成文化されることはなかったのですが、大変強い拘束力を持つものとして、それはありました。今日の聖書箇所に出てくる三つのことは全部、この口伝伝承に関わることなのです。

 最初に出てくる清浄規定、これは衛生上の事柄ではなく、あくまでも宗教的な汚れを清めるための行為のことです。次に出てくるのは、父と母を敬えと、モーセの戒め、つまり十戒にあるが、あなたに差し上げるべきはずのものはコルバン、神への献げものですと言えば、何もしなくても済む、といういささか極端な事例、これも口伝伝承に関わること。そして三つめは、最初の話に戻って、汚れる汚れるといって、手を洗うだの、身を清めるだの躍起になっているが、本当に人間を汚すのは、人間のうちから出るものなのだ、という話、これも清浄規定という口伝伝承に対する主の言葉です。

 つまり話を分かりやすくするためにシンプルに言うなら、ここでは神の戒め、神のことばと、人間の言い伝えとが、キリストによって明確に区別されているのです。しかもその区別だけでなく、人間の言い伝えを守ることに躍起になって、神の戒め、神のことばに聞くことがないがしろにされている、と言っているのです。

 3節と5節に「昔の人の言い伝え」という言葉が出てきます。これは直訳すると長老たちの伝承、という言葉です。これは「昔の人の言い伝え」がたんなる古臭い言い伝えというのではなく、ユダヤの人々が尊敬の念を持って受け止めていた伝承なのだということなのです。もともと神の言葉を守るためになした解釈や言い伝えが拘束力を持って行ったということです。神のことばが語られる。その言葉を解釈し、生活の中で、その言葉を受けとめるために規定をつくっていく。それはある種の必然性を持っていた、と思います。その規定は現実の生活に密着したものだけに、具体的で、しばしば日常を規定するものでした。だから、その規定を守ることに躍起になって、しばしば神のことばを聞く、というもともとのことよりも優先され、その規定の方が重要視される、ということがあったのでしょう。

 ここを読んでいて、全体としてピンとこないと思われた方もおられるだろうと思います。そもそも「昔の人の言い伝え」、ということが具体的によくわからない。現代に生きるわたしたちは、「昔の人の言い伝え」などとは無縁に生きている、と感じている人も少なくない。しかし、実際にはわたしたちもまたそうした口伝伝承のような取り囲まれて生きているのです。例えば、教会には、その教会なりのしきたりや、決め事というものが少なくない。礼拝に関する取り決め、進め方、所作、細かなことを言い出せば、実にいろいろ決め事がある。それがその教会の中では、まさに口伝伝承のように、働いている、ということはよくあることです。

 さらに、口伝伝承というのは、そうした日常の所作だけでなく、キリスト者「らしさ」というものの観念形成にも深くかかわっています。例えば、明治のキリスト者は「禁酒禁煙」ということをとても重んじました。クリスチャンの代名詞のようにも一時言われました。それは医学的な、健康上の理由からではなく、信仰者は、かくあるべしという文脈で語られた。しかも聖書がそれを禁じているというわけでもないのに。もちろん、聖書的な根拠が全くない、というわけではない。しかしそれが聖書が語ろうとしていた根本的なことか、と言えば大いに疑問なのです。けれど「禁酒禁煙」は一時期強い口伝伝承として働いた。禁酒禁煙はそれ自体取り上げれば悪いことではない。主体的にかかわる人がいるのは当然ですし、自由でしょう。しかし聖書がそのことをキリスト者の生き方の根本に据えているかどうか、神はどのように語っておられるのか、キリストはどう語っておられるのか、そのことに聞くことよりも、口伝伝承が幅を利かせていく、ということが歴史の中でしばしば起こっていくのです。だから今日の聖書箇所は、わたしたちにとって、無縁どころか、実はとても身近な、わたし自身の課題でもあるのです。

 最初に出てきた「清い」「清さ」ということも、旧約聖書で「清い」ことについて語られる。するとその清いものとなるため、清さを守るための所作や、規定が生まれていく。手を洗うこともその一つで、「市場から帰ったとき」とは異邦人や不浄なものと出会う可能性があった場合、これこれの洗いを行いなさい、という規定になっていくのです。

 その際、そもそも清さとは何か、神はどうお語りになり、何を問題にしておられるのか、ということはさておき、清める所作に心と体が向いていく。神の言葉よりも口伝伝承を優先しているのです。それだけでなく、その所作をしない者を裁いていくことも起こる。キリストが語られた二つ目の話、父と母を敬え、という十戒の戒めも、神への献げものだということで何もしないで済む、という話は分かりにくい話のように聞こえますが、言われていることは、神の言葉よりも口伝伝承を優先している、ということです。そして最後の話は、そもそも何が汚れを生み出しているのか。汚れとは何か、ということに主が立ち戻っておられる、ということです。

 主がここで言われているのは外からのものが人を汚すのではない。人から出てくるものこそ人を汚す、ということです。ここで挙げられている言葉の一つ一つを自分の身に照らして考えてみる必要があります。キリストは、これらの悪がわたしたちの中から出てきて人を汚すというのです。そうであるなら、この汚れはわたしたちの努力や心がけで何とかなるものではない。まして、手を洗ったり、身を清めたり程度のこと解決することではないのです。

 自分の力ではどうにもならない、自分の汚れ。主イエス・キリストはわたしたちの汚れ、悪、そして罪のためにこの世界にお越しくださった。そのキリストの恵みを、受け取ることなくして、口伝伝承を守ることに躍起になっている人間の姿を主は、批判されたのです。

 キリストは口伝伝承をすべて否定したわけではない。しかし、口伝伝承を守ることに心奪われて、肝心の神のみ言葉に聞くことが妨げられているのなら、それは本末転倒も甚だしい。教会に来て、神のことばに聞かずに、人の言葉にばかり聞く、ということも起こります。大事なことは、神のことばに聞くこと、聞き続けることです。口伝伝承はそれとして識別して、是々非々をその都度神のみ言葉から考えればいい。

 わたしたちに求められているのは、神のことばに聞くこと、キリストの言葉に聞くことです。わからないことや、どう受け止めていいのか戸惑うのなら、そのままに思い巡らし、聞き続けていけばいい。神のみ言葉に聞き続けていこうとする姿勢そのものが大事なのです。そこで、日常のこと、この世界のことを見つめ考えていく、それが大事なのです。

 プールサイドで自分はプールはいらないで、泳ぐ人をずっと見ている人がいます。信仰はそうではない。自分の体で、プールに入り、どんな稚拙でもいいから、自分で泳いでいく必要があるのです。信仰に傍観者はない。自分で水の中に入り泳ぎ始める。泳ぐというのは自分だけでできることではない。水の力があって初めて泳げるように、信仰も自分の体で泳いでいく。さまざまな抵抗が出てくるかもしれない。しかし、その中で、聖霊の力を受けて、進んでいく。その醍醐味を自分で知らなくてはならない。そしてみ言葉によって活かされる喜びと自由と、豊かさを経験していくよう、わたしたちは招かれているのです。