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マルコによる福音書連続講解説教

2022.1.16.降誕節第4主日礼拝説教

マルコによる福音書7章31-37節「 聞けるようになる 」

菅原 力牧師

 主イエスは休息をとっておられたティルスの地方からさらに北のシドンまでいかれ、ガリラヤ、デカポリスの地域に戻ってこられました。

 すると人々は主の帰ってこられるのを待ち受けていたかのように、ある一人の人を御許に連れてきました。その人は耳が聞こえず、舌の回らない人でした。耳が聞こえないから自分の発音が聞けず、結果として話すことが困難だったのです。医学が発達した現代においても、難聴や耳が聞こえない人の治療はとても難しい分野です。まして聖書の時代、耳が聞こえない人々は、なす術がない、という意味でも苦しみを背負わされてきたでしょう。

 人々はこの人を連れてきて、「その上に手を置いてくださるようにと願った」のです。手を置くことを願う、ここを読んで不思議に思った方はいるでしょうか。耳の聞こえない人に手を置く、それでどうなるんだ、と。手を置くということは、古代の人々にとってとても意味深いことで、大切なことでした。例えば、ユダヤ教の祭司の右手は、神からの祝福や救いを仲介するもので、手を置く行為を通して、置かれた者は神からの力を受けていく、と信じていました。病気の治療においても手を置くことで、力が働くと受け取っていたのです。

 人々は、主イエスの噂や評判を聞き及んで、この人に手を置いてほしい、そう願って連れてきたのです。すると、主は「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた」。不思議なしぐさと思う方がいるかもしれません。しかし、触診というのは、患部に触れるということです。子どもが病気になったとき、親は自然に子どもの体をさすったり、頭をなでたり、痛みの部分をさすったり、手を握りしめたりします。それはもちろん医療行為ではない。しかしもっと本質的な意味での治癒行為なのかもしれません。子どもの時、病気の時、母がそばにいて、手をさすってくれた、という記憶をお持ちの方は少なくないと思います。それはまさに癒しの時です。

 ここで主イエスがなさっておられる行為をじっと見つめると、相手の病患の奥深くに直接触れていく主イエスの姿があります。それはその人の抱えている痛み、苦しみに直接触れていこうとされる主イエスの姿、と言ってもいいものです。

 主イエスはしかし、たんに治癒行為をここでしようとしておられるのではない。それは次の主イエスの姿が物語っているのです。「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向って『エッファタ』と言われた。」

 天を仰ぐというのは、神に祈るということです。深く息をつきとは、呻きです。人間が苦しみや困難に出会って立ち往生するような時に発する呻きです。耳が聞こえずうまく話せない、という重荷を抱えた、そして今も抱え込んでいるその人に向き合って、その人と共に神を仰ぐのです。その人のからだに触れながら、深い呻きを発しながら、その人と神を仰ぐのです。そして「エッファタ」と言われた。それはアラム語の言葉で、開けという意味だ、とマルコは書いています。これは呪術の言葉ではない。そうではなく、主イエスからの呼びかけです。その人を閉じ込めているものに向って、開け、開けよ(あけよ)と呼びかけられたのです。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった。」

 今耳が聞こえる人にとって、この出来事は縁遠い出来事なのでしょうか。そして今耳が聞こえない聴覚障碍者にとっても、この出来事は自分の身には起こらなかったし、起こらないから、縁遠い話だ、ということなのでしょうか。

 もう一度この出来事を丁寧に読んでみます。主イエスは天を仰いで、深いうめき声をあげて神に祈られ、「開け」と言われました。深い呻きの中で祈られたということは、耳が聞こえない人の現実にキリストご自身が打ちのめされていた、ということでもあります。開けと言われたということは、何か閉ざされているからです。その人が何かに閉ざされていたり、何かの中に閉じ込められていたりするからこそ、「開け」と主は言われたのです。耳が聞こえないということで、この人は世界の扉が自分には閉められていて、世界からはじき出されている、閉め出されている、と受け取らされてきた。他者とコミュニケーションが難しく、孤立化させられることが日常だったかもしれない。その閉ざされた状況、封鎖されたような現実に対して、キリストは呻いておられるのです。しかしキリストの呻きはこの人の現実に対するものであると同時に、わたしたち人間が抱え込んでいる現実に対する呻きでもあったのではないか。

 わたしたちは何に閉ざされているのか。どこに封鎖されているのか。そういう実感はあまりないかもしれない。閉ざされている、とは日常の中で感じていないかもしれない。まして封鎖など、と思われるかもしれない。

 しかし、イエス・キリストが十字架にかかられて、わたしたちの罪を担い、その罪を負って十字架で死に、罪の贖いを与えてくださったのは、わたしたちが自分たちの罪で神との関係を閉じてしまったからなのです。キリストが自分の命までさしだしてわたしたちに与えようとしたのは、罪の赦しと共に、神と共に生きるいのち、道ですよ。その道を自分たちで封鎖してしまったのです。しかもそのことに気づいていない。別に閉じてもいなければ、封鎖なんてそんな大げさな言葉を使うようなことなど、何もしていない、と思っているのです。

 しかし人間はくり返し、閉じようとしている。神との関係を自分の方から閉じてしまう、閉じ込もうとしてしまう。神抜きで生きる世界に自分を閉じ込める。神からご覧になって、人間の姿は自分を神抜きの世界に閉じ込めていく姿であって、それこそが罪の本性だった。

 今ここでキリストが一人の耳の聞こえない人と向き合い、神に呻きをもって祈られた。その呻きは十字架につながる呻きだった。人間は自分を閉じ込めていく。

 神によって創造され、神によって愛されていながらも、そのことから目をそらし、自分の領域に閉じこもろうとする。あたかも人間だけで生きることが自由だと思い込み、それが最も人間らしい、そういう領域に自分を閉じ込めていくのです。神に愛され、神の恵みを受け、神の赦しの中で、神と向き合い、神との関係の中で生きる道を封鎖してしまう。

 キリストは「開け」と言われた。それはまさに、人間が閉じようとしている、閉じ込もうとしてしまう、それに対する「開け」なのです。しかしそれは、自分の力で「開けられる」ものではなく、神の力によるもの。さらに言えば、キリストの十字架と復活による神の力なくしては開けられないものなのです。

 今ここでキリストは一人の人の耳を開く。確かにそれは奇跡であり、神の働き給う業です。しかし開かれた耳で人は何を聞くのか。

 キリストの呻きは、神のみ言葉に聞くことを自分から閉じてしまうこと、み言葉に聞いて生きることを人が閉じてしまうこと、神との道を自分から閉じてしまうことに対する呻きでもあったのです。そうであれば、神による奇跡は、耳が開かれ、その開かれた耳で、神のみ言葉に聞いて生きる、そこへと人を導いていく奇跡において、奇跡として成就するものなのです。

 

 今ここで、耳開かれたこの一人の人に対して、人々は口々に「この方のなさったことは素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにしてくださる」そう言ってほめたたえた。確かにそうなのです。だがそれは奇跡の一端だけを見ているのです。いやはっきり言えば、キリストの奇跡が何を指し示すしるしなのか、そのしるしを見ていない。キリストがここで、人々に誰にもこのことを話してはならない、と言われたのも、奇跡だけが語られるのではなく、奇跡が指し示すものこそ、伝わっていってほしいという思いがあってのことだったのでしょう。

 今この人は、キリストによって耳開かれ、はっきり話すことができるようになった。そこで何を聞くのか。何を語るのか。開けというキリストの言葉はここから始まる奇跡を指さしているのではないか。

 わたしたちはこの人生において何を聞くのか。自分がどこに閉じこもっていて、どこを閉じようとしているのか。その自分に対してキリストが深い呻きのうちに神に祈り、「開けよ」と呼びかけてくださる、その呼びかけは聞こえているのか。そして十字架において、復活において、キリストが開いてくださっているいのちの道があることを信仰において受けとめているのか。そしてそのわたしに語りかけられている神の御声に、聞いているか。静かに深く、招かれていることに気づいていきたいと思うのです。そして自分の聞いた御声をはっきりと話すことができるものになっていきたいと思うのです。