-->

マルコによる福音書連続講解説教

2022.2.13.降誕節第8主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書8章22-26節 『 見えるようになる 』

菅原 力牧師

 主イエスと弟子たちの一行がベトサイダという町に着いた時のことです。人々が一人の盲人を主イエスのもとに連れてきました。

 マルコ福音書の7章には同じように人々が耳の聞こえない人を主イエスのもとに連れてきたことが報告されていました。

 人々は連れてきた盲人に、触れていただきたいと願い出たのです。すると主イエスは、「盲人の手をとって、村の外に連れ出し」ました。これもまた7章の時の同じです。耳の聞こえない人、目の見えない人のことを案じて、主イエスのもとに連れてきた人、その人たちから離れて、つまり主イエスとその人だけになって、向かい合った、ということです。主イエスと差し向いの関係に入ると言ってもいい。そこで主は、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて「何か見えるか」とお尋ねになりました。耳の聞こえない人の時にも、主は直接その人に触れて、語りかけられた。ここでも主はその人に触れて、そして、語りかけてくださる。

 するとその人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのがわかります」と答えたのです。まだいろいろなものがぼんやりと見えている、という様子が伝わってきます。人なのか、木なのか、靄(もや)がかかったような見え方です。

 すると主イエスは、もう一度両手をその人の目にあて触れられると、すべてのものがよく見えてきて、なんでもはっきり見えるようになった、というのです。

 主イエスのなさった癒しの奇跡。不思議な出来事なのですが、主イエスはここでわたしたちに何を示され、語られたのでしょうか。

 もう一度ていねいにこの出来事を見ていきます。

 人々が連れてきたこの目の見えない人を主は村の外に連れ出してくださいました。しかもそれは、主が手をとってそうされたことでした。主が手をとって、この目の見えない人を癒しの場所まで、目が見えるようになるその場にまで、連れていってくださったというのです。わたしたちはどこかで、救われるのは、神の恵みによるのだけれど、その恵みを受けるためには、自分の努力が必要だと思っています。確かに、わたしたちの求道の志がどうでもいいわけではないし、神のみ心を尋ね求める真摯な姿勢は大事です。しかし、さらに大事なことは、その求道の歩みも、神のみ心を尋ねる歩みも、すべて主が手をとってくださる歩みなのだということを忘れてはならないということです。主が手をとって、主が導いてくださる歩みなのです。聖霊の導きと言っていい。

 そして主はわたしたち一人一人に語りかけてくださいます。「何か見えるか」と。何が見えているのか、と尋ねてくださっているのです。

 わたしには何が見えているのでしょうか。わたしは何を見ているのでしょうか。7章で、耳の聞こえない人と主イエスとの出会いが語られていました。そしてここでは目の見えない人との出会い。そして、間の18節で主が言われたのは、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」という主イエスの言葉でした。何が見えているのか。何を見ているのか。何が聞こえているのか。何を聞こうとしているのか。

 人間の五感の中でも、「聞く」、と「見る」とは、わたしたちの信仰に特に深くかかわっています。見るとはどういうことなのでしょう。言うまでもなく、「見る」ということは、視覚的に対象を確認することです。空が青いとか、大きな建物がそこにあるとか。しかし見るとはそれだけでない。様子や感覚を把握するという意味もあります。湯加減を見る、見損なう、見抜く、見破る。相手を甘く見た。さらに「見る」には知る、わかる、という意味もあります。彼の底力を見た、とか様子を見る、とか。裾野も、奥行きも深い言葉です。

 かつて主イエスが故郷に帰ったとき、故郷の人々は「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と言い、イエスに躓いた、と福音書に記されています。故郷に帰ってきて、神のことば、福音を宣べ伝える主イエスを見て、躓いたのです。

 十字架にかかった主イエスを見て、「他人は救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と祭司長たちは叫んだのです。

 見て、躓いたのです。十字架にかかり無力なまま死んでいく姿を見て、救い主などであるはずがない、と判断したのです。故郷の人々も、祭司長たちも、何も見ていないのではない。見ているのです。見たからこそ判断したのです。

 たしかに、故郷の人たちも、祭司長たちも目の前にある光景を見たのです。しかし、見ることで、見たからこそ、そこで見ることを終わらせてしまったと言えるのです。故郷の人々は、マリアの息子で、ヨセフの兄弟であるイエスを見た。祭司長たちは、十字架で無力なままに苦しむ主イエスを見た。確かにその光景が見えたのです。

 しかし、聖書は、このマリアの息子にすぎず、ヨセフの兄弟にすぎないイエスが、神の独り子主イエス・キリストであることを語っているのです。

 十字架にかかり、無力なままに死んでいく主イエスが、まさにその十字架において、わたしたちの弱さを負い、罪を負い、罪の罰としての死を負ってくださっていることを聖書は語っているのです。

 それはどういうことかと言えば、わたしたちの肉眼で見える光景、そこで私たちはいろいろな理解、判断をしているのですが、そこにおいて、そのわたしたちが見ているものの中で、神が見せてくださるものがあるということなのではないでしょうか。

 十字架の光景を見て、人々は憐れだと思い、失望し、嘲ったのです。見て判断した。しかしその光景こそまさしく、神の独り子がわたしたちの罪を背負って、死んでいく、贖いのための苦しみであり、人間に代わって罰としての死を死んでいく光景であり、まさに神が働いてくださっている場なのだ、と聖書は語る。それは、わたしたちが見ているものの光景において、神が見せてくださる光景があるということです。それは同じ出来事において、わたしたちが見るもの、神が見せてくださるものの、二重性があるということなのです。

 これを受けとめる必要があるのです。

 マルコ福音書が伝える盲人の目が開かれていくこの出来事、何が見えるか、と主に尋ねられて、人が見えます、木のようですが、歩いているのがわかります、と答えた。それはこれまで目が見えなかった人が見たものなのです。確かに人が見えた、木が見えたのです。しかしそれで終わりなのではない。主がもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきて、なんでもはっきり見えるようになった、というのです。なんでもはっきり見えるようになって、この人に見えてきたものは何なのでしょうか。今度は「何か見えるか」とは尋ねられてはいません。見えているものははっきりしています。イエス・キリストです。キリストが自分の目の前に立っていて下さるのです。それは自分の視力の回復によって見たものであると同時に、神によって見せていただいたものなのです。あなたは神の働きの中にある、そのことをこの人は見たのです。

 わたしたちは、何を見ているのか、何を見ようとしているのか。

 わたしが今現在見ている現実がある。困難なことがあったり、思わぬことに直面し、むずかしさを抱えたり、見ているものがある。

 そのわたしたちが見ている現実、そんなものはどうでもいい、いずれは消えてなくなる、永遠から見れば、一時のことであってどうでもいいことだ、とキリストは言われているのではない。神の恵みを思えば小さなことだ、と払いのけられていくのでもない。わたしが見ている現実、見ているもの、それは確かにわたしと深く関係しているのです。けれど、わたしたちが見ているその現実の中で、神が見せてくださる光景があるのです。それを今敢えて端的に言えば、イエス・キリストの十字架と復活、それが神がわたしたちに見せてくださるものなのです。

 わたしたちが今見ているその光景の中で、神はそこにイエス・キリストの十字架があることを、キリストの苦しみが、贖いが、赦しが、わたしを負う姿が、そして死からの復活のいのちが、神がわたしたちに見せてくださっている光景としてあるのです。

 今あなたが見ているその光景の中で、キリストが生きて働き、十字架を担ってくださっている。神が復活のいのちを与えてくださっている、そのことを見せてくださっているのです。それを見るように招かれている。それを見ることこそがなんでもはっきり見えるようになるということなのだ、そうキリストは語りかけておられるのです。

 キリストは、わたしに向って、「何か見えるか」と尋ねられる。わたしは今見ているものを答える。キリストはさらにわたしに何が見えるか、何を見るか、というだけでなく、これを見なさい、と語りかけてくださる。それを見たい。それを見る目をください。心をください。それを見続ける信仰をください、そうやって応えていきたい。