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マルコによる福音書連続講解説教

2022.2.20.降誕節第9主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書8章27-33節『 ペトロの告白 』

菅原 力牧師

 マルコによる福音書の全体の長さ、分量から言うと、今日の聖書箇所はちょうど真ん中にあたります。しかし、それはただ量的に半分、というだけのことではないのです。この箇所を境に、マルコによる福音書は新たな展開を迎えていきます。大きな流れで言えば、ここまでのところ、主イエスのガリラヤ地方での福音伝道をなしてこられました。そしてここからはエルサレムに向かわれる。その途上での出来事が記されていく。エルサレムに向かうということは、十字架に向かうということ。受難、死、復活に向かうということです。そういう大きな分岐点に今日の聖書箇所は位置しているのです。

 そこで、主イエスはこれまでのガリラヤでの伝道を振り返りながら、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねられたのです。

 すると弟子たちは、すぐに答えたのです。「洗礼者ヨハネだと言って言います」ほかに、「エリヤだ」という人も、「預言者の一人だ」という人もいます。弟子たちはユダヤの人々の中で主イエスがどう見られているか、よく知っていました。

 そこで主イエスは弟子たちに尋ねるのです。「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」。

 主は、ガリラヤ伝道からエルサレムに向かうその時に、弟子たちに、問いかけられた。それはこれまで一緒に歩み、主の傍らにあった者たちに問いかけられたといでした。はじめの問いは、人々はわたしを何者だと言っているか、でした。そして次の問いかけは、あなた方は、つまりあなたは、わたしを何者だと言うのか、という問いかけでした。

 これまで共に歩み、福音の言葉にまじかで聞き、主イエスの業と行動を見てきた者たちに対する、これは大事な問いかけです。

 この問いかけは、弟子たちだけでない、主イエスの御声に聞き、御業を見つめてきた者が、あるとき、必ず、主から問いかけられる、大事な問いかけなのです。

 マルコによる福音書を読み進んできたわたしたちに対して、その問いかけが与えられるのです。その問いの前に立つということが、主が求めておられること、聖書が求めていることなのです。その際、まず主は人々はどうなのか、と尋ねられます。あの人、この人のイエスに対する評価や考えがあるでしょう。わたしたちも主イエスと言う方についてのいろいろな評価は聞いているのです。優れた先達として、賢人として、愛の人として、イエスを尊敬する、という人もいます。聖書を古典の一つとして、優れた宗教者としてその生き方に学ぶという人も少なくない。そういう人たちがいることを全然知らないわけではない。しかし、あなたは主イエスを何者だというのか、が問われているのです。聖書を読み進んでいけば、必ず、この問いかけにわたしは出会うのです。この問いに出会うために聖書を読む、と言ってもいい。

 

 弟子たちはここで、主の問いかけの前に立ったのです。

 弟子の中の筆頭格と言っていいペトロが応えました。「あなたは、メシアです」「あなたこそキリストです」「救い主」です、とペトロは応えたのです。ヨハネのようすぐれた宗教者でもなく、エリヤのような預言者でもない。救い主だ、と答えたのです。ペトロはここまで主イエスと共に歩む中で、この方は何者なのだ、ということを彼なりに思い巡らしてきたのでしょう。ペトロはペトロとして判断して、キリスト告白したのです。ところが、主イエスはそのペトロに対して、ご自分のことは誰にも話さないようにと戒められた。どうしてなのでしょうか。ふつうに考えれば、ペトロのキリスト告白こそ、多くの人に伝えられていく必要があるのではないか、とも思えるのですから。

 一方で主イエスは「人の子は(人の子という主イエスがご自分のことを指す呼称なのですが)必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日後に復活する」ということを教え始められました。この教え始められたという言葉は、新しいことを始められた、新しい歩みの始まりが強調されている言葉です。ご自分の受難予告を語り始められた、それもはっきりと語り始められた。このはっきりという訳語は元の意味はあからさまにということです。ということは主は、ペトロのキリスト告白に対しては、誰にも話さないようにといい、ご自分が十字架に向かう苦しみを受けていくのだということはあからさまに語られたということです。このコントラストを記憶してください。

 その時です。キリスト告白したばかりのペトロがイエスをわきにお連れして、諫め始めたというのです。諫めた、という言葉は叱った、というのが元の言葉で、ペトロは主イエスを叱った、というのです。ペトロの思いははっきりしています。救い主ともあろう方が、苦しみを受けて死んでいくなどというようなことは口が裂けても言うもんじゃあない、ということでしょう。自分が思い描く救い主と、苦しみを受けて殺されていく、ということが全く結びつかなかった、ということです。それはペトロだけの問題ではない。おそらく多くの人々が感じるところのものです。しかしそれにしてもペトロは主イエスを叱ったのです。

 そしてそのペトロに対して、主はペトロ言っていることはまさにサタンの仕業だと叱ったのです。

 今回この説教のためにこの聖書箇所を読み直していて、あらためて気づかされたことがいくつかありました。それと共に、今日の聖書箇所がマルコ福音書全体の中で、極めて重要な位置を占めていることに眼開かれました。

 あらためて気づかされたことの一つは、直前の聖書箇所とのつながりということです。主イエスのもとに連れてこられた盲人の目が見えるようになっていく出来事です。

 ペトロがキリスト告白したこと、それはペトロなりの信仰の告白だった。しかし主の受難予告がなされると、その告白がいかに自分本位な、自分の判断にだけ基づく告白だったか、ということが明らかになった。わたしたちの罪のために十字架にかかっていかれる、わたしたちのために死を負っていかれる、そして甦ってくださる、それこそが主がわれわれに与えてくださる救い、であるにもかかわらずペトロはそれがわからずにキリスト告白していたのですから。

 確かにペトロの告白は、未熟で、キリストがどのようなお方であるのか、受け取れていない、そういう告白だったことは事実です。しかしここにはもう少し奥行きがあるのではないか。それは、あの盲人がはじめ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのがわかります」といったときのようなのです。見え始めてはいるのだけれど、靄がかかったような状態なのです。つまりはっきりとは見えていないのです。ペトロの告白は確かに貧しいものです。イエス・キリストというお方がどのような救い主であるのか、わたしたちをどのような救いへと招いておられるのか、靄がかかったようにしかわかっていない。だからこんな告白ではダメなんだ、という人がいてもやむを得ないのかもしれない。

 しかしペトロはキリストに手をとっていただき、あの盲人と同じように、目が見え始めているのです。よくわかっていないと言われればその通りなのだけれど、見え始めている。

 しかしキリストがもう一度両手をその目に当てていただくことなしには、はっきりと見えるようにはならなかったように、ペトロの告白も、キリストに導かれることなしには、真の告白に導かれることはない、といえるのです。わたしたちの信仰は、自分で信じていると思い込んでいる誤解から始まるかもしれない。その信仰の内容も、自分勝手で、思い込みの多い、わがままな信仰であることも少なくない。しかしだからといって、それが全否定されるのではない。何かが少しずつ見え始めている、そのとば口に立っている。そしてそこで本当に打ち砕かれていかなくてはならない。主イエスによってペトロがサタンよ引き下がれ、と言われたように、わたしの中の自分本位な信仰をキリストによって打ち砕いていただかなくてはならない。しかしそれでも、見え始めている、ということは大事なことなのです。

 もう一つのこと。この箇所がマルコ福音書全体の中で持つ重要な位置ということなのですが、それは、なぜキリスト告白、信仰告白が大事なのか、ということにつながることです。最初に申し上げたように、み言葉に聞く者、聖書を通して神のことばに聞きたいと願うものは、主イエスご自身から「あなたはわたしを何者だというのか」と問いかけられる。つまり主イエスが求めておられるのです。なぜなら、神はわたしたちに信仰を求めておられるからです。神がわたしを愛し、わたしにキリストにおける救いを与えてくださっておられるからこそ、その救いに対する応答、信じてその救いを受け入れること「告白」を求めておられる。そしてわたしたちが神の愛に応答して神を愛すること、キリストがわたしたちの救いのために十字架にかかってくださったことに応えて、わたしがキリストに従う者として生きること、そのことを求めておられるのです。そのことこそが、福音書がわたしたちに告げる一つの大事なメッセージなのです。

 マルコはそのことを文書の真中に据えているのです。ペトロの告白は、未熟であり、靄や霧に深く閉ざされているようによく見えていない告白でした。事実それが十字架の直前で、逃げ出してしまうペトロの姿につながっています。しかし、そのような者にすぎないわたしたちに主は「何ものだというのか」、と問いかけられ、信仰の応答を求められる。そしてさらに手をとって、わたしたちを導いてくださる。救いとはどのようなことなのか、わたしたちを招き導き、はっきりと見えるようにしてくださるのです。わたしたちが十字架に救いに立って信仰によって生きるようになることを求めておられる主がここにおられるのです。それこそがマルコ福音書の真ん中にあるものなのです。