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マルコによる福音書連続講解説教

2022.2.27.降誕節第10主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書8章38-9章1節『 自分の十字架を負って 』

菅原 力牧師

 今日の主イエスの言葉は、ペトロのキリスト告白、それに続く主の受難予告、「わたしは苦しみを受ける」、そしてペトロのそれに対する諫み、さらにそれに対する主の言葉に続くものです。

 その際、主イエスは弟子たちだけでなく、群衆も呼び寄せて、こう語ったのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。キリストの招きに応えて従うものは、自分を捨てて、キリストに従うのだ、言われている。しかも自分を捨てて、自分の十字架を負って従うのだと言われる。

 わたしたちが正直言ってまず躓くのは、「自分を捨て」という言葉です。そんなことできるのか、と思ってしまいます。自分を神のため、また他者のために、献げて、例えば、修道院に入るといったイメージはこの言葉には纏わりついているのです。ここで捨てると訳されている言葉は、否定する、拒む、という意味の言葉です。自分を拒む、そのことを頭に置きながら、読み進んでいきたいのです。

 主イエスはここで、わたしに従いたい者は、と語りかけられています。キリストに従う、ということがここでの中心です。ペトロは「あなたこそ救い主です」と告白した。この方こそわたしの救い主だ、という告白ですが、主イエスこそ救い主だという告白は、たんに自分の意見や認識を表現するだけでなく、だからわたしはこの救い主に従っていきます、と続いていく言葉なのです。

 しかしペトロの告白するキリストは、主イエスが示されたものではなく、自分が考えた、自分のイメージの中の救い主でした。だからキリストが、わたしは苦しみを受け、排斥されていくのだ、そしてそれがわたしが与える救いの内実なのだ、ということを告げた時、それはどういうことですか、と尋ねるのでもなく、どうして苦しみを受けるのですか、でもなく、ペトロは諫め、叱った、のでした。そのペトロに対して、「あなたは神のことを思わないで、人間のことを思っている」、と主は言われた。

 ペトロがどのような救いのイメージを持っていたのか、それを今特定することはできませんが、例えば、神の国を実現する天上と地上を繋ぐ王のようなイメージ、政治的にも、宗教的にも力ある仕方で、人々を導き指導する、そのために奇跡を次々とおこし、人心をつかんでいくようなそういうものだったとします。

 そのイメージはペトロの中で、大きな期待となって膨らんでいたかもしれません。ところが突然、キリストは受難の主、苦しみを受けるキリストを語り始めた。その時に、ペトロが主を諫めたというのは、主イエスが語る救い主を退けようとしたということです。自分の持てるイメージに固執するあまり、キリストの語る受難の主を退けようとしている。それを主は「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのです。とすれば、キリストに従う、ということは、自分の中にどんな救いのイメージ、考えがあるにせよ、それを退けて、主の言葉に聞く、ということ他ならない。「わたしに従いたい者は、自分を捨て、」という時のキリストに従う、ということは、自分の声を否定する、自分の思いを拒んで、ということが根底にある、ということです。キリストの御声に聞き従うということは、そういうことなのだ、と語られている。

 

 自分の十字架を負ってとは、言うまでもなく、キリストの十字架を負うわけではない。わたしたちはキリストの十字架を負えないし、その必要もない。けれども、わたしたちが自分の声ではなく、キリストの声に聞き始める中で、負わされていくもの、それを特定することはできませんが、ある。何も大きなこととは限らない。家庭の中のことであったり、他者との人間関係だったり、教会での奉仕だったり、自分の声に従っていたときには、負う自覚も必要もなかったものです。例えば、子育てしている親は、キリストの声に聞く前も子育てをしている。キリストに従い御声に聞くようになってからも子育てをしている。傍目には何も変わっていないように見える。しかし自分の声ではなく、キリストのみ声に聞く中で、子供を見る目、自分自身を見る目、親子の関係を見る目が変わっていき、これは大事だ、と思うことが変化するかもしれない。これは自分が負っていかなければならない、ということがそこで生まれてくるのです。キリストの声に聞いたがゆえにこれは負っていくべきだ、という形で出てきたもの、それをここでは十字架と呼んでいるのです。だから自分の十字架はこれだ、と特定はできないし、変わっていくこともしばしばあるでしょう。自分にもわからないかもしれない。しかし自分を捨て、自分を否定して、キリストの声に聞き始めていくところで起こっていくものなのです。

 

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失うものは、それを救うのである。」

 この言葉、福音書の中にはさまざまな形でよく出てくる言葉、つまり主イエスが繰り返し語られた言葉といっていい言葉です。マタイによる福音書の山上の説教において、「だから、言っておく。自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」という主の有名な言葉もその一つです。そしてそのあとで、「あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。」だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と続いていくのです。

 ここには、自分を捨てるとか、否定するとか、いう言葉は出てきませんが、同じことが語られている。自分のいのちを自分でまもろうとする執着心を手離しなさい。神はあなた方に必要なものをご存じである。だから自分のいのちについての思い煩い、自分のいのちについての執着心を手離して、まず神の御声に聞きなさい。そうすることによって、あなたは復活のいのち、永遠の命、を受けることになるだろう、それが35節の言葉です。

 

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」わたしたちの持てるものが増えたとしても、自分のいのち、ここで言われているのは永遠のいのちのことですが、それを失ってしまったら、何の得があろうか、というのは、深く味わいたいみ言葉です。

 

 人間は、物を獲得することや、自分の持ち物が豊かになることを追い求めていくものです。全世界を手に入れるという表現はピンとこない人でも、人間の中にある欲望がそういう広がりを持っているということは、わかるのです。しかし人間のいのちは欲望を充足させ、持ち物を増やすことに終始するようなものなのか。

 「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」自分の声を聞くのをやめて、神のことばに聞いて歩む中でしか受け取れないものがある。自分を捨て、自分の十字架を背負って、キリストに従うことの中で、与えられる命がある。

 そしてそのいのちは、今与えられていくというだけでなく、最終的には終末の時に、そのいのちの豊かさ、溢れる恵み、それをすべて受け取る。キリストに従う、ということの恵みは今ここで受けとめるだけでなく、終末の時にそのことの豊かさをわたしたちは知ることになる。9章の1節で主が語っていることは、そのことで、決して死なないというのは地上のいのちが終わらないということではなく、主の与える復活のいのち、永遠の命によって活かされ続ける、ということです。キリストに従うことで受け取るいのちを終末を仰ぎ見て、生きていきましょう。