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マルコによる福音書連続講解説教

2022.3.6.受難節第1主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書9章2-13節『 苦しみを受ける主 』

菅原 力牧師

 主イエスは弟子たちに「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけられました。

 弟子のペトロは主イエスの問いかけに対して、「あなたこそ、キリスト、救い主です」と答えた。そこから主イエスの言葉は広がっていくのです。

 8章から続くつながりのあるこの箇所を何度か繰り返し読んでいくと、主はここで、一つのことを語ろうとしておられる、ということが伝わってくるのです。それは、「救い主とはどのようなお方なのか」ということです。

 その直接の引き金となっているのは、ペトロを始め弟子たちの「救い主」理解と、主イエスが与えようとしてくださっている救いとがまるで違う、ということでした。

 むしろ、そもそもわたしたち人間が普通に考えている「救い主」と、聖書において神がわたしたちにイエス・キリストをお遣わしになって、与えられた「救い主」とがあまりにもかけ離れている、わたしたちが想像だにしなかった「救い主」である、ということが根本にあるのだと思います。

 「救い」とは何かということを考えると、まず考えられるのは、危険、危機、困難からの助け出し、救出ということです。その場合、危険とか、危機とか困難というのは、いろいろなことがあるでしょう。ある時は経済的な問題が危機だったり、ある時は大きな出来事事件が危険だったり、困難だったり、わたしたち自身の内面の問題だったり。確かに危機から助け出しなのですが、たとえば病気になって、それが危機であれば、医者をはじめ、医療関係者が救い主として受け取られていくか、というと、少し違う気がします。援助や、助力、支援ということと、救いとは違うからです。

 聖書が問題にしている危険とか、危機とか、困難は、根本においては、人間の「罪と死」の危機、困難なのです。この危機は、一過性ではない。人間の生涯にまとわりつくようにして存在している。死の問題は、そのことをよく表している。つまり、人間の根底にある危機、それが罪と死、なのです。そしてそこからの助け出し、救出こそが聖書が問題にしている「救い」なのです。

 ペトロを始め他の弟子たちも、そして主イエスの周りにいた多くの人々も、「救い主」というものを、力あるものの助力、手助け、というものとしてとらえていたのだと思います。神のことばを宣べ伝え、何らか神の力を人々に示し、苦しむ者、危機になるもの、困難にあるものに、必要な助力、手助けを与えてくれる人。おそらくそうした「救い主」像を大なり小なり持っていた。

 しかし、主イエス・キリストは違うのです。そのような助力者ではない。助け手でもない。支援者でもない。

 キリストの齎す救い、それはこの救い主は、自らが人々の罪を背負い、背負うのみならずその罪の罰を自らの身に受け、その罰によって自ら死ぬことも辞さない、そのような「我らを身に負う救い主」だった、ということです。

 助け手ではない。助力を与える人でもない。自らが罪人を負ってしまう方、ご自分が身代わりの罰を受けて、裁きを受けていかれる方だったのです。

 けれど、弟子たちは、人々はまだこの段階では、それはほとんどわからない、理解できない。

 さて、主イエスが人々に、受難予告を語られてから六日の後、主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて山に登られました。その山の上で、主がそのお姿を変えられた。姿だけでなく、その服も真っ白に輝き、全身が変容された、変貌されたのです。

 それだけでなくその場に、エリヤとモーセとが現われ、主イエスと語り合っていたというのです。エリヤは預言者を代表する人物、モーセは律法を代表する人物。つまり二人は旧約を代表する人物であるのですが、その二人が主と話し合っているという姿が三人の弟子たちの目の前に現れたのです。輝きに満ちた主イエスの姿です。弟子たちの驚きは半端ではなかったと思います。

 この輝きの主イエスに対して天から声が聞こえてくる。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」というのです。

 山上の変貌は、弟子たちだけでない、これを読んでいるわたしたちにとっても驚き以外の何ものでもない。しかし、天から聞こえてきた声と併せ考えると、これは神のイエス・キリストに対する偉大なる肯定のしるし、それでよい、それこそ我が愛する子だ、という全肯定のしるし、真っ白に輝いているということは、栄光のキリストがあらわされている、まさに神からのこれこそ我が子だ、というしるし、と受け取ることができます。

 しかしここで大事な、見落としてはならぬことがあります。それは、栄光のキリストというのは、主が直前に語られたことにあらわれている「苦しみを受け、人々から捨てられ、十字架を背負っていく」主、それこそが栄光のキリストだ、ということです。別の言い方をすれば、人々のために苦しみを受け十字架にかかっていく、そこに栄光の輝きを見ることこそ、わたしたちのキリスト信仰だ、ということです。神はここで、光り輝くようなキリストを表すことで、これからキリストが歩みだされていく受難の歩みこそが、栄光のキリストなのだ、ということを弟子たちに示されたのではないか。山上の変貌は、神がそのことを示されたということです。

 しかし弟子たちはまだそのことはわからない。理解できない。

 ペトロは栄光に輝くキリストを見て、その輝きにあふれる姿そのものに感動し、エリヤとモーセと共に立つキリストこそ、栄光のキリストだと思って、仮小屋を三つ建てましょう、と言い出したのです。それはペトロがこの事態に直面して、何をどう言えばいいのかわからなかったからだ、とあります。つまりほんとに驚いて、頭真っ白、ということだったのでしょう。よくわかる気がします。ペトロの中ではこの美しい光景だけが目に焼き付いているのです。もちろんです。なぜなら彼はまだキリストの十字架の姿を見ていないからです。

 しかしやがてペトロが十字架のキリストを見た時、十字架とこの山上での栄光の姿が彼の中で繋がったでしょうか。繋がるどころか、分離していたでしょう。あんなに山の上で輝いておられたのに、無残にも十字架で変わり果てて死んでいかれた、と。十字架こそ、栄光だとはとても思えなかったでしょう。

 キリストは山から下りる時、今見たことを誰にも話すなと言われました。栄光に輝くキリストだけで語るなということです。十字架と復活に結びつかない栄光を語るなと主イエスは言われたのです。

 弟子たちの頭の中は混乱し続けたと思います。それで弟子たちは主イエスの言葉に断片的に食いつく。復活とおっしゃいましたが、律法学者はその前にエリヤが来ると言っています、と当時のユダヤ人の言い伝えからの質問をしました。

 主はそれに対して、「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。」ここで主が言われているエリヤとは、洗礼者ヨハネのことだと思われます。ヨハネが道備えをなして、整える。だが、そのヨハネも、人々に好きなようにあしらわれ、殺されていったのです。

 そのうえで主は、「それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。」と主は問われたのです。これは旧約聖書イザヤ書53章から引いた言葉です。これが旧約が預言した救い主の姿です。なぜこのようなことが預言されているのか、と問いかけたのです。弟子たちはわからなかった。しかしこの問いを覚えておいてほしい、という思いが主の中に強くあったのです。

 イザヤ書53章5節「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。」

 

 わたしのために、罪を背負って、十字架にかかったイエス・キリストを、わたしたちはどう受け止めていくのか、ということに対する神からしるし、鍵が今日の聖書箇所にはあると思います。それはキリストの苦しみを、「申し訳ない」とか慙愧に堪えない、というだけのことにはしない、ということです。

 キリストは苦しみを受け死んでいかれる救い主として、わたしたちに救われたものとなってほしいという切なる願いを持っておられた。しかもその苦しみは、たんに忍耐とか、わたしたちのために仕方なく苦しんだというのではなく、そこにこそご自分使命を受けとめておられたし、神もまたその十字架こそが栄光だと示された。何たる神の愛、何たる神の深き恵み。だとすればわたしたちは十字架にかかりわたしのために死んでいかれた主を、こころからほめたたえるべきなのです。キリストの十字架によって救われてあるわたしを受けとって生きること、これぞ我らの救い主、主をほめたたえよ、という信仰が求められます。十字架の主こそ、栄光の主なのです。