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マルコによる福音書連続講解説教

2022.3.13.受難節第2主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書9章14-29節『 信なき我を助け給え 』

菅原 力牧師

 聖書を日常的に読むようになって、はじめて「信仰」ということをまともに考え始めた、という人は少なくないと思います。

 教会に行っていない人に「自分は教会に行っている」というような話をすると、「いいわね、そうやって信じることができる人は」ということを言われた経験はないでしょうか。「自分には信心があまりないので、教会とかお寺さんには、とてもいけない」と周囲の人から言われた方もいるでしょう。

 つまり教会に行っている人、宗教に何らか関わりを持っている人は、信心が厚く、信仰心が強い人と思われがちなのでしょう。しかし、事実はそれほど単純ではない。教会に行き、聖書を読み始めて、聖書の神と出会い、イエス・キリストと出会う中で、わたしたちは自分の不信仰と直面するのです。信仰が足りないとか、もっと強い信仰がなければならない、という話ではなく、そもそも自分とは不信仰なんだ、と気づかされていくのです。

 困った時の神頼み、という言葉がありますが、本当に困った時ですら、人はひたすら神を信仰しているのかといえば、それも実にあやふやなものです。困ったときに人は自分の願い事や、要求を強く訴えます。祈りもします。しかしだからといって神を心から信仰しているとも言えない。教会に来るようになり、聖書を読み、祈る生活をする中で、果たしてこれを続けることで、信仰深い自分になるのだろうか、という素朴な、しかし重い課題にぶつかっていくのです。

 主イエスが山に登っている間に、弟子たちのところに霊に取り憑かれた子供が連れてこられていました。この子は、現代の医学で言えば、「てんかん」のような発作を繰り返す症状があり、父親はおそらくいろいろなところに行った挙句、よくなることもない状態が続き、主イエスの弟子のもとにこの子を連れてきたのでしょう。ところが弟子たちには、この子に取り憑いている霊を追い出すことはできなかった。それで野次馬のように集まってきた群衆に囲まれながら、弟子たちは居合わせた律法学者たちと、なぜ霊を追い出すことができないのか、ということで議論に巻き込まれていました。そこへ主イエスは戻ってこられ、この様子をご覧になって「なんと、信仰のない時代なのか」といわれました。

 主イエスはその子を連れてくるように言われ、その子は連れてこられました。イエスの前でもその子は、地面に倒れ、転び回って、泡を吹きました。主は父親にこの子の病歴を尋ねます。父親はこれまでのことを語った後で、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と哀願しました。この子はこれまでにも何度か、死にそうになった。死にかけた。そうして今も目の前で転げ回っている。親としてこんなに苦しくつらいことはないでしょう。さまざまな治療を受けたけれども手の施しようがない。期待しては現実に打ちのめされてきた。おそらくこの父親は主イエスの弟子たちによる霊の追い出しにも、切なる願い持ってきたことでしょう。それだけに失望落胆は大きかった。

 主イエスに対して、「おできになるなら、わたしどもを助けてください」そう願った父親の思いは、わたしたちにも痛いほど伝わってきます。「おできになるなら」というこの一言には、父のこれまでの苦い経験、失望、しかし期待、そういうものがないまぜになっています。

 それに対して主イエスは「できれば、というのか。信じる者には何でもできる。」と応じられた。信じる者には何でもできる、と言われても、そんなことはない、そんなことはありえない、とわたしたちは思っているのではないか。信じたからといって、何でもできる、ということはありえない。そう思っている。

 

 そもそも、この父親の信仰が子どもを癒すのでしょうか。子どもの中に入り込んでいる霊を、この父の信仰心が深いなら、追い出せるというのでしょうか。

 そうではなかった。この子の霊を追い出したのはイエス・キリストの働き、キリストの力だったのです。それなのになぜ主イエスは、「信じる者には何でもできる」といわれたのでしょうか。

 たしかにここで主イエスは弟子たちの、人々の、そして時代の不信仰を問題にしています。ストレートに信仰のなさを問題にしておられる。それはなぜなのでしょうか。信仰があれば、悪霊を追い出すことも、なんでも可能なんでしょうか。主イエスは、弟子たちやこの父親が、強い確かな信仰を持つことで、どんな難局も乗り越えていける、ということを伝えたかったのでしょうか。

 

 父親はすぐに、「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」と叫ぶのです。この父親の言葉は、不思議にわたしたちの胸に響くのです。

 信じます、信仰のないわたしをお助け下さい。この父親は自分が不信仰なことは知っているのです。キリストが言うような、信じるものは何でもできると言われたら、自分にはそういう信仰はない、ということは知っているのです。ここに立っているのは、自分の息子の抱え込んでいる現実の前で、ただ神を信じれば、何とかなる、とも思えない自分、それでも、神にすがりたいし、神に願い事をしたい自分。つまり信仰という軸でみると、まことに一定しない、ふらふらした、右往左往している自分なのです。この父親はその自分を知っている。しかし、この父は、けれども信仰とは、自分の信じる深さや揺るがないことではないはずだ、という予感を持っている。もし信仰が自分の信じる深さや揺るぎなさであるのなら、それは信仰という名の自力本願ですよ。信仰は、不信仰な自分が、神の働きを、イエス・キリストの力と働きを自分を投げ出していくことだ、と体を感じていたのではないか。

 あるいはこの父親は、そのことを感じているいないに関わらず、そうするしかない、と受けとめていたのかもしれない。その姿がわたしたちの胸に響く。

 

 これまでにすでに何度か申し上げてきたように、新約聖書において「信仰」という言葉は、その意味の第一は「まこと」という意味合いです。嘘偽りのない本当のこと。信実ということです。そのことが、人間の信仰を生み出す、ということです。新約聖書において、嘘偽りのない本当のこととは、キリストの十字架です。キリストの愛と恵みです。そのまことに触れ、出会う中で、人間の信仰が生み出されていくのです。

 そうであるならば、この父親のように、自分に信仰がない、不信仰だということは、深刻なことではあるが、決定的ではない、ということなのです。

 決定的なことは、キリストの十字架に、キリストの愛と恵みに出会うことだからです。その恵みの中で活かされている自分に気づくことなのです。そしてそのことの中で信仰が生まれてくる。自分の信心によってではなく、キリストの恵みと愛から生まれてくる信仰がある。それこそが大事なのです。

 だから誤解を恐れずに言えば、わたしたちは不信仰を必要以上に恐れる必要はない。もちろん自分の不信仰を誇る必要もない。けれど、自分の不信仰を過大視する必要はない。自分の信仰のなさに自分はダメだと言って殻に閉じこもる必要もない。確かに不信仰であり、信仰がない。

 けれどもその自分がキリストのまことに招かれているのです。この不信仰の自分のためにキリストの十字架は差し出されているのです。だからあえて言えば、不信仰のままで、不信仰にもかかわらず、キリストの十字架に出会うのです。そこで生まれてくる感謝と喜びこそ信仰の源泉なのです。キリストはそれを喜んでみて下さる。

 ここで、子どもから霊を追い出すのは、主イエス・キリストです。キリストの働きです。父の信仰がこの子の霊を追い出したわけではない。しかしキリストは信仰をこの父親にも求められた。それはイエス・キリストのまことによって活かされていく自分を受けとり、子どもを受けとり、そのまことの中で、親子で、人々と共に生きていくためです。信じる者には何でもできる、というキリストの言葉は、もちろん、わたしはわたしの信心で何でもできるようになる、という意味ではない。不信仰なわたしではある。わたしではあるけれど、わたしを根底から生かすイエス・キリストのまことの中で、わたしは力を受け、信仰の可能性を与えられ、生きる勇気を与えられていかされていく、その可能性の広がりを語っているのです。

 弟子たちが「なぜわたしたちはあの霊を追い出せなかったのですか。」と主イエスに尋ねました。すると主は、「祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」といわれた。その主イエスの言葉、もう少し噛み砕いていえば、「あなたの持てる力で追い出そうとしているかぎりは、無理だ。自分の信仰心の力で頑張ろうとしているかぎりは無理だ。ただ、イエス・キリストの「まこと」の中にある自分に気づき、感謝して受け、喜びのうちに活かされていくとき、あなたはキリストの僕としての働きをなしていくことができる」キリストはそう言われたのです。