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マルコによる福音書連続講解説教

2022.3.20.受難節第3主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書9章30-37節『 仕える者となる 』

菅原 力牧師

 主イエスが弟子たちにあるときこう問いかけられました。「途中で何を議論していたのか。」弟子たちは伝道の旅の道すがら、歩きながらいろいろな話をしたことでしょう。だがその時は議論をしていました。ところが弟子たちはそう尋ねられて、黙ってしまった。答えるのが恥ずかしいような議論だったのか、とにかく答えなかった。「途中でだれが一番偉いかと議論しあっていたからである。」と福音書の著者は書き記しています。

 もう短いとは言えない時間、弟子たちは主イエスと共に歩み続けてきました。主イエスの福音も、神のことばも、主イエスの肉声を通して、聞き続けてきました。その弟子たちが、「誰が一番偉いのか」という議論をしていた。それはもう少し別な言い方をすれば弟子たちの中で序列はどうなっているのか、ということです。実際これは福音書の中でたびたび出てくる話で、主イエスが栄光をお受けになったときは、わたしどものひとりを右、一人を左に、つまり日本風に言えば、右大臣、左大臣にしてほしい、とか、母親までやってきて、息子にその席を与えてほしい、というような話まで出てくるのです。

 

 誰が一番偉いのか、主イエスの弟子ともあろう者が、こんな議論をして、情けない、という人がいるかもしれませんが、この話は、別にキリストの弟子であろうが、なかろうが、およそ人間の集まるところどこでもなされる議論ともいえる話です。人間の集まる組織にとって、人事の話は噂の種です。政治的な組織であろうが、会社であろうが、宗教的な組織であろうが、人間の集まるところ、どのような序列になっていくのか、誰をトップにするのか、というような話は関心の的です。それはもう少し踏み込んでいえば、人間が競争する生き物だからです。横並びの中で、いろいろなことを競い合って生きていく。それがまた成長につながっていく。学校も、会社も、スポーツの世界も大なり小なり人を競わせていく。人間は競争するものです。少なくともそういう面がある。だからこそ序列が関心の的になっていくのです。キリストの弟子たちが特別情けないとか、下品だった、ということではない。人が普通に考えることです。

 キリストもこの弟子たちの話を、くだらん、といって一蹴されたのでも、どうでもいいといってほかっておけばいい、と思われたわけではない。

 一行がカファルナウムにつき、家に入ると、主イエスは、座って、弟子たちを呼びよせ、車座になって、じっくりと向き合って、話始められたのです。それはつまり、誰が一番偉い、という弟子たちの議論に対する主イエスから応答、ということなのです。

 キリストはここで、弟子たちの全く知らない、未聞の視点を語られるのです。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」これは、決してわかりやすい言葉ではない。よくわからない、といってもいい言葉です。一番先になりたい者、というのは、ここでは一番偉くなりたいと思う者は、ということでしょう。その人はすべての人の後になり、つまり最後のものになり、すべての人に仕える者になりなさい、というのです。聞いている弟子たちの頭は混乱したと思います。というのも、一番偉い、というのは何らか、一番上に登っていくことがイメージされています。しかし主イエスが言われたのは、一番偉い者は、一番最後、上り下りで言うなら、一番下に下っていくイメージです。正反対のことがここで言われている。しかも、ここで一番わからない言葉は「仕える者となりなさい」といわれている「仕える」ということです。仕えるとはどういうことなのでしょうか。

 「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」聖書の時代、子どもというのは、今のような人権感覚ではなく、一人前未満、まだ数にはいらないような存在。弱く、誰かの世話がなければ、自分ではやっていけない存在。それを受け入れる、ということは、弱く小さいものを受け入れていきなさい、ということです。一番偉くなりたい者は、そんな存在は相手にしない。自分の競争相手のことを考えている。いやもっと言えばいつでも自分のことを考えているのです。キリストはしかし一番最後になれ、と言われた。それは子どもよりも後。その子供を受け入れることがわたしを受け入れること。これは、キリスト言われた「仕える者になりなさい」ということに向うことばです。

 

 仕えるという言葉は、奴隷が食卓の給仕をする、主人のために給仕する、という意味で用いられていた言葉です。ひじょうに広がりのある言葉で、奉仕、接待、給仕、もてなし、そうした日常的な言葉として使われてきた言葉。そしてその根本には無報酬、タダ、ということがあるのです。損得とか、利害ではなく、無報酬で行われることです。

 弟子たちは、おそらく仕えるという言葉を聞いて、奴隷のことは思ったかもしれない。しかし、自分たちは奴隷ではない。もちろん日常の生活の中でちょっとした給仕や、もてなしや、相手のための働きをすることは誰にでもあるでしょう。しかしだからといって「仕える者になる」ということが受け取れるわけではない。わたしたちもしばしば冗談めかして、「わたしはこの人に仕えている」などといったりすることがあるかもしれません。しかし、だからといって、仕える者になっているわけではない。

 キリストはここで、「仕える者となりなさい」といわれたのです。ある時、ある局面で、ある条件の下で、一時仕えなさい、というだけのことではない。仕える者として歩んでいきなさい、と言われたのです。

 わたしは「仕える」ということをどこでどういう形で知るのか。それはわたしに「仕えてくださる」方によってなのです。父や母や、友人や、連れ合いや、いろいろな人が仕えてくれる、その姿を通して、仕えるを知るのです。仕えられることを通して、仕えるを知るのです。

 しかし、わたしたちは、わたしに対して、どんな時も、「仕える者」となり、「仕える者」であり続けてくださった方の姿を通して、「仕える」ということを、十全な形で知るのです。仕えるということが、いっときのことでなく、役割としてではなく、その存在と歩みの全部において「仕える者となる」方において、「仕える」とはどういうことなのか知るのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、謙って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と聖書にしるされているように、イエス・キリストの存在と、十字架への歩みのすべてが、わたしに示されている「仕える者」の姿なのです。31節で主は再び、受難予告と復活のことを語られた。それは弟子たちが後になって、キリストの十字架への歩みは、わたしへの仕える道だったということを知るようになるためです。

 けれど、主イエスはなぜ、弟子たちが「誰が一番偉いのか」という議論しているのを知って、「仕える者となりなさい」という話をされたのでしょうか。誰が偉いとか、どんな序列か、という競争原理で生きるのではなく、仕えて生きよ、とおっしゃりたかったのでしょうか。そうではない、と思います。そのような二者択一をキリストは語られているのではない。すべての人が競争の原理を捨てて生きよ、そして無報酬の奉仕に生きよ、というような話をしているのではもちろんないのです。そうではなくて、人間の実相、まことの姿を見よ、と言われているのではないか。すなわち、わたしたちがどんな生き方をするにせよ、あなたは仕えられて今ある、ということです。あなたという人間の最も深いところで、あなたは仕えられている。仕える者となってくださっている方がいて、あなたという存在が支えられ、負われている。そのことに気づいていきなさい、ということです。弟子たちはもちろんこの時、その事実に気づいてはいない。どんなに受難予告を聞いても、そのことが十字架となって結実したのちに、仕えられている自分に気づいていくのです。そしてそのことに気づいたら、わたしたちは一直線に仕える者になる、というわけではない。しかし、人として最も大きい、真に偉大なことは、人生において本当に大切なことは、仕えるということなのだ、ということを受けとめて、わたしたちに与えられた生活、社会の営みを生きること、それが大事なのです。

 競争原理が働くこの社会を生きる中でも、仕えられている、ということを受けとめて、歩んでいく、そのことが大事なのです。わたしたちが生きている現実が、今どんな現実であっても、その場その場において、仕える道というのは必ずある。仕えるということですべてを投げ捨てて、ただ奉仕的な生活をするようにキリストは進めているのではない。それぞれ置かれた場所で、仕えてくださっているキリストを、しっかりと見る。わたしのために仕える者となってくださったキリストの姿を見るのです。そこで真に偉大なもの、真に豊かなものと出会いながら、わたしたちも、仕える歩みを、どんなに貧しくてもいいから歩んでいく、そのことが大事なことなのです。