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マルコによる福音書連続講解説教

2022.3.27.受難節第4主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書9章38-50節『 命に与る 』

菅原 力牧師

 今朝の聖書箇所、まず事前にお読みになった印象というのは、よくわからない、というものだったかもしれません。大きく二つの話。それぞれ、わかりやすい話とは言えない上に、二つの話の関係となると、さらにわかりにくい。だから別々の話がここに、ただ並べられているだけなのだ、と考える人もいます。確かにそうかもしれない。しかし、そういう時には、改めてこれまでの文脈を思い巡らして、主イエスのみ言葉に聞く、ということが必要です。

 直前の話は、主イエスの受難予告でした。それから「仕える者になる」という話でした。受難予告と、仕える、ということは深く繋がっています。

 繰り返しになりますが、大事なことなので、もう一度「仕える」ということを受けとめておきたいと思います。「仕える」ということは、ぼんやりとは知っている言葉ですが、この言葉に眼開かれるのは、イエス・キリストの存在と歩みにおいてです。「キリストは神の身でありながら、神としての在り方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、へりくだって従う者となられました。」キリストがこの世に来てくださったこと、そしてわたしたちと共にあり続けるものとなってくださったことそれ自体が「仕える」であり、弟子たちとこうして歩んでおられることそれ自体が「仕える」であり、その「仕える者となる」ことが十字架を必然としていきました。キリストの仕える歩みは、わたしたちの最も弱い部分、ダメな部分、わたしたちが自分でもどうにもできない部分、そのものに仕えること、すなわちわたしたちの罪に仕える、罪を負い、罪の罰を受ける、ということに向っていかれたのです。

 

 しかし弟子たちには、そもそも「仕える」という在り方が、人としての在り方が、わかりませんでした。人より偉い人になるとか、上に立つ人になるとか、よき指導者になるとか、そういうことはわかっていた。

 キリストは、今ある生き方、在り方を全部放棄して、「仕える者」になりなさい、と言われたのではなかった。まず、今あなた生きているその場所で、「仕えられている」自分を受けとめなさい。自分という存在が、どんな形で、どんな仕方で仕えられている存在なのか、受けとめなさい、ということなのです。すべてはそこから始まるし始めるのです。

 

 38節から40節に記されているのは、キリストの名を名乗って悪霊を追い出す人たちの話です。弟子たちは、その人たちはわたしたちに従っている者ではないので、やめさせた、というのです。こうした問題、キリストを名を語り、他のすぐれた宗教者の名をかたって活動する人たちの問題は、聖書の他の箇所にも出てきます。しかし、ここではキリストはそのことの良しあしを言っているのではありません。そうではなく、キリストに従わないので、やめさせた、というのではなく、わたしたちに従わないので、やめさせた、という弟子たちの驕りを問題にしているのです。弟子たちはいつの間にか、キリストの弟子、ということで偉くなっているのです。弟子たちは、キリストの弟子だということで、持ち上げられたり、大事にされたりする中で、偉い者になっていくのです。別に偉くもないのに、持ち上げられていく。仕えられてある、ということに気づいていない弟子たち。だから主イエスは、自分たちが尊大になって、自分たちの理屈で人を裁くのはやめなさい、といっているのです。41節の言葉、「キリストの弟子だという理由で、あなた方に一杯の水を飲ませてくれるものは、必ずその報いを受ける。」それは、あなたたちは、本当のところ、何者でもない、一人の罪人。そのあなたに対して、キリストの弟子だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人がいるとすれば、あなたはそういう一人によって支えられているのだ。

 

 42節から語られているのも、ただたんに人々に躓きを与えるな、という警告ではない。キリストを信じる小さなものを躓かせるということは、そういう小さなものを受け入れていこうとしないものは、という意味でキリストは語っておられる。ここでも、同じことが繰り返し語られているのです。

 それは、あなたは「仕えられている」という根本を見失ってはならない、ということです。

 弟子たちはいつの間にか偉くなってしまって、自分たちの周りにいる小さなものを受け入れるということから遠のいてしまった。それはそうです。弟子たちは自分たちの序列が気になり、誰が一番偉いのかと、真顔で議論するのですから、人を受け入れることよりも、自分が上がっていくことの方に、こころが向いてしまうのです。

 ここでキリストが躓かせる、という言葉で言わんとしているのは、わたしたちがしばしば教会内で使う、「Aさんのあの一言でBさんはつまずいた」、という時の「心がおれた」というような意味ではなく、キリストを信じる小さな者を受け入れようとしない態度のことを指しています。

 42節以下に記されている、もしつまずかせてしまうのなら、こうした方がいい、と続くひじょうに驚かされる文言は、次のような意味です。

 ここで語られている、手とか、足とか、目とか、それらはみんな自分の持てるものです。もしあなたが、自分の持てるもののゆえに、抱え込んでいるもののゆえに、相手を受け入れ、仕える者となっていけないのなら、持っているもの、抱え込んでいるものを手離して、生きていきなさい。棄てていきなさい、とキリストは言われているのです。

 たしかにここでキリストの表現は、常軌を逸したような残忍な表現です。しかしここで言われているのは、例えば弟子たちがすでに抱え込んでいる、尊大さ、自負心、傲慢さ、自分を何者かでもあるように思いこむ驕り、そしてそこから人を見てしまう不遜、それを手離して、少なくとも少しずつであっても手離しながら生きていきなさい、ということが語られているのです。

 弟子たちはすでに、いろいろなものを捨てて、キリストに従ってきた人たちです。網を捨て、仕事を捨てて、従っている、そういう自負があったと思います。実績もある。だからこそ我々について来い、という思いもあり、我々についてこないのなら、ダメだ、という発言も出てきたのでしょう。

 しかし、わたしたちが相手を受け入れるとか、相手に仕えていく、ということを根本邪魔しているのは、わたしの中のものなのです。人は自分の中にあるものにしがみついたり、絡め捕られたりして、仕える道から遠ざかっていくのです。

 いやもっとはっきり言えば、わたしたちは、わたしに「仕えてくださっている」キリストの姿が見えなくなったその瞬間から、仕えるという生き方から後退するのです。

 

 49節の言葉は、どういう意味なのか、ずいぶん議論のあるところですが、冒頭の「人はみな、火で塩味をつけられる」という言葉、火というのは、裁きのイメージなのですが、おそらく終末の裁きのことがイメージされているのです。神さまの最終的な審判、裁き。わたしたちのすべてを見通していてくださるまなざしです。その神さまのまなざしを感じながら今を生きるということです。それがわたしたちに塩味をつけるのです。たんなる味付けではなく、防腐のための塩味。わたしが今生きている。本当にこんな生き方でいいのか。それを単なる自問自答で終わらせるのではない歩み、それが火で塩味をつけられるということです。弟子たちが、キリストの弟子であるということで、偉くなってしまう。高慢にも、不遜にもなってしまう。それをこれでいいのかと自問自答する。それで終了ではない生き方、それは神さまのまなざしの前に立つことから始まる。最終的な審判とか、裁きというと勝手におどろおどろしたものを想像しがちですが、そうではない。

 キリストの存在と歩みとを見る、ということ以外のことではない。「仕える者となる」キリストの存在と歩みです。

 自分自身のうちに塩を持つとは、キリストに出会い続けるということです。わたしたちは優しいキリスト、一匹の羊を捜し続けて、抱きかかえて帰ってくるようなキリスト、弟子の足を洗い続けてくださるような、愛のキリストは好きです。けれども、その愛が指さしている、一匹を捜し続ける「仕える者」キリスト、足を洗い続けるほどに「仕える者」であるキリストの姿を見つめることは、不得手です。それは、「仕える者」キリストを見ることが自分の存在を揺さぶるのを本能的に知っているからです。自分の今の生き方をそこの方から揺さぶることを知っているからです。

 性急さは求められていない。劇的な変化も求められているわけではない。しかし、「仕える者」キリストから目を離さないで、わたしのために仕える者となってくださったキリストに日々新たに出会わせていきたい。そのキリストに感謝していく、その感謝していくところから、わたしたちの新しさは生まれていくのだろうと思います。