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マルコによる福音書連続講解説教

2022.4.3.受難節第5主日礼拝説教

聖書:ルカによる福音書20章9-19節『 ぶどう園のたとえ 』

菅原 力牧師

 ここには主が語られたたとえ話が記されていました。内容に入る前に、どういう状況の中でこのたとえ話が語られたのか、受けとめておきたいと思います。主が神殿の境内で民衆に向って福音を宣べ伝えておられた。そこへ、祭司長、律法学者、長老たちがやってきた。すごい顔ぶれ、ユダヤの宗教的な指導者たちが押し掛けてきたのです。彼らは主イエスに対して攻撃的に詰問してきました。そのやり取りの後、主イエスは民衆に向ってたとえ話を話し始められた。しかし民衆の後ろ、民衆のぐるりには祭司長や、律法学者がいるのです。ここで主イエスは、民衆に語ると同時に、祭司長や律法学者たちに向けても、このたとえを語っていることを知っておくことが重要です。

 さて、たとえ話ですが、ある人がぶどう園をつくり、これを農夫たちに貸して、長い旅に出ました。収穫の時が来たので、農夫たちのところに僕を送り、収穫を収めさせようとしたのです。ところが、こともあろうに、農夫たちはその僕を袋叩きにして、空手で追い返したのです。そこで主人はほかの僕を送ったのですが、農夫たちはこの僕も袋叩きにして、追い返しました。さらに三人目の僕をぶどう園に送ったら、これにも傷を負わせて放り出した。主人は思案の末、自分の愛する息子を送るのです。自分の息子なら敬ってくれるだろうと思ったのです。ところが農夫たちは「こいつは跡取り息子だ。こいつを殺してしまおう。そうすれば、このぶどう園は自分たちのものになる。」そして農夫たちは主人の息子を放り出し、殺してしまった。

 さて、このぶどう園の主人は、農夫たちをどうするだろうか、と主イエスは一旦尋ねた後で、主人は戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない、とたとえ話を終わるのです。

 凄まじい話です。血で血を洗う、凄惨な話です。しかし話の筋はともかくとして、このたとえの登場人物たちは、ユダヤ人にとって、なじみの深いものでした。たとえ話には、登場人物が特定できないものも多いのですが、このたとえはそうではなく、わかりやすかった。ぶどう園というのは、イスラエルことです。だからぶどう園で働く農夫はイスラエルの民です。そして主人とは神さま。その僕とは預言者のことです。これは旧約の歴史において、神さまが、イスラエルの民に神に立ち返るように預言者を通して語りかけたにもかかわらず、民をそれを聞かず、逆に預言者を迫害した、ということと重なり合うような内容でした。しかし、このたとえには、最後に主人が愛する息子を遣わす、という場面が語られます。そしてその息子を殺してしまう、というのです。それは旧約にはない、ある意味耳新しい話でした。

 この話を聞いていて、祭司長、律法学者たちは驚くというよりも激怒したのではないか、と思います。なんという話をする男か、と思ったでしょう。そもそも祭司長たちは、この話の直前で、イエスを殺そうと謀っていた、と記されています。それはイエスが自分のことを神の子だと自称して、神を冒涜しているからに他ならなかった。ところがこのたとえ話では、最後に主人の愛する息子、つまり神の息子が登場する、そしてそれが自分だとほのめかしている、その息子が殺されるというのです。つまりこのたとえ話は、今主イエスを殺そうと思い謀っている祭司長や律法学者たちが、神の子殺しの張本人だと、当てつけのように語っている、そう彼らは受け取り激怒したのではないか。19節に書かれていることはそういうことです。なんと傲慢で、怪しからん話だ、そう思ったでしょう。一方民衆はどうかといえば、最初の部分はともかく、最後の方はよくわからないなぁ、それにしても、残忍な話だ、と思って聞いていたかもしれません。

 たしかに、このたとえ話は、数ある主イエスのたとえ話の中でも、残忍というか、凄惨な話です。十字架を目前にして、これぐらいのリアリズムが必要だったのでしょうか。しかしこのたとえ話を何度も読んでみると、このストーリーが、確かに残忍さが目につくにしても、この話が語っていることは、神と人間との根本の在りようというか、関係性を物語るたとえ話だということに気づかされていくのです。

 まず、この主人は、自分の作ったぶどう園を農夫たちに貸し与え、託したのです。主人が農夫たちを信じて農地を託す。その背後にあるのは、神が創造されたこの世界を人間に託された、ということです。ところが農夫たちは託されている、貸し与えられているということを忘れて、自分のものにしようとしたのです。はじめは、主人から送られてくる僕に収穫物を渡すのが嫌で、袋叩きにしてから手で返す、ということだった。つまりまだ、主人のものだと意識していた。しかしやがてそれがエスカレートして、俺たちのものだ、と思うようになる。つまりこの物語は、何よりもまず、神のものを自分のものにしようとする人間の姿が描かれている物語だ、ということです。

 神のものを自分のものにする、とはどういうことでしょうか。

 創世記の天地創造のところを読むと、神はこの世界を人間に治めよ、といっておられる。世界は、人間が神から託されたものなのです。人間のものではない。けれど、託されているのは、ぶどう園だけでないのです。実は、わたしたちのいのちも、このからだも、能力も、すべて託されているものなのです。わたしたちのすべては、神からの信託なのです。タラントンのたとえ話のあのタラントンは、預けられたお金のことだけではない、時間も、いのちも、能力も、すべてタラントン、賜物、信託財産なのです。だからやがてすべてお返しして、神のもとに帰ることになるのです。わたしたちは託されているものを、この地上の時間の中で、与えられた場において、感謝して生きる、託されているものを活かして精いっぱい生きる、それがぶどう園で生きるものなのです。

 けれど、農夫たちは、主人の送ってきた僕たちを袋叩きにして、最後には主人の息子まで殺してしまった。こんなことをして、ぶどう園が自分たちの手に入ると思っていること自体、まったくおかしなことです。しかし人間は、そのおかしなことをして、この世界を、いのちを、賜物として託されているものも全部自分のものだと思い込みながら生きようとするのです。

 さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。そう尋ねた主イエスは「戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」と言います。それがあたりまえのことだ、と言わんばかりのたとえ話の最後になっているのです。これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」というのです。その時主イエスは彼らを見つめておられた。じっと見ておられた。どういうまなざしなのでしょうか。

 主人の愛する息子まで殺してしまった、農夫たち。その農夫たちを殺して、ぶどう園を他の者たちに与える、ある意味当然のこと、しかし、神はそうはされなかった。農夫たちを殺すことも、ぶどう園を他者たちに与えることもなさらない。ここが大事なところです。つまり普通であれば、やられたらやり返す、歯には歯をなのです。しかし神はそうなさらない。むしろ殺された息子の担った十字架において、農夫たちの罪を負い、農夫たちを赦し、農夫たちが新たに生きていくよう招かれる。つまりこの語られたたとえ話のような最後には、神はなさらないどころか、正反対、まったく反対のことをなさるのです。

 主イエスは彼らを見つめて言われた。「家を建てる者の棄てた石、これが隅の親石となった。」隅の親石というのは、家の土台に据えられる石のように思われがちですが、そうではなく、石を積んでアーチが作られる。その一番上の真ん中に据えられる石のことです。その石がしっかりとはまることにおいて、アーチ全体が堅固な構造物となり、その石が外されてしまうと、アーチ全体が崩れてしまう、そういう石のことです。肝腎要の石です。しかしその石をこともあろうに、棄ててしまう。役に立たないと思って棄ててしまう。人間がキリストを十字架にかけたように。だが、その棄てられた石こそ、わたしたちのすべてを成り立たせる、隅の親石だ、というのです。18節はそのことをもう少し別の表現で語っているのです。

 わたしたちが生きていく上で肝腎要となること。それは、ここでまず、すべてのものが神から信託されたものであるということです。あなたのものじゃない。ただあなたのものじゃない、というのではなく、神から信じて託されたいのち、からだ、時間、タラントンなのだ、ということです。しかもありがたいことに、そのいのちも体も、そして時間も、キリストに背負われているのです。イエス・キリストの十字架によって負われているのだ、ということです。

 ぶどう園のたとえは、そういう広がりの中で語られているたとえ話です。

 肝腎要ではないことばかりに気を取られて、あれこれ思い煩ってはいないか。どこかで、託されたものを自分のものだと錯覚して、悪戦苦闘していないか。

 自分を殺すものをも背負う愛。まこと。そのまことによって背負われている自分、すべてを信託されている自分、その自分を受けとめて、感謝して、今日一日を生きたいと思います。