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マルコによる福音書連続講解説教

2022.4.24.復活節第2主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書10章1-12節『 神の結び 』

菅原 力牧師

 主イエスがいつものように群衆に教えておられたときのことです。ファリサイ派の人々がイエスに近づいてきて、質問をしてきました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」藪から棒とはこのことでしょう。いきなり、唐突なのです。前後の文脈も何もない。質問者は主イエスを試すためにこの質問をしたのです。もっと言えば、陥れるため、といってもいい質問なのです。

 主イエスが離婚に関してどう発言するのか、その発言を材料にして陥れるのです。意地が悪い、というようなレベルではなく、主イエスを憎んでいる者たちの策略です。

 このファリサイ派の質問の背景には、主イエスは離婚に対して、律法に反する考えを持っているということを知っていた。知ったうえで、その発言を引き出すために、この質問を敢えて群衆の前でしたのでしょう。

 こういう質問の仕方そのものが、人として悪賢いものですが、しかし、考えてみると、こういう質問の性質、思考方法に問題はないでしょうか。ある事柄をAですか、Bですか、と二者択一化して問うてくる仕方です。最近はずいぶん減ってきましたが、教会の中でもかつてよくあった問いかけ方です。聖書はこの問題に対して、賛成なのか反対なのか、いいのか悪いのか、というふうに二者択一式に答えを求める捉え方です。例えば。他宗教のお葬式に出て、その宗教のしきたりで死者を送ることは、聖書から見て、いいことなのかだめなのか。まるで問題集の最後の頁の解答欄を見るように、いいですか悪いですか、○か×かと問いかける。

 この質問の仕方、それは、聖書を、人生の問題解決の手引き、マニュアル・手引書として読もうとしている、という思いが透けて見えるのです。この問題は、聖書の教えから見て、○か×か、いいのか悪いのか、聖書も一種のハウツウものとして読もうとするのです。

 それの何が問題なのか。手引書でないものを手引書にしてしまっている、という問題です。聖書はわたしたちが生きていく上での問題解決手引書ではないからです。聖書はマニュアルとしては全く書かれていない書物です。

 聖書は手引きではなく、人間の根本の事柄を語る書物なのです。難しい表現すれば、人間の存在の在りようを指し示すものなのです。

 聖書は、わたしたちが救われなければならない存在であることを明らかにし、そのわたしたちが、救われてある存在であることを書き記している書物なのです。そのようなわたしを受けとめて生きることそのものが、聖書の指し示すところで、生き方の手引きではないのです。

 主イエスはこの問いかけにどうこたえられたのか。

 「モーセはあなたたちになんと命じたのか」とまず、律法にはなんとあるか、尋ねます。すると彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。もちろん主イエスもその答えは知っておられる。その上で主はこう言われた。あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造のはじめから、神は人を男と女とにおつくりになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。したがって、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 主イエスは、律法から見て、この問題が○か×か、という答え方ではなく、そもそも結婚とは何なのか、さらに、その結婚は神のどのような御心の中にあるものなのか、語り始められたのです。

 キリストは結婚について、天地創造における神のみ心を語ります。神は男と女を創造された。そして人は、父母を離れ、結ばれ結婚し、二人は一体となる、というのです。それは、二人がたまたま同居して、一緒に暮らしている、というようなことではなく、一体となるのだ、と語るのです。一体というのは一つの肉、という言葉が元の言葉です。ひじょうに不思議な表現です。

 互いが一つの人格となるような、切り離しがたい結びが与えられるということで、この「結び合わせ」、と訳されている言葉は、一つの軛に合わせられたもの、という意味の言葉です。軛というのは、牛や馬などの家畜を二頭で一緒に牛車や馬車を引いて農作業をするときの首につなぐ横木のことです。二頭は軛につながれている以上どこへ行くのも一緒で、息を合わせて引いていくのです。結婚は、本人の意思により、決断し、二人の合意のもと、二人の愛情で築いていくものだ、というのは人間の事情です。もちろんそれが否定されるわけではない。しかし人間の事情だけで結婚が成立しているわけではない。それだけだと思うのは、人間の驕り。二人が一つ軛につながれているのは、神の意志、神の招きがそこにあるのです。さらに言えば神の御業の働きがある。神が人間を創造し、男と女が互いに向き合って生きるように招かれた。そこには人間が互いに差し向いあって生きるものとしての招きがあるのです。パウロは結婚に関する言葉の中で、夫は妻を自分の体のように愛さなければならない、そして妻を愛するものは、自分自身を愛するのだ、と書き記しています。神が人間の結婚において、そのような二人の人間が一つの軛で結ばれるような、一体となるような関係に招いておられる、ということが大事なことなのです。

 ファリサイ派は離婚は許される、いいのか悪いのかと聞いてきました。

 モーセはいいと言っている、そういう答えを知っていて聞いてきました。しかし主は「あなた方の心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」これには少し説明が必要なのですが、聖書の時代、男性はいとも簡単に離婚することができました。女性に離婚を言い渡すことができた。しかしモーセが離縁状を書いて、離婚することを許した、というのは、離縁状も書かず、離婚の理由も示さないままに、わがままや自分勝手で離縁する男性がたくさんいた。それに対してモーセは離縁するなら、それ相応の理由を示して離縁状を書け、といっているのです。それほどにあなた方の心は頑固だ。何に対して頑固なのか、結婚に込められた神の招き、神のみ心を尋ね求めようとしないで、人間の事情だけで、結婚したり離婚したりする、それが頑固だ、というのです。

 ファリサイ派は律法の最も厳格な守り手でありました。だが主イエスの言われたことは彼らに届いているのでしょうか。

 離婚がいいか悪いか、そもそもそれを○×だけで、一問一答形式で答え得るものではないでしょう。離婚に至る人間の事情もあれば、背景もあるでしょう。それも大事なことなのです。しかしキリストはここで、離婚以前、結婚とはどういうものなのか、そこにどのような神のみ心があるのか、人間の事情だけで事柄を見ない視点、神のみ心を尋ね求める、という視点が大事なのだ、と語りかけておられるのです。

 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」そう言われた主の言葉を、群衆と共に聞いていた弟子たちも受けとめかねていた。つまり要するに主は、離婚に反対なのですね、と彼らも二者択一の思考の中に入っていったのではないか、と思います。だから、家に戻ってから、弟子たちはあらためて、このことをどう受けとめたらいいのか、主イエスに尋ねたのです。すると主は11節12節の応答をされたのです。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」このキリストの言葉は、今現在、そして当時においても、社会的には、法律的には、全く妥当しない言葉です。離婚した後、別の女性を妻にする者は、元妻に対して姦淫を働くことになる、といっているのですから。実際、どこの国の法律でも、こんなことは問題にしないでしょう。だが、キリストのまなざしは違うのです。どんな離婚しようが、わかれようが、一つ肉となって一つ軛を負って歩んだ者には、人間がどれほど断ち切ったと思い込もうと思っても断ち切れない結びがあるのだ、ということです。それほどに結婚というのは、人の思いを超えた絆がある。

 わたしたちはさまざまな形で結婚というものを選び取り、結婚生活をし、またさまざまな人間の事情で、離婚する。それは聖書の書かれた時代でも、現在でも変わらない事実です。しかし結婚ということ、そこには神の深い招きがあります。それは根本的に言えば、結婚に限らない、人が生きることそのものへの招きなのですが、人間が共に生きる、ということへの神からの招きです。結婚はその最も深く豊かな形、人が差し向いに向かい合って共に生きる、そのことへの神の招きです。祝福です。しかし人間は事実離婚していく。破れを抱えている人間の現実です。けれどもそこで、結婚が人間の事情だけで始まり人間の事情だけで終わるものなのではなくて、神の働きの中にあるものだということを受けとめて、わかれるのと、それを受けとめずに別れるのとでは大きな違いがある。

 わたしたち罪人は、神のわたしたちが生きることへの深い招きを繰り返し受けとめながら、離婚したものも、結婚しているものも、結婚していないものも、結婚ということにおいて神が指し示しておられる豊かさ、深さ、そして不思議を思い、打ち砕かれていきたいと思うのです。

 人間の事情に還元されえない、神の招きの豊かさに、目を開き、その都度、問題や課題や、思わぬ現実の中で、神を見上げながら、考え、思い、正解はなくても、御心に聞いて歩んでいきたいと思うのです。