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マルコによる福音書連続講解説教

2022.5.1.復活節3主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書10章17-31節 『 何をしたら救われるか 』

菅原 力牧師

 主イエスのもとに一人の人が走り寄り、跪いてあることを尋ねてきました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」走り寄り、跪いて、という記述から伝わってくるのは、この人の切羽詰まった感じ、また真摯な態度です。この人が尋ねたのは、永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのか、ということでした。永遠のいのち、それを今は、「本当に救われる」、と受け取りましょう。

 本当に救われるためには何をすればいいのか、そう彼は尋ねたのです。

 主イエスはこの問いかけに対して、ちょっと不思議なことを言われます。「なぜ、わたしを『善い』というのか。神お一人のほかに、善い者は誰もいない。」そう言われて、十戒の掟を語るのです。すると彼はそういうことはみな子供の時から守っています、と答える。彼がまじめな人であり、十戒の掟を守り、しかしなお、本当に救われるには、それでは充たされない、足りない、不十分だと思っている何かがあり、主イエスのもとにやってきたのだ、ということが少しずつ分かってきます。これまでに主イエスのもとに来て、主を陥れようとして質問を仕掛けてきた人たちとは違うまじめな求道的な態度の質問者だったのです。

 主イエスは彼にさらにこう言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 まじめな質問者に対するこの主イエスの答え。穏やかな口調ではあるのですが、しかし、ウルトラな発言です。過激発言です。持っているものを売り払い、とさらっと言われているのですが、凄まじいことです。彼はこの言葉を聞いて、気を落とし、主イエスのもとを悲しみながら立ち去っていくのです。協会共同訳では「彼は顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った」と訳しています。主イエスの言葉を聞いて、彼はそのまじめさゆえに、欠けている一つのことのできない自分を思い、顔を曇らせ、悩みつつ立ち去ったというのです。

 主イエスはこの人たちが立ち去った後に、「財産のあるものが神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われた。この発言も驚きの発言です。しかし、とわたしは思います。この人と主イエスとの会話、問答はわたしたちに何を語っているのだろうか、と。別に彼のようにたくさんの財産を持っている資産家でなくても、自分の持ち物を売り払ってわたしに従いなさい、と言われて、すぐに実行できる人がいったいどれだけいるのでしょうか。もし仮に、いたとしても、そのわずかな一握り以外の人たちは、みな救われない、ということなのでしょうか。ここで主が言われていることを額面通り受け取るとすれば、率直に言って窮屈な感じがするのです。

 こんなハードルの高いことをクリアできなくては救われない、というのではあまりに窮屈で、第一主イエスご自身がそのような救いをもたらすためにこの世に来られたわけではないでしょう。

 主イエスがこの人との問答で言いたかったことは、どういうことなのでしょうか。主イエスのもとを訪ねてきたこの人の質問をもう一度見てみたいのですが、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのか」というこの質問は、救われるためには、自分は何をしたらいいのか、という質問です。この人の中にあるのは、救われるために必要な自分の行動、働き、修業は何か、という思考です。そこにはいろいろなことが含まれています。例えば彼がそうであったように宗教的な掟を守ることもそうですし、もっと広く言えば、救われるために、自分を律して、より優れた、信仰的な自分になるとか、社会的な善行を積むとか、そういうすべてを含んで、救われるために、何をする、という問いなのです。信仰的な救い、もっと精確に言えば、わたしという存在の救い、その救いをわたしが何かすることで達成する、そう質問者は思っているのです。

 この質問者の思いそのものが、そもそもおかしい。

 なぜなら、自分という人間、その存在を救うのに、自分の行動、業で救うというのなら、それは日本でいう自力本願ということだからです。妙なたとえですが、泥沼の中で足掻いている人間が、自分の力で何とかしようとする、そうすることで、さらに泥沼の中に沈んでいく、そういうことなのです。

 この質問者との問答は、わたしは反語的なものだと感じています。何をしたらいいのかという問いに対して、やるべきことは律法に書いてあるよね、と主が言われた。もちろんそれは守ってます、と答えた彼。「わかった。じゃあ、持っているものを売りはらいなさい、そして貧しい人に施しなさい。それからわたしに従ってきなさい。」はっきり言えば、主イエスはここで、できないことを言われた。なぜか。自分の行いや行動で救われると思っている人に、じゃあ、できことを言われたらどうするの、と問いかけるためです。反語的なのです。

 何をしたら救われるのか、という問いは、自分ができないことをしろ、と言われたところで、暗礁に乗り上げる。座礁する。それをわかってほしい、ということなのです。

 自分の行動、わざ、修業、そういうもので救われていく、というのは明らかなボタンの掛け違いです。例えば、律法で何が一番大事な掟ですか、と尋ねられた時、キリストは二つのことを言われました。神を愛することと、隣人を愛することだと。あなたの神を、心をつくし精神をつくし、思いをつくして愛しなさい、と自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。救われたいのなら、この二つを実行し、わたしに従ってきなさい、と言われたらどうでしょうか。キリストに従う前に挫折してしまうのではないでしょうか。するとほとんどの人はキリストに従えないことになってしまいます。

 もし救われることが何らかのことを達成し、成し遂げることが条件なら、それができない時は即アウトですよ。

 翻って考えてみると、キリストがこの問答でわたしたちに語ろうとしていることは、この質問者のように、何かをすることで救われる、という考え方そのものに対する問い返しなのではないか。それではやっていけないよ、ということを伝えたいための問答なのです。

 主は弟子たちに財産のあるものが神の国に入るのはなんと難しいことか、と言われた。それは、自分の力や行動で、神の国に入ることは絶望的だ、と言われたに等しい。そもそも神の国に入る、神の救いに入るのに、なぜ自分の力に頼るのか。それ自体神への信仰から遠いものです。

 それなら、わたしたちはどうやって救われるのか。わたしたちにとって救われるということはどういうことなのか。このスタートラインに、立ち返らなければならない。そしてそれは難しいことではない。

 わたしたちが救われるために本当に必要なこと、それは神が差し出しておられる恵みを感謝して受ける、ということ以外のものではない。神がわたしたちの救いのためにイエス・キリストにおいてなしてくださった恵みをそのままに、受ける、ということなのです。人間の救いは、「人間にできることではないが、神にはできる」ことだからなのです。

 今日の聖書箇所の最初にあった子供たちがやってくる場面で、キリストは「神の国はこのようなものたちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。そこで言われている子供のように神の国を受けいれる、ということは、小さな子どもが親の愛をただ受けるだけで、自分で何かをそれにふさわしい自分であろうとするとか、親の愛に応えるだけの自分になろうとか、何も思わずにただ親の愛の中にある自分を受け身で生きてるだけ、そういう態度のことです。態度というよりも存在の仕方ということです。ただひたすらに受けていくのです。

 キリストは今日の聖書箇所で、お金がある人は救われない、というようなことが言いたかったわけではないのです。しかしお金を持っているということで、差し出されているものが受け取れない、ということも事実としてあるのです。お金とは違うけれどお金と同じくらい厄介なものに、わたしたちの考え、観念、思い込み、信念のようなものがあります。おそらく今日の質問者は救われるために、自分のなすべきこと、しなければならないことがあるはずだ、という観念に取り憑かれているのです。それはほとんど悪霊に取り憑かれているのと等しい。

 なぜなんでしょう。なぜ人間は、神から差し出されている、与えられているものを受けとることより、自分の持っているものも、自分が積み重ねてきたと思っているもの、自分の考えにこだわるのでしょう。根本自力でやりと思っているからでしょうか。そして自分が泥沼の中にいることに気づいていないからかもしれない。信仰は、神さまが差し出してくださっているものをまっすぐに受け取ることです。そこからしか始まらない。自分からは始まらない。自分の力で継続させることも、まして完成させることなどできない。質問者は最初に「善い先生」と声を掛けました。もし質問者が本当に善い方を知っているのなら、自分が何をするではなく、この善い方が善いと思われることを受けたらいい。彼に欠けていたのはそのことです。

 自分にできないことを言われて、彼は顔を曇らせ悩みつつ立ち去ったというのです。座礁したのです。大きな船が座礁したら、人間の力ではどうすることもできません。次の大きな波、海の水が満潮になって船を座礁から救い上げる時を待つほかないのです。自分の力では船はどうすることもできない。ただ神の恵みによって救い出されるほかないのです。そのことを思い知る必要があります。そして差し出されている神の恵みによって、新しい航海に出ていくのです。