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マルコによる福音書連続講解説教

2022.5.8.復活節第4主日礼拝式説教

聖書:マルコによる福音書10章32-45節『 仕える者となる 』

菅原 力牧師

 福音書を読んでいくとくり返し主が語っておられることがあることに気づかされていきます。その大事な一つが、主イエスがどこに向かって歩んでいかれるのかということで、ご自分の人生の目的、使命を弟子たちにはっきりと語られている、ということです。そしてそれが、「受難予告」と呼ばれているものです。

 キリストの受難予告、十字架にかかって死んでいくという予告は、これが三度目です。なぜこれほどまでに繰り返し語られたのか。そういう場合、大事なことは、その三か所を丁寧に読み返してみることです。もしご自宅に聖書が3冊あるなら、その3冊を並べて8章、9章、10章と、連続して語られる受難予告を開いて、読み比べながら読み返してみて下さい。いろいろ気づくこと、感じることが出てきます。

 まず8章。ここで主イエスが受難予告をすると、弟子のペトロがイエスをわきに連れて諫め始めた、ということがありました。その後で主が、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのでした。

 続く9章では受難予告の後に、弟子たちの「誰が一番偉いか」という議論の後、主イエスは「すべての人に仕える者になりなさい」と語りかけています。

 そして今日の聖書箇所10章では受難予告の後、弟子のうちの二人が将来一人を右に、一人を左に座らせてください、と言い出し、主は、一同に向って「皆に仕える者になり」「すべての人の僕となりなさい」と語りかけておられます。

 

 キリストの受難予告は三度(みたび)繰り返し語られています。そして受難予告と合わせて語られていることは、自分を捨てなさい、仕える者になりなさい、僕となりなさい、という弟子たちへの呼びかけです。それも三度共です。ということは、キリストが十字架にお架かりになることと、キリストがどこに向かって歩んでいかれるか、どのような使命を生きておられるのか、ということと、仕えるということとは分かちがたく結びついているのだ、ということがわかります。それが三度の受難予告を読むことで、よく伝わってきます。

 主イエスの一行がエルサレムに上っていく途中のことです。主が先頭に立って進んでおられたのですが、その主の様子を見ていて、弟子たちは驚き、恐れたというのです。なぜなのでしょうか。主イエスのまなざし、緊張感、面持ち、毅然とした様子、その全部から伝わってくる何かが弟子たちを驚かせ、恐れさせたのでしょう。「今、わたしたちはエルサレムに上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。」受難予告はより具体的に、はっきりと語られていく。そう語る主イエスの様子が、弟子たちに驚きや怖れを感じさせるほどのものだったということです。

 その時、弟子のヤコブとヨハネが進み出て、自分たちの願いを叶えてほしいと申し出てきました。その願いというのは、主が栄光をお受けになる時、わたしどものひとりをあなた右に、もう一人を左に座らせてほしい、というものでした。

 この弟子の申し出、これを9章の時同様、わがままで、自分本位な、誰が一番偉いのか、といった議論と同質の要求と受け取ることもできます。一方で、これは主イエスの十字架というものが弟子の中でも避けようのない苛酷な出来事として受けとめられいく中で、よくわからないなりに、復活して栄光をお受けになったときには、自分たちのポジションをしっかり与えてください、という切実なものだった、と理解する人たちもいます。

 しかし主は弟子たちがどのような思いで申し出たのかに関わらず、「あなた方は自分が何を願っているか、わかっていない」「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と言われました。彼らは「できます」と即答しています。弟子たちは、キリストが飲む杯、キリストが受ける洗礼とは何か、わかっていたのでしょうか。わからないから「できます」と答えたのではないか。

 キリストは弟子たちに向って、こういう意味のことを言われた。「あなたたちは、自分が何かを得ることを考えている。人より上に立つこととか、王様のナンバーツーになることとか。自分の座るよりよい場所を得ようと考えている。だがそれは、あなたが決めることではない。」

 人は人より上に立って、支配することを望む者だし、そうやって権力を振るうものだ。しかしわたしはあなたたちに、一つの道を示したい。それは「仕える」という道だ。仕える生き方。その道を示したい。その道を歩く人になりなさい。キリストはそう言われたのです。

 9章の時にも申し上げたことですが、弟子たちが求めてきたこと、それは特別なこととか、異常なことではないでしょう。競争原理の中では当たり前のこと。普通のことです。むしろ、キリストが語られた「仕える」という道、それは当たり前のことで、普通でもないことです。仕えると言えば、この国においては、目上の人につき従うことを意味したり、何らかの上下関係の中で、下のものが上のものに従うということであり、役所など公的機関の仕事に用いたりする言葉でした。下のものが上のものに従う、それが基本にあった言葉です。ところがキリストが示された道、「仕える」道はそうではない。創造者である神が被造物である人間に仕えるのです。人間を力や権力で支配するのではなく、愛するがゆえに仕える道なのです。罪人を力でねじ伏せて、言うことを聞かせるのではなく、罪人を活かすために、神がへりくだり、独り子を与え、その独り子がわれわれの罪を背負い、担いぬくまでに仕え、いのちを差し出すまでに仕え、罰としての死を担うまでに仕える道でした。

 神は人間に仕えぬく道を選び取り、独り子をこの世に与えられた。それ以外には、人間を救う道はない、と神は意志され、独り子もそれに応えられたのです。

 もう少し、わたしたちに引き寄せてこのことを考えてみたいのですが、キリストが十字架への歩みで仕える道を示された、しかしそれがわたしの仕えるとどうつながっていくのか。

 わたしが神に、わたしが人に仕えるとは、どういうことなのか。

 例えば、親であるわたしが自分の子どもに対して、仕えるとはどういうことなのか。相手が小さな子どもなら、身の回りの世話をすることで、「仕える」ことのようにも思えてくるのですが、子供が大人になり、いい年になったとき、その子に仕えるとはどういうことなのでしょうか。別に子どもでなくてもいい。つれあいに仕えるとは、どういうことなのか。

 それこそ、先程の話ではないけれど、下のものが上のものに仕える、というようなことではない。とすればどういうことなのか。相手の言いなりになることや、相手が気持ちよく、気分良くなるよう、相手の要求に従うことなのか。そのことを考えていく基となるのがまさにキリストが示された仕える道なのでしょう。

 キリストは、弟子たちのご機嫌を取ったり、弟子たちの言いなりになって、十字架にかかっていかれたのではなかった。むしろ事態は全く逆で、弟子たちの内誰一人として、十字架を望んでいたものはいなかった。弟子たちはキリストが王のようになり、力を誇示し、奇跡的な力で人々の上に君臨することは望んだけれども、十字架など望みはしなかった。考えも及んでいない。

 ということは、仕える道というのは、わたしたちが通常考えるような、相手の言うことにただ従うとか、相手の要求に単純に従う、というようなことではない、ということはわかります。

 そうであるならば、わたしたちにとって「仕える」とは、どういうことなのか。キリストの「仕える」道から、ていねいに考えていくことが、各自に求められていきます。今一つのことを申し上げるとすれば、キリストの仕える道は、神の愛に一人一人が生かされて生きることへの奉仕だった、ということです。

 神の信実によって、一人一人が目覚めさせられ、それによってこのわたしが生かされている、ということを受けとるために仕えていく、「神の愛に一人一人をつなげていく」、そのために仕える、それがキリストの道でした。そこで、具体的には二つのことを、受けとめていきたいと思います。一つは、この仕える道は、滅私奉公ではないということ。自分をなくして、奉仕するということではなく、自分自身がまず、神の愛に活かされ、神の信実に目覚めさせられて、生きる、それが根本にあるのです。自分自身がキリストによって活かされている、それがキリストの仕える道に仕えることにもなります。そして二つはそのことを受けとめながら、相手に寄り添ったり、共に歩み、共に苦しみ、共に生きる、その中で、「仕える」とはどういうことなのか、示され、考え、見出されていくのではないか、ということです。

 仕える道がはじめから教科書に書いてあるわけでもなければ、マニュアルとしてあるわけでもない。またわたしたちも本当のところ、「仕える」ということがよくわかっているわけでもない。キリストがわたしのために仕えてくださっていること、このことをよくよく知ること、そのありがたさを心と体で知ること、そこがすべての始まりです。神に仕えるとは、キリストがわたしに仕えてくださっていることを知ることそのものが神に仕える道なのです。キリストがわたしに仕えてくださっていることを喜び、感謝することができるなら、そこから仕える道は始まると言っていい。それは、解答のない道ですが、キリストに聞き従っていくのなら、拓けていく道です。