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マルコによる福音書連続講解説教

2022.5.15.復活節第5主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書10章46-52節『 見えるようになる 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所をまず最初、ざぁーと読んだ時、「ああ、主イエスによって盲人が目が見えるようになった奇跡の話か」というような印象を持たれた方もいるでしょう。そして奇跡物語というだけで、自分と物語の間に距離感ができてしまう。とりあえず自分との接点がわかりにくいからです。確かに、今、わたしの日常の中に、福音書に書かれているような奇跡を見出せないし、実感もない。そういう場合、別に無理して距離感を近づけようというのではなく、そういう自分を自覚しつつ、二度三度、四度五度とその聖書箇所をぼんやりも含め読んでいくことが大事です。

 この箇所は、確かに見えるようになるという奇跡物語なのですが、その前の部分、奇跡前の部分が全体のバランスから言えばとても長い。全体は短い。たった7節です。だからあっという間に読んでしまうのですが、しかし短い中でも、奇跡の前の部分は異様に長いのです。ということは、この前の部分に、何か大事なことが語られているのではないか、ということが予想できます。

 順にみていきます。主イエスと弟子たちの一行は、エルサレムに向かっています。その途上でエリコという町に滞在し、さらにそこからエルサレムに向かいました。一人の盲人が道端に座っていました。彼の名はバルティマイ。そこで物乞いをしていました。目が見えない、視覚障碍者である、ということがどれほど重い現実だったか、どれほど背負いきれない重荷を背負わされたことか、わからないなりにも、想像してみる必要があります。物乞いをするしかない生活を余儀なくされていたのでしょう。道端、という言葉は「その道の傍ら」という言葉です。なぜか、「その」という言葉がついているのです。彼は何らかの仕方でイエスのことを聞き知ったのです。見えない彼にとって、どれだけ聞いたのかわかりませんが、この人の名前は、忘れることのできない名前になっていたようです。ナザレのイエスがこの道を通る、ということを彼は聞き知った。とすれば、「ナザレのイエスが来たぞ」、という声が聞こえた時、彼のできることと言えば、力の限りに叫ぶことだったのではないか。

 

 今日の聖書箇所に二度、叫ぶ、という言葉が出てきます。しかし、言うまでもなくそれは二回叫んだ、ということではないでしょう。最初の「叫んだ」は、叫び始めた、と訳してもいい言葉、二度目の「叫んだ」は、叫び続けた、とある通りなのです。とすれば彼は初めからずっと叫び続けていた、と受け取っていい。

 彼が叫び続けたのは、目が見えないことと当然関係があるでしょう。どこにいるかわからないのですから、通り過ぎてしまうかもしれない。主イエスの目の前に行って、挨拶をして、少し話を聞いてください、ということができないからです。どこにいるかわからない人に声をかけるのです。叫び続けるしかなかったと思います。しかしそれだけではない、とも思うのです。彼には叫びたいことがあるのです。自分の中に叫びたい何かがある。彼が叫んだのは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という言葉でした。しかしこの言葉に盛られた彼の心の叫びは、幾層にもなっているのかもしれません。

 「多くの人々がしかりつけて黙らせようとしたが、彼はますます叫び続けた」というのですが、なぜ黙らせようとするのでしょうか。ただたんにうるさいと思った人もいたでしょう。主イエスが通るなら、わたしも会いたい、わたしもその声を直接聞いてみたい、できれば少し話もしてみたい、そういう人もいたでしょう。一人の叫び続ける声が、うるさかったのです。極端な言い方をすれば騒音にすぎない。しかしもっと踏み込んでいえば、こういうこともいえるのです。それは、どんなに一人の人の心の叫びが強くても、世間の人々からすれば、それはどうでもいいことです。関係ないこと。だから、多くの人々は??りつけたのです。

 

 けれど、バルティマイはどんなに多くの人から??りつけられても叫ぶことをやめない。やめないどころか、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫び続けた、というのです。

 周囲の人々の声、うるさいとか、黙れとか、お前の叫びなんか今誰も聞きたくないんだ、という??りつけの声、それがどんなに威圧的で、押さえつけようとするものであっても、バルティマイには、関係ない。そもそも彼は外界から遠ざけられていたのです。今ここで彼は叫ばなければならなかったのです。なぜなら、彼にはここで言いたいことがある、ということ以上のものがあったから。それは、彼の生きてることそのものが叫びと言ってもいい。どういうことか。それは彼には欠けがある。目が見えないということが、一つの欠損ということではなく、彼の人生そのものの欠けとしてあった。生きているということが欠けだった。自分でもよくわからない、目が見えないということ、なぜそういう欠けをもって生きているのか、どうして自分は闇の中にいるのか、どうしてそのことで悩み続けなければならないのか、その全部が叫びとなるのです。

 バルティマイは主イエスのことを「ダビデの子」と呼びかけています。これは、むずかしい説明を省いて言うと、救い主の称号です。ユダヤの歴史の中で形成されてきた、救い主の称号です。つまり彼は、主イエスのことを、耳にし、聞き知って、この方は救い主だ、と受けとめていた、ということです。これまで主のもとに来た人の多くは、「先生」と呼びかけていました。だが彼は今、救い主であるイエスに向って、自分の叫びを叫びたいのです。彼に取って救い主とはどういう存在なのか、それはよくわかりませんが、ここで大事なことは、いずれにせよバルティマイは、主イエスを自分の救い主として受けとめていた、ということです。そしてこの方から救いを受けたいと願うのです。わたしを憐れんでください、それは、わたしにあなたの恵みをお与えください、ということでもあります。

 

 主イエスは立ち止まって、「あの男を呼んできなさい」と言われます。彼は「その道の傍ら」にいたのでした。道の傍ら、というのは、道からはみ出たところ、道からはじき出されて、道端に座って物乞いしていたのです。そのバルティマイを主は呼んだのです。人々は、彼の叫びを聞いて、??りつけた。黙れと言ったのです。しかし主イエスは、彼の叫びを聞いている。聞いて呼びかけるのです。主イエスに呼んできなさいと言われたものが『盲人を呼んでいった。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」』この人々は、どういう人々だったのか。彼らはバルティマイに向って、「安心しなさい」と呼びかけている。

 

 盲人は服を放り投げ、躍り上がって主イエスのもとへ行ったのです。喜びの表現をまさに全身で表しているのです。人前で、しかも彼の場合、自分が人にどう見られているかわからない中で、呼ばれたことへの感動を体で表したのです。

 わたしはいつも思います。人間は自分一人に向って、あなたに語りたいことがある、あなたに伝えたい、あなたに聞いてほしい、とわたしに向かってくる声を待ち望んでいるのです。

 バルティマイは、長い間自分に向って語りかけてくる声に飢えていたのではないか。今自分に向って呼びかけてくださるこの方は、自分の叫びに耳を傾け、それを聞いて、わたしに呼びかける。呼びかける声に聞いて、彼はすでに躍り上がってイエスところに行くのです。これは不思議なことですよ。奇跡も何もまだ何も起こっていないのです。ただ呼ばれただけですよ。けれど彼は全身で喜びを表しているのです。バルティマイは主イエスとの出会いそのものを感動して受けとめている。喜びの内に受けとめている。

 

 主は彼に尋ねられる。「何をしてほしいのか」。主から問われる。何をしてほしいのか。彼は即座に応える。「目が見えるようになりたいのです」と。そこで主は言われる。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はすぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。この52節の文章をしっかりと読み、聞きたいのですが、あなたの信仰があなたを救った、というのですが、別にバルティマイの信仰がバルティマイを救ったわけではない。主イエスが彼を救ったのです。見えるようになったのは、主イエスの業でしょう。にもかかわらず、主はあなたの信仰があなたを救ったというのです。ここに大事なことがあるのでしょう。あなたの信仰、ってどういう信仰なのでしょうか。叫び続けたことでしょうか。黙れと言われても、叫び続けたことでしょうか。それもあるでしょう。主イエスを救い主として受けとめ、叫び続けたこと、主イエスからの呼びかけを喜びの内に受けとめたこと、その全部が彼の信仰なのかもしれない。しかし決定的なことは、主イエスが彼の態度、行動、思い、その全部を信仰として受けとめてくださっているということ、それこそが大事、それこそが重要なのです。

 そして、彼の眼は見えるようになった。それは不思議というほかない。奇跡です。だが、52節の文章は、盲人はすぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った、とあってこの文章の述語が「従った」ということであることを明確に語っている。見えるようになり、そして彼は、その道を進まれるイエスに従った、のです。まるで真の奇跡は、彼がイエスの行くその道を見て、その道に従ったことにこそあるのだ、と言わんばかりなのです。そしてその通りなのです。

 冒頭で、今日の聖書箇所の最初に出てくる道端という言葉、その道の傍ら、だと言いました。そして最後に出てくる道にも「その」がついている。その道とは、つまり主イエスの歩まれる道のこと、受難予告に聞いた者は明らかな、十字架への道です。バルティマイは、その道に従うものになった。彼が主イエスの出会いそのものに感動する人であったこと、そして目が見えるようになって彼が見届けたのは、十字架に向かう主イエスのその道を見て、その道に従うことだった。奇跡は、目が見えるようになったことだけでない。キリストの出会いそのものの中にあり、キリストの従う歩みそのものが恵みに満ちた奇跡そのものなのだ、ということをこの出来事はわたしたちに語っているのです。