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マルコによる福音書連続講解説教

2022.5.22.復活節第6主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書11章1-11節『 王としての主イエス 』

菅原 力牧師

 

 主イエスが、伝道の歩みをはじめ、弟子たちと共に福音を宣べ伝えていく中で、当然のことですが、人々は、この人のことを自分たちなりに評価したり、判断したりするようになっていきます。偉大な指導者だと判断する人もあれば、すぐれた宗教者だと思う人もあれば、預言者だ、と判断する人もいた。やがて人々の中には、この人は単に偉大な指導者ということではなく、救い主なのではないか、とも思う人々も出てきます。ユダヤという宗教的な国家、社会の中には、救い主の待望という土壌があったのですから、それもある意味当然なのかもしれません。

 しかし、その際、人は自分の思う偉大な指導者、優れた宗教者を思い描くし、同じようにして、自分の思い描く救い主を求めるのです。それは人それぞれ、千差万別ということでは必ずしもなくて、そこで思い描くのは、何らか自分にとってのスーパーマン的な、つまり自分にとっての困難や障壁を直ちに取り除いてくれたり、救出してくれるような救い主を求めるのです。そして、覚えておいてほしいのは、人はその自分が一度持った観念、イメージ、思いに、予想以上に縛られるということです。

 主イエスは受難予告を繰り返しなさった。それは以前にも申し上げたように、単なる予告ではない。ご自分の使命を語ることであり、そもそもご自分がどういう仕方で、わたしたちの救い主であろうとするのか、ということを単刀直入に語られたということです。ところがそれが通じない、ということをキリストは経験されていくわけです。ご自分が受難予告をなさっても、人々は、そのキリストの言葉の前で、どうしてそうなるのですか、と真摯に質問するでもなく、ただ退けようとするのです。ペトロは主イエスが受難予告をされたときに、諫めた。そこにペトロと主イエスの間の大きなずれが歴然とあるからです。弟子たちは受難予告を聞いても、自分たちの思い描く救い主を主イエスに投影することをやめないのです。

 十字架というのは、犯罪人が処刑される刑罰方法で、その十字架に主がかかるというようなことなど、ありえない話だ、ペトロはそう思ったのです。十字架にかかるモチベーションというようなことは問わずに、そんな死に方はダメだ、と言ったのです。

 救いというのは、高いところから、低いところにいる者を引き上げる、そういう構図ですよ。苦しむ者のために自分に苦しむ者になる、ということあり得ない。医者が病人を治すことができるのは、医者が元気で、知恵も力もあるからですよ。わたしたちを救うためにご自分が十字架にかかっていく、というようなことはペトロだけでない、多くの人にとって受けとめられないことでした。受けとめられない、ということの中身は、そのような救いの在り方に関心を寄せることなくシャットダウンしてしまう、ということです。わたしはペトロが最初の受難予告の時に、主イエスを諫めた、ということは身に沁みてわかる。実際それほどに、わたしたちの観念、救い主、ということで心の中に思い描いているものと、主イエスの使命とはかけ離れているのです。

 そのことが出来事として、あらわになるのが、エルサレム入城、ということなのです。主イエスはエルサレム入りされるときに、二人の弟子に驢馬を連れてくるよう言われました。話の様子から推測するに、事前に承諾を得ていたのでしょう。「なぜそんなことをするのか」と言われたら、「主がお入り用なのです」と答えるよう、言われました。ここで「主」と言われているのは誰なのか、いろいろ解釈の可能性があります。驢馬の持ち主のことを主、主人という意味で言っているのか。神という意味で用いておられるのか。それともキリストを指して「主」、つまりご自分のことを指して「主」と言われておられるのか。わたしは、ここで、主イエスは、ご自分のことを主という意味で読んでおられるだけでなく、「救い主」という意味で主と言っておられるのではないか、と敢えて読みたいと思います。救い主であるわたしが驢馬を用いたいのだ、と言われておられる。この驢馬の話、全体から見れば長い。驢馬に対する主のこだわりが伝わってくるのです。

 旧約聖書ゼカリヤ書に、こういう預言の言葉があります。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、驢馬に乗ってくる。雌驢馬の子である驢馬に乗って。」

 主イエスはもちろんのこと、人々もこのゼカリヤの言葉をよく知っていたでしょう。すると主イエスはここで、驢馬に乗ってエルサレムに入られる、入城されることで、王としてエルサレムに入るのだ、という深い自覚を持っておられたことが窺われます。

 王として、それも驢馬に乗って入城することを選ばれた主イエス。

 一ヶ月ほど前の棕櫚主日の説教では、そのことをヨハネによる福音書に即して「しるし」として人々に現わされたのだ、と申し上げました。

 その上で、今朝はもう少し別の角度から、別のアクセントで、このことを受けとめていきたい。それは、「記憶」ということです。

 主は王として、エルサレムに入城された。この時、弟子たちは自分の服を驢馬にかけ、主イエスはそれに乗り、他の多くの人々は、自分の服を道に敷き、野原から葉の付いた枝を切ってきて道に敷いたというのです。それは王を迎える歓迎の仕方です。迎える側にも、入城する側にも王としてエルサレム入りするのだ、という理解があったということになります。

 しかし、その理解は、かけ離れていた、ということです。少しずれていた、というのではない。全く違っていた、と言ってもいいほどかけ離れていたのです。

 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 ホサナというのは、我らを救い給え、という意味の言葉ですが、この時代には、たんに賛美の言葉として、ホサナホサナと符号のように、日本で言えば、万歳万歳というように使われていました。まさに人々は、イエスのことを王として、このエルサレムにやってきた方として、讃美したのです。その王とは、力あるもの、奇跡の力で人々に平安を与え、困難を解決してくれるような救済者を多くの人々考えていました。救済という言葉の本来の意味は、危険な状態にあるものを力をもって奪い取る、奪還するということでした。いやす、ということに深く繋がる言葉です。その根本には、力ある業、ということがありました。人々は、その観念を、イメージをキリストにいわば自分勝手に投影して、そして万歳万歳と言って歓迎したということなのです。

 主イエスはその讃美を受けながら、驢馬に乗って、エルサレムに入られたのです。先程読んだゼカリヤ書の一節に、彼は神に従い、勝利を与えられ、高ぶることなく、という言葉がありましたが、高ぶることなくというのは、へりくだるという意味の言葉です。子驢馬に乗ることと、へりくだることがどこかで繋がっているのです。キリストの中で。驢馬は高ぶらないものの象徴だった、とも言われています。しかも、キリストが用いられたのは、まだ人を乗せたことのない子驢馬です。人を乗せたら、ふらふらとして、今にも倒れそうで、弱々しい、痛々しい光景、それは高慢とか、傲慢の対極にあるものです。

 キリストがご自分が十字架を担ってゴルゴダに向かっていく、その姿と子驢馬の姿を重ね合わせられたのか、重い荷物を載せておぼつかない足取りで歩いていく子驢馬の姿をご自分に重ね合わせられたのか。

 

 ここには、歓迎する者たちとエルサレムに向かう主との間にやりきれない隔絶があります。悲劇的なのは、歓迎している者たちがそれに気づいていない、ということです。いいことをしている、という自覚に満ちていたかもしれない。この弟子たちをはじめとする人々と主イエスとの平行線のような隔絶は、受難週の間、深まっていきます。ゲツセマネの祈りも全く同じ構図なのです。わたしたちはわたしたちの中にも、ここに登場する弟子たちや人々の同質のものがあることをよくよく知る必要があります。自分にとっての困難や障壁をスーパーマン的な形で取りのけてくれるような救出者を願い望んでいるのです。戦争に対しても、わたしたちの祈りの中には、戦争を終結させてくださいとか、神よ平和をもたらしてください、という祈りが充ちているのですが、それはまさに、ここで群衆が求めた者と同質です。それは上から救い上げるような救出なのです。

 しかし、キリストは今も、子驢馬が重い荷物を背負って歩むように、わたしたちの罪を背負って、歩んでおられる。人々が期待したものとは違い、ご自分が背負い、ご自分が痛み、ご自分が裁きを受けられる仕方で、わたしたちの苦しみや痛みや、絶望を担ってくださっている。

 キリストはなぜ子驢馬に乗ってエルサレムに入城されたのか。その光景を記憶してほしいと願われたからではないか。弟子たち、人々の観念がどれほどキリストご自身の姿をかけ離れているか、キリストは熟知しておられた。けれどもキリストは弟子たちに、わたしたちに絶望することなく、子驢馬に乗って、エルサレムに向かわれた。その姿を記憶してほしいという願いからです。弟子たちの足を洗われたのも、ゲツセマネで祈られたことも、もちろんそれ自体に深い意味があったのですが、同時に記憶してほしい、という願いがあった。記憶が集積して、いつか、自分の観念ではなく、自分の勝手なイメージでもなく、救い主イエス・キリストに出会ってほしい、という願いがあったからなのです。

 弟子たちだけでなく、わたしたちも自分の思い描く救い主の観念に縛られています。強く縛られています。それを打ち破るのは、わたしたちの力ではなく、キリストと出会うこと以外ではない。み言葉に聞く、そして聞く中でキリストとの出会いが与えられていく、それがわたしたちの観念を打ち破るのです。しかしまた、聞いて尚、出会えていない時もある。だから、み言葉に聞いて、キリストのお姿を、行動を、言葉を、記憶するのです。子驢馬に乗って入城するキリストの姿を記憶するのです。その記憶の集積の中で、み言葉に聞きつつ、わたしたちは、キリストに出会わせていただく。自分の思い込みが打ち破られて、へりくだって、今もわたしを背負い続けてくださっているキリストに出会わせていただくのです。