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マルコによる福音書連続講解説教

2022.5.29.復活節第7主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書11章12-25節『 山をも動かす信仰 』

菅原 力牧師

 今朝の聖書箇所は、12節から25節までを一区切りとしてマルコは記していると思われます。

 話を要約してみましょう。

 主イエスと一行がベタニアを出た折、主は空腹を覚えられました。そこで葉の茂ったいちじくの木をご覧になり、近寄られたのですが、実がなっていませんでした。いちじくの季節ではなかったから、とあえて説明が入っています。けれど主イエスはそうであるにもかかわらず、いちじくの木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われる。

 それに続く15節から19節ではエルサレムに戻った主が、神殿の境内に入られ、その堕落を批判される。翌日、再び同じ道を通ると、昨日のいちじくの木が根元から枯れていた。ペトロは主イエスが言われた言葉を思い起こし、「あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と言う。そこで主イエスは信仰の話をされる、そういう聖書箇所なのです。

 不思議な話だ、という印象を持たれた方は少なくないでしょう。いちじくの実のならない季節に、自分が空腹を覚えたからといって、実のない木に向かって「お前から実を食べる者がないように」などということは、理不尽極まりない、と思うからです。さらには、翌日木が枯れてしまっていた、という奇跡に至っては、いったい何のためにそんなことが必要だったのか、と感じる人もいるでしょう。奇跡と言えば、困っている状況とか、困難な場面で起こしておられるのに、この場面にはどういう必然性があったのか、と思う人もいるでしょう。そういうことを含め、不思議な、よくわからない場面だ、と受け取る人たちもいるのです。

 その場合、いつも申し上げているように、くり返し読む、ということが大事です。わたしたちの固定された観念を打ち破っていただくためにも、くり返し読むということが大事です。

 もう一度最初から読んでみます。「翌日、一行がベタニアを出る時、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉の他には何もなかった。」おなかがすいた、そこでいちじくの木を見ると葉は豊かに茂っていたが、実がなかった。主イエスの空腹を満たすものは葉ばかりのいちじくの木にはなかったというのです。空腹を満たすものがない、主イエスを満たすものがない、というのです。葉ばかり茂って、実がない。実(じつ)がないということです。

 主イエスとその一行はすでにエルサレムに来ていて、近くの町と行き来していました。その道中の話です。葉ばかり茂って、実がない無花果の木のようなのは、エルサレムのことです。主はエルサレムで神殿に行かれる。神殿は多くの人々が集まってきており、賑わい、人で溢れ返っている。神に対して無関心なのでも、信仰においても不熱心なのでもない。ユダヤ人にとって大事な祭り過越の祭りのために各地から人々は集まってきている。だが。本当に、神が喜ばれる、実を結ぶ生活をしているのか。エルサレムの神殿での光景は、葉ばかり茂って、実がない無花果状態なのではないか。

 わたしが生まれ育った家の庭には、大きないちじくの木が何本かありました。毎年たくさんのいちじくがなり、食べるのに追いつかないぐらいでした。しかし、ご存じの方も多いと思いますが、いちじくの木というのは、とにかく葉っぱが大きくなるのです。そして、ほかっておけば、驚くほど葉が茂るのです。広がる。場所を取る。今ここで問題にされているのは、実がなくて、葉ばかり茂るいちじくの木。それは今ここで主イエスの目からご覧になって、エルサレムの象徴そのものだったのです。エルサレムは当時巨大な宗教都市としての威容を誇っていました。見事な神殿、ヘロデの総督官邸、大勢の参拝客、過越の祭りに集まる人々の熱心さ。エルサレムの町を見て、感嘆する人、感動する人は多かったでしょう。

 しかしイエス・キリストから見れば、それは葉ばかり茂って実がない無花果の木だったのです。キリストを真実満たすものが何もない。のです。

 しかしユダヤの人々の多くは、そうは思っていなかったのではないか。宗教的にも、努力して、律法を守り、まじめに信仰生活を送っている、という自覚と自負があったのではないか。しかしそのまじめさというのは、なかなかに曲者です。自分がまじめに努力しているとか、一生懸命にやっているということに、人は知らず知らず酔いしれて、自己満足を覚え、いつの間にかそれが知らず知らず目的となっていき、神が悦び給う実を結ぶ歩みをしないだけでなく、反対の方向に向かって歩んでいるということになっていくのです。神の悦び給う方向ではなく自分が喜び、自分が納得する方向です。

 しかしそれなら、いったい「実」とは何なのか。何がこの人生における「実」なのでしょうか。

 翌日、再びいちじくの木のところを一行が通ると、昨日の木は枯れていました。しかも根元から。これまでお話ししてきたように、主イエスのなさる奇跡が「しるし」であるとして、このしるしは何を物語るのか。ペトロは、主がいちじくの木に向かって語った言葉を呪い、と言ったのですが、果たしてそれは呪いなのかどうか。

 主イエスはそこで、信仰の話を始められます。山に向かって、「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる、祈り求める者はすべて既に得られた信じなさい、誰かに恨みに思うことがあれば、赦しなさい、と信仰の話が広がっていくのです。これは、前後の文脈から言えば、エルサレルムのように、葉ばかり茂るものではなく、「実」を結ぶための歩みについて語っておられるのだ、ということはわかってきます。

 ある人たちはここで言われているのは、「実」とは口先だけの信仰ではなく、実践を伴う信仰だ、と言います。信仰が結果を生み出す、そういう信仰のことだ、と言います。我々が神のことをどれだけ持ち出しても、目の前の人を愛せない信仰など、「実」がないも同然だ、何をしたかが大事で、何を思ったかが大事なのではない。信仰によって山をも動かす、まさに結果を生み出す信仰。それが実のなる信仰だ、とこの話は繋がっているのだ、と。

 しかし、そうでしょうか。キリストは、そのような実践と結果を「実」として見ておられるのでしょうか。

 聖書はそれほど、人間に対して楽観的に見ているわけではない、と思います。実践を伴う信仰、信仰が結果を生み出す、その実践や結果が悪ということもあるでしょうし、そもそもそれが神を悦ばせるものであるより、人間を悦ばせるものでしかない、ということもしばしばあるでしょう。

 実践、結果が真実問われるのなら、うなだれるほかない、それが罪人である我々の姿。そもそも聖書には、人間が自分の力で「実」を結ぶことそのものに、関心を示していない。もっと言えば、人間が葉ばかりで、実がないのだ、ということも、キリストはご存じなのです。

 しかし、それなら人間は「実」とは無縁なものなのでしょうか。そうではないのです。22節で主イエスがはじめに「神を信じなさい」と呼びかけています。この言葉は、直訳すると「神の信を持ちなさい」という言葉です。「神のまこと、神の信実を受けなさい」と訳していい言葉です。

 すべてはそこから始まる、ということです。わたしたちの信仰から始まるのではなく、神の信実、キリストの信実を受けとめていく、そこから歩みだすのです。山を動かす力など、わたしたちにないことは明白です。誰かに恨みがあるとして、それを本当に赦すこと、それもわたしたちの力では無理なのです。

 ただ神の信実、まことがわたしたちを根底から支え、担い、活かし、導いてくださる。罪人の罪を負い、罪人の罪を赦し、罪人を活かし、罪人を新しいいのちへと招く、その神の力に出会い、その神のまことを受けて、歩みだす。その歩みが「実」なのです。葉ばかり茂るのは、神のまことを受けず人間の力にしがみつくからなのです。信じるということは、この神のまことを受けることであって、自分の信仰の力を信じることではないのです。自分の力では「実」を結べないわたし。キリストはそのことをよくよくご存じです。キリストはそのわたしたちを背負って、十字架にかかり、復活のいのちへと招いてくださる。その神の恵みの力、いのちの力の大きさを信じなさい。それは山を動かすだけでない、この世界を動かす力も持っている。それは罪人の罪を赦す力すら持っている恵みの力なのです。その神の信実を受けて、生きなさい。今日を生きなさい。そこに、まこと「実」となる歩みがあることを、信じていきなさい、キリストはそう言われておられるのです。