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マルコによる福音書連続講解説教

2022.6.5.聖霊降臨祭主日礼拝説教

聖書:使徒言行録2章1-11節『 聖霊の賜物 』

菅原 力牧師

 キリスト教、つまりキリスト教会が生まれていった経緯はそれ自体とても不思議なものです。例えば、主イエスと行動や生活を共にした弟子たちが伝道の歩みの中で、「先生、先生の指導の下、教会をつくりましょう」と声を上げて教会が生まれていった、というわけではなかった。

 弟子たちは、十字架の前で逃げ出してしまいました。恐ろしくなって、自分の身を守るため、逃げ出した。女性の弟子たちの中には、十字架までつき従ったものたちもいたのですが、男の弟子たちは、十字架が立つゴルゴダにも近づきもしない。どこかに引き籠っていたのです。鍵をかけ、閉じこもっていたのです。

 自分たちが裏切りや不信仰がもたらす結果のことよりも、自分の身を守ることに必死だったのです。主イエスにとって最も大事な時、十字架の時に、そばにいないで逃げ出し、肝心な場面で弟子であることを一切合切放棄した者たち。こういう者たちは、普通に考えれば、もはや弟子と呼ばれる資格はないし、裏切られた側からすれば、金輪際顔も見たくない、そう思われても仕方がない者なのです。

 しかし主イエスはそうではなかった。復活の主イエスはご自分の方から弟子たちに出会っていかれる。そして四十日にわたって共に過ごし、復活の主の言葉を弟子たちに与えてくださった。

 その時の様子が使徒言行録の1章に記されているのですが、主イエスが弟子たちに語ったことは、大きく二つあります。一つは、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」ということ。そしてもう一つは、「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、という二つのことでした。主イエスはそう語ったのち、昇天、父なる神のみもとに帰っていかれたのでした。

 二つとも聖霊の働きに弟子たちの心を向けさせる話でした。やがて与えられる聖霊によって、弟子たちはその働きの中におかれ、導かれ、聖霊の働きに巻き込まれ、包み込まれていく。あなた方は聖霊による洗礼を授けられる、と弟子たちに言われたのは、洗礼というのはそれまで悔い改めの洗礼、ヨハネによる洗礼でした。しかし聖霊による洗礼とは、イエス・キリストと繋がるということです。十字架にかかって罪に死に、よみがえって、新しいいのちに生きるキリストにつながる、接木される。キリストの体の肢とされる、それがいまわたしたちの与かっている洗礼ですが、そのようにキリストと繋がる、と言われた。そしてもう一つ、聖霊を受けて、力を受け、キリストの証人となる、というのです。

 この二つのことが、キリスト教会の始まりの根幹にあることです。教会は弟子たちの力で生まれたものではない。キリストに繋がれることと、キリストの証人となること、ここでキリスト教会は生まれていく、歩みだしていくのですが、聖霊はそこで主導的な力なのです。

 十字架の前で逃げ出していく弟子たちだったけれど、復活の主イエスに出会い、聖霊の働きの中に活かされていく。わたしたちは、ペンテコステの時に、その不思議を味わう、その不思議を感じていくことこそが大事なのだろうと思います。

 さて、使徒言行録の2章、五旬祭の日に集まっていた弟子たちはこれまでにない経験をします。五旬祭というのは、ユダヤ人にとって極めて大事な三つの祭りのうちの一つで、十戒を授けられた記念の日でした。この時には多くのユダヤ人がそれぞれの地域からエルサレムに集まってきます。そこにキリストの弟子集団もいたということです。120人ほどの人が集まっていたと言います。そしてそこに主の約束なさった聖霊が降ったのです。

 「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」風が吹いてくるような大きな音と、炎のような舌、それがそこにいた者たちに聞こえ、現れた。聖霊の働きは直接には見えないけれど、この時、音が聞こえ、舌が見えて、聖霊が天からの恵みであることを知ることができた、ということなのです。弟子たちはその聖霊により、いろいろな国の言葉で語り始めた、というのです。舌が見えたのも、この「語り」と関係があるのでしょう。

 一体聖霊によって何を語り始めたのか。イエス・キリストを語り始めたのです。この直後、ペトロが語り始める説教が2章の後半には記されています。ペトロの説教は、いわばキリスト教会の最初の弟子による説教と言ってもいいものですが、実に使徒言行録の全体が語るのも、聖霊を受けたキリストの弟子たちが、キリストに繋がれて、キリストの証人となり語り始めた、ということなのです。

 

 ペトロがそこで語っているのは、イエスという方は、神から遣わされた方であるにもかかわらず、人々はこの方を犯罪人として、十字架にかけて殺してしまった。だが神は、このイエスを死人のうちから復活させ給うた。神はこの方の十字架においてわたしたちの罪を背負い、罰し、赦し、わたしたちに新たな命を与え給う。要約すれば、そのような説教を語ったのです。

 弟子たち、聖霊を受けた者たちが、それぞれ自分の言葉で、キリストを語り始める。それはたんなるイエスに対する感想ではない。イエス・キリストはこのわたしにどう関係してくださり、わたしのためにどのようなことをしてくださったのか、イエス・キリストはわたしにとってどのようなお方か。弟子たちは語り始めたのです。

 自分本位、自己中心で生きてきた弟子たち。十字架の前で逃げ出し、閉じこもり、身を隠していた弟子たち。その弟子たちが聖霊に満たされ、キリストを語るものになっていくのです。

 最初に申し上げたように、大変不思議なことです。その不思議さをあらためて体感してほしいと思います。

 そのうえで今朝は、一つのことを申し上げたいと思います。

 聖霊は言うまでもなく、このペンテコステのときにはじめて与えられたものではありません。天地創造のはじめ、創世記に「神の霊が水の面を覆っていた」とあるように神の霊は創造のはじめから働いていたのです。

 おそらくは地よりもはるかに広く広がっていた水の面、その水の面を霊が覆っていたというのです。その光景を遥かに想像してみて下さい。水の面を吹き渡る風のように、神の霊が動いているのです。吹きわたっている。世界は神の霊の中にある、のです。もう一箇所、イザヤ書の11章には「水が海を覆っているように、主を知る知識が地に満ちるからである」という言葉があります。創世記1章の光景と、併せ思う時に、主を知る知識が地に満ちる時、とは、神の霊が水の面を覆っていた、ということに、近づいていくものだ、ということがわかるのです。

 今弟子たちは、聖霊の働きの中で、キリストに繋がっている自分を受けとめながら、キリストを証しし始めた。そしてそれが広がり、地の果てに至るまで、わたしの証人となるのだ、というキリストの言葉を担っていくことになるのです。

 それはどこへ向かっていくのか、というと水の面を神の霊が覆っていた、この世界のすべてを神の霊が覆っていた、というあの光景に向かっているのです。

 聖霊によってキリストに出会ったものたちが、聖霊によってキリストに繋がれ、キリストの言葉を地の果てまで証しする、それによって、主を知る知識が世界に満ちていく。そしてそれは水の面を神の霊が覆っていた、というあの原始の時の、そもそもの姿、そこに向かっていくということなのです。

 

 今朝わたしたちは、最初の教会の歩みが聖霊によって導かれ、始められたその様子を見ました。それは、何度でもいいますが、不思議、驚きというほかない。あの弟子たちが、変えられていくことも驚きですが、それ以上に、弟子たちが用いられていく、一人一人がキリストの証人として用いられていくことも驚きなのです。その驚きの中心は、聖霊の働きです。わたしたちの中から出てくる力ではなく、わたしたちの外から、神から与えられる霊の力です。ペンテコステの日に与えられた聖霊は、その後もこの世界に神によって与えられ続けています。いやただ与えられる、というだけで聖霊はわたしたちの内に内住することを聖書は語っています。わたしのものではない力がわたしの中で働いてい下さる。その不思議に不思議として出会える自分でいたいと思います。聖霊をわかろうとするよりも、聖霊の働きの不思議に、驚き続ける自分でありたいと思います。どんなに、貧しい者であっても、信仰の足りないものであっても、聖霊が生きて働き、このわたしをキリストにつなげてくださり、接木してくださり、キリストによって生きる者とさせてくださる、その恵みの不思議に感謝できる自分にさせていただきたいと思います。そして小さな小さな自分だけれど、神が聖霊によってキリストの証人として用いてくださることに、喜びと感謝で応えていきたいと思います。