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マルコによる福音書連続講解説教

2022.6.12.聖霊降臨節第2主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書11章27-33節『 主イエスの権威 』

菅原 力牧師

 この前の箇所でわたしたちが聞いたのは、主イエスが無花果の木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われ、エルサレムにおいては神殿で売り買いしていた人々を追い出した、ということでした。ここには、明らかに主イエスのエルサレムに対する発言があります。葉ばかり茂って実がない無花果と、エルサレムが重ね合わせられているのです。

 だがそれにしても、エルサレムの神殿の境内で、礼拝のために必要なものを提供するために店を出していたものたちを追い出す、という行動に出られた主イエスの態度は過激でした。しかもそれほどの行動をとった後でも、主イエスはエルサレムに毎日行くのです。主イエスが神殿境内で商人達を追い出した後、また神殿境内に行くということそれ自体、ある人々から見て、きわめて挑発的な態度です。それほどに主イエスの神殿内での行動は多くの人から憎まれた。一触即発、身の危険がある行動です。

 主はそのことを承知で毎日エルサレムに入っていかれた。すると、祭司長、律法学者、長老たちがやってきて、主イエスと弟子たちを取り囲んだのです。

 祭司長・律法学者たちというのは、主イエスを殺そうとしていた人たちでした。そこに長老たちも加わったのです。この人たちは、当時のユダヤの三つの主要グループで、このグループの中から、ユダヤ議会の議員は構成されていました。

 この人たちは主イエスにこう尋ねてきました。「何の権威で、このようなことをしているのか。誰が、そうする権威を与えたのか。」「権威」を巡る問いを投げかけてきたことの背景には、自分たちユダヤの宗教体制の権威を揺さぶり、たてつくようなことを主イエスがしている、という彼らの認識があったのだと思います。彼らの権威に逆らっている、逆なでしている、そう感じているからこそ、何の権威で、こんなことしてるんだ、と問い詰めてきた。

 つまりここで、祭司長たちは「権威」についての本質論議をしたいわけでも、イエスにとって権威とは何かということを問いたいわけでもない。彼らからすれば、権威を持っているのは我々であり、イエスには何の権威もない、それははっきりしているのです。イエスという男が、大工の息子であり、優れた律法の教師に学んだわけでもない、どこの馬の骨ともわからないやつ、と祭司長たちは漠然と受け止めていたでしょう。にもかかわらず、勝手に神の教えを人々を集めて語ったり、わけのわからん奇跡を起こしては、人心を惑わしている。挙句はエルサレムに来て、神殿で変な言いがかりをつけて暴れる。「何の権威があって、そんなバカげたことをするのか」。と言ったのもよくわかるのです。

 すると主イエスは一つの問いを祭司長たちに投げかけます。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものであったか、という問いでした。この主の問いかけは唐突のようにも聞こえます。なぜこんなところで洗礼者ヨハネの話を持ち出してきたのか、わからないからです。問題は、主イエスの言動、行動だったのです。それなのになぜヨハネを持ち出してきたのか。

 律法学者たちは洗礼者ヨハネの名前が出てきたことで、過剰に反応します。ヨハネがユダヤの多くの人々に支持される預言者だったからです。預言者ということは、神から遣わされた人ということですが、もしそれを認めれば、なぜヨハネの言葉に聞こうとしないだ、と群衆の反発を買うし、人からのものだ、と言えば、群衆は黙っていない、そう祭司長や律法学者たちはすぐさま反応したのです。

 だから彼らは「わからない」、と答えたのです。

 すると主イエスは「それなら何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えたのです。外から見れば、この両者の会話は直接答えず質問した主イエスと、それに応えることをためらい、わからないと言ってはぐらかした律法学者たちとの牽制の応酬のようにも受け取れます。

 ここまでのところ、先々週のいちじくの木の場面といい、神殿境内の場面といい、そして今日の場面も、主イエスの発言には、膜のようなものがかかっているように感じるのです。例えば、いちじくの木に向かって言われた主の言葉は、それだけではよくわからない。神殿境内での言葉も同様。しかし主はこれらの一連の言動において、とても大事なことを問いかけておられるのではないか。

 「何の権威で、このようなことをするのか」というのが祭司長たちの問いかけでした。権威と言っても人の権威もありますし、ある研究分野での権威、というようにいろいろな広がりがあります。しかし今ここで問題になっているのは、人間の権威のことではなく、天から来る権威のことです。もっとストレートに神から来る権威、神の権威が問われているのです。

 権威ということを、今あまり難しい話にしないで、平明に考えていきたいのですが、権威とはその相手の前で、素直に従っていくもの、また自分のおごりや高ぶりを打ち砕かれ、謙遜にさせられていくもの、まことの畏れを持つもの、頭を垂れていく。神からの権威、神の権威という時、自分の中の考え、思いがあっても、その権威の前で素直に従っていく、ということこそ肝要なことになる。

 キリストと出会い、キリストの言葉とわざに神のみ心があらわされていることを知らされたとき、キリストの恵みを受け、神がわたしたちを救い、導き給う、ということを知らされたとき、キリストとは、まことの神の権威を身に負うておられる方だ、ということがわかってきます。

 

 祭司長、律法学者、長老たち、この人たちは、文字通り、神の権威のもとにある人たちです。人間の権威ではなく、神の権威によってたてられた人々です。

 それは、言うまでもなくこの人たちが偉いということではないでしょう。もちろんユダヤ社会では、この人たちは高い地位についている。宗教的なリーダーとして、重んじられている。しかし大事なことは、この人たちが神の権威の前で、自分のおごりや、高ぶりを打ち砕かれ、へりくだり、まことの畏れを持ち、神に聞き従っていく、そういう権威の前での生き方を大事にしているかどうかなのです。

 神の権威を振りかざすことはたやすい。だが、権威を振りかざす人が、権威の前で謙遜に、信仰において生きることが大事なことであり、問われていることなのです。

 それは例えば洗礼者ヨハネの歩みと働きを、まっとうに見れるかどうか、ということにも表れてきます。ヨハネが神の権威の前で、謙遜に、畏れをもって、神に従い歩んでいるのなら、それを祭司長や律法学者や長老たちは見通せる、そういうものではないでしょうか。

 彼らは「わからない」と返答したけれど、本当にわからないのではないのではないか。わからないのではなく、群衆の視線を恐れて、わからないと言ったのです。それは神の権威の前で生きる者の態度としては後退ですよ。

 確かに、そういうことはよくあることだ、と言えばいえるのです。神の権威の前で生きようとしながら、気がつくと人間の視線ばかりに気にしている自分がいるとか、気がつくと他人の顔色ばかり見ている自分がいるとか。

 しかし、彼らは一方で神の権威を自分たちの看板にしていた。その看板を背負って、人を裁いていた。「何の権威でこんなことしているのか」という彼らの問いは、問いであるよりも裁きの言葉です。お前にいったい何の権威があるというのだ、何の権威もないくせに、こんなことしていいと思っているのか、という裁きの言葉です。その時、この祭司長や律法学者たちは、完全に勘違いしている。

 権威は振りかざすものではなく、自分自身が打ち砕かれ、へりくだるものとされていく、そういうものであることを見誤っていくのです。

 

 権威の事柄は、頭の中だけのことではない。あなたがどのような権威の前に立って、その権威の前で、素直に従い、打ち砕かれ、へりくだり、まことの畏れをもって、歩もうとしているか、ということと切り離して考えることはできない。

 ここに登場する祭司長や律法学者たちだけでない、おそらく主イエスは、エルサレムの神殿に集まってくる人々一人一人が、まことの権威の前に立って生きようと願っているか、問いかけておられるのでしょう。

 神の権威の前に立って歩む、ということはその人の生き方も変わっていくということです。根本的に変えていきます。自分本位とか、自分中心から時に喜んで、神の意志に聞き従っていくことになるのですから。

 神の権威の前に立つことは、具体的に、神のことばに聞くことと深く繋がっています。中身がないままに、神の権威神の権威と言い出すことは、もうすでに神の権威を振りかざしていくことにもなりかねない。

 一つ一つの主の言葉に聞きながら、打ち砕かれ、従わせてください、と祈りつつ歩むことが求められている。キリストの救いの業が、わたしをすべて包んでくださり、終末の完成の時に向かって、主の導きのうちに歩ませてください、そう願い祈ることが、わたしたちの神の権威の前での姿なのです。