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マルコによる福音書連続講解説教

2022.6.26.聖霊降臨節第4主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書12章13-17節『 神のものは神に返す 』

菅原 力牧師

 今朝の説教題は「神のものは神に返す」ですが、言うまでもなくこれは主イエスが今日の聖書箇所で語られた言葉、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」からとったものです。この17節の主の言葉、これをどう聞くのか、どう受けとめて、そしてわたしは生きるのか、それがこの聖書箇所のすべてです。

 エルサレムの神殿での宗教的な指導者たちが主イエスを取り囲むようにして、詰問してきた場面が続いています。ファリサイ派の人々や、ヘロデ派の人々が主イエスのもとにやってきました。「イエスの言葉尻をとらえて陥れようとして」、とあるのですが、言葉尻というよりも、言葉でとらえようとして、というのが直訳で、主イエスを言葉の罠にかけてとらえるためにやってきたのです。彼らはまず、主イエスに対して、慇懃な態度で語りかけてきます。しかしそれはたんに丁寧というのではなく、あなたが真実な方で、誰をもはばからない方であることを知っています、ということで、我々の質問に逃げることなく答えろよ、とやんわりと圧をかけてきているのです。彼らの質問はこうでした。「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか。」

 こういう質問が出てくるのには、複雑な背景がありました。その根本には当時のユダヤがローマ帝国に支配されていたということがあります。したがってユダヤの人々は人頭税と呼ばれる税金をローマに納めるよう求められる。その際にはもちろんローマの通貨で税金を納めねばならない。そしてその通貨には、「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」と言って文字が刻み込まれている。皇帝を崇拝すべしというのです。それはユダヤ人にとってどれほど屈辱的なことであったか。当然ユダヤ社会の中には、ローマに税金を納めるのをよしとしないグループもありました。熱心党と呼ばれる民族主義的なグループです。一方で納めたくないけれど、納めるしかないと思っていた多くの人々もいました。ファリサイ派も、ヘロデ派もそうでした。しかしだからと言ってこの問題に決着がついているわけではなく、ローマに税金を納める、ということは実に悩ましい問題でした。主イエスがここで、納めるべきだ、と言えばローマに批判的な人々は失望し、納めるべきではない、と言えば当然ローマに対する反逆罪にもなるのです。この問題を逃げ場のない形で二者択一で答えさせる、そこに彼らの下心があったのです。

 主イエスはその問いに対して、「なぜわたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と言われます。そして彼らが持ってきた銀貨を手に取り、これは誰の肖像と銘かと尋ねられた。銘というのは、この銀貨の製造者の名前のことで、先程申し上げたように皇帝の名前と肖像が彫り込まれていたのです。「皇帝のものです」と彼らは答えた。

 すると主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。不思議な応え方だと思います。銀貨に皇帝の名前と肖像があるのだから、皇帝のものは皇帝に返したらいい、というのは文字づらとしては、難しい話ではなく、分かるような気がします。だから納税したらいいと。しかし、主の答えはそれだけではない。神のものは神に返しなさい、と言われた。どうしてこういう言葉が続いているのでしょうか。

 この主イエスの応答に対して、いろいろな解釈が生まれてきました。よく言われるのは、皇帝のものは皇帝に、というのは、この世のことはこの世のこととして生きよ。だがもう一方で、神のものは神に、というのはこの世を超えた宗教的な世界のこと、信仰の世界の次元のことがある。この世の事柄と信仰の事柄とをごっちゃにしてはいけない。別の次元の問題だ。どんなにこの世の権力が力を振るっても、それはあくまでもこの世のこと。税金を納めたからと言って皇帝を礼拝することにはならない。大事なことはこの世のことはこの世のこととして、賢く生き、信仰の事柄、信仰の領分のこともきちんとしなさい、という具合に、理解する解釈です。政教分離とか、政治と宗教は別の次元、ということにもつながっていく、そういうふうに理解する解釈です。

 もう一つ有力な解釈があります。それは、わたしたちにはあまりピンとこないのですが、ユダヤでは人々は神殿税というものを取られていました。つまり、ここはローマに人頭税を払うかどうかとファリサイ派が尋ねてきたのですが、それは払ったらいいだろう、あなた方も神殿税というものを神のものは神に返せと言ってとっているのだから。自分たちは神殿税を取っていて、ローマの税金は払っていいか、などと質問すること自体おかしいだろう、という解釈で、主はここで皮肉を言っておられるのだ、という理解です。どちらの解釈もそれなりに根拠があると思います。しかし主イエスはここでそのような意味で、あの言葉を語られたのか。

 主イエスは先週の聖書箇所でぶどう園のたとえを語られました。そこで、ぶどう園で働く農夫たちは、ぶどう園を委ねられ、働かせてもらっているにもかかわらず、ぶどう園そのものを自分たちのものしようとして、主人の僕たちを殴ったり、辱めたり、挙句殺してしまったのでした。主人、オーナーがいるにもかかわらず、ぶどう園を自分たちのものにしようとした農夫たちが登場するたとえでした。あのたとえ話と今日の主イエスのみ言葉を、重ね合わせて聞く必要があるのではないか。

 神のものは神に返しなさい、という時、神のものとは何か、ということをあらためて受けとりなおす必要があります。自分が今生きていること、こうして一日一日歩み、働き、さまざまな関係の中を生きるそのすべてが神から委ねられたもの、与えられたものだ、ということです。なぜなら私たちが今生きているこの場所、ぶどう園のまことの主人は神だからです。これを受けとめていかなければ、神のものは神に返しなさい、という言葉は頭の中だけのこと、まともに自分に事としては考えないで、スルーしていく。ぶどう園の農夫たちは、そこで収穫したものを主人にお返しする、感謝と共にお返しする必要があった。なぜならわたしたちは葡萄園で働いている農夫だからですよ。わたしたちが今こうして命与えられ、生きて、歩んでいること、それはたんに自分の努力とか、頑張りのおかげというわけではない。神がこのわたしを活かし導き支えてくださっているのです。

 神のものは神に返しなさい、という言葉で、自分が死ぬときのことだと思う人がいます。与えられたいのちも、すべて神にお返しするのだ、というように。しかしそれは人生の最後の時の話です。生きている時には、返さないで、握りしめているのでしょうか。

 わたしたちはこの世に生を受けてから、否応なくこの世の中で、この世のさまざまなできごとや、ルールや、その時々の社会情勢や、時代の制約の中に巻き込まれて生きていきます。社会が不況に陥れば、当然それに巻き込まれていく。災害が起こることもある、思わぬ事故にも遭う、戦争が起こり、否応なく戦場に駆り出されるということもある。この世の権力の前で屈服させられていくこともある。けれども問題は、そのように生きるその中で、まことの主人がいる、ということを受けとって、このまことの主人によって活かされている自分を受けとめ感謝して、その都度、主人にお返しするものはお返しし、生きる、ということなのです。皇帝もまた、主人によって活かされ生きるもの、わたしもまたぶどう園で働くひとりなのです。

 その名前を聞いたことのある方もおられると思いますが、クリスティーン・ブライデンという方がいます。彼女は46歳の時に若年性アルツハイマー病との診断を下され、以後認知症と向き合いながら、歩んでこられました。彼女がアルツハイマー病と診断されたのは、1995年。その時彼女は科学者であると同時に、オーストラリアの首相の科学政策顧問を務め、政府高官として忙しくしていました。既に離婚しており、3人の子どもを抱え、病を宣告され、仕事もやめざるを得ず、途方に暮れました。さらに片頭痛も激しく、認知症も進み、暗澹たる日々を過ごしていました。彼女は40歳を過ぎたころに洗礼を受けていました。彼女は病の宣告を受けてから、キリストと新たに出会う経験を深めていきました。そして彼女はやがて本を書き始める。最初の本の原題が、「わたしは死ぬときに誰なのか」—アルツハイマー病者から見た世界—という本でした。この本は世界中で多くの人に読まれ、多くの人に生きる勇気を与えました。

 日本にも再婚された夫と共に何回か来日し、各地で講演彼女はその著書の中でこういう意味のことを言っています。「認知をはぎ取られ、感情も混乱して言った末に、死に至ると言われる病の中で、わたしは死ぬときに何者として死ぬのか、という究極のアイデンティティを探し求めた。その結果、真の自己を「霊性」に求めた。霊性とは、自分を超越した神と繋がる部分である。わたしは自分が神を覚えていられなくなっても、神に知られ、神に支えられている「わたし」であり、「キリストのからだ」なる教会において隣人に記憶されているわたしなのである。つまり、わたしが自分の名前もわからなくなって、死を迎えたとしても、神がわたしを知っていてくださり、記憶されているわたしなのである。彼女のアイデンティティは自分の中にあるのではなく、神の中にある。彼女は自分が神のものだということを再発見するのです。

 わたしはこの世でさまざまなものを経験する。さまざまな力に拘束される。災難や、困難、病気や、経済的なこと、その一つ一つがわたしをさまざま拘束する。しかしそうであってもわたしが神のものであることには何ら変わりがない。わたしは神に活かされ、神に委ねられ、神に愛され、神に知られ、最後には神のもとに帰るものとして今日ある。それが彼女のいう霊性です。なんと豊かな再発見か。

 神のものを神に返す。この言葉をわたしが受けとめることが大事です。そしてそれは、このわたし自身が神のものだということを発見し続けることなのです。そこからこの世を生きるまことの力は与えられる。この世に巻き込まれ、時に振り回され、しばしば拘束されつつも、安心して生きる力が、神のものを神に返すという歩みの中で、神から豊かに与えられていくのです。